019
「ネディアさんはもうダメね」
ドロシーが冷静に告げる。
通路ではユルズが叫び声を上げながら戦っていた。羽音と、虫が潰れる気色の悪い音が聞こえる。通路全体が騒がしい。緑色の液体が時折振ってくるが、構っていられない。すでに俺の全身は、カルマの血と斑食虫の体液でどろどろだった。水路全体から異臭がする。
「ユーリ、起きてください! 早く!」
アリシアさんがユーリさんを揺り起こす。声に焦りが出ていた。起きられなければ、ここに置き去りにするしかない。そう考えているのかもしれない。そして、多分俺もドロシーも、そう判断する。判断してしまう。
こうなればもう、優先すべきは命だ。依頼人の安全なんて言ってられる余裕はない。もちろん、可能なら助けるが、命をかけることはできない。
とてもじゃないが命に優先する金額じゃない。それは、ドロシーが俺にあらかじめ言い含めていたことだった。なにより、俺の命はシアラと繋がっている。今俺が死ねば、シアラも死ぬ。
それはできない。
深呼吸をする。胸焼けのする匂いが肺に満ちたが、けれど多少は心が落ち着いた。
頭が少しだけクリアになる。
「うぁ……あ、アリシア……?」
ユーリさんが目を覚ます。ゆっくりと頭を振って、周囲を見回した。ドロシーの向こう側にいるネディアさんの死体と、それを咀嚼する斑食虫を見て、息を呑む。
「……何人死にましたか」
「二人です。それから、ユルズがまだ上に」
「そう、ですか……」
苦虫を噛み潰したような声音。落ち着かない、無理矢理に感情を押さえ込んだような言葉だった。
ユーリさんが立ち上がる。
「コースケさん、ドロシーさん、二人とも動けます」
「ユーリさんの傷は?」
斑食虫の方を向いたままのドロシーに、ユーリさんが答える。
「大丈夫です。腕だけ。走るのに支障はありません」
「そう。それで、どうする? ユルズが生きているうちは、とりあえず大丈夫だと思うわ」
「ここに立てこもるのは?」
「斑食虫がいついなくなるかわからないのに?」
最もだ。どうするべきだ? 遺跡を出るのがおそらく得策だと思うが、もし洞窟の内部にも斑食虫が大量にいたらまずいことになる。
「遺跡を出るのが基本的な方針になると思います」
アリシアさんが言った。
「斑食虫は大量発生の後、メギルマ洞にはほとんど残らないんです。洞窟の外に出て、周囲の動物を襲います。街まで戻れれば最も安全ですが……。そうでなくとも、おそらく遺跡を出られれば安全でしょう」
「それなら、なんで遺跡内部には残ってるの?」
「推測に過ぎませんが、この遺跡そのものが斑食虫の巣なのかもしれません」
ゾッとする。ここが、この人工的な遺跡が、斑食虫の巣? だったら俺たちは、今、巣の中にいる異物なのか。
「……ともかく、分かったわ。最短ルートを戻るとして、走ればどれくらいかしら」
「倍の速度で移動できたとするなら、およそ一時間です。走り通しになりますが」
「それは無理ね。私やあなたたちはともかく、コースケはそこまで肉体労働専門じゃないから。もしあなた達二人がコースケを見捨てるなら、私はあなたたちを見捨てるわ。まともな戦力無しに遺跡を抜けられると思うなら、先行してくれて構わないけれど」
ドロシーが普通に依頼人を脅迫していた。そして俺は男としてかなりツラい。猫耳を持つユーリさんとアリシアさんは、種族的に運動能力が高いのかもしれないが、それでも一番体力ないのが男の俺なんて……。
「なら、できる限り急ぎましょう。もし細い通路に斑食虫が大量にいたら、その時はこの水路に立てこもる方が良いかもしれませんが……。その場合でも、食料が保つのは一日程度です。緊急用の携帯食しかありません」
そこまでユーリさんが言ったところで、どさりと、重たいものが降ってきた。ドロシーと俺の間に。緑色の体液に塗れたユルズの死体だった。力なく倒れ、そこには二匹の斑食虫が噛み付いている。巨大な肉塊が降ってきたことで、俺とドロシーの間は、分断された。
羽音が迫る。
ユルズが退けていた虫たちが、水路に降りようとしていた。
「伏せて! 《千の火剣》!」
ドロシーが叫ぶ。とっさにユーリさんとアリシアさんを水路に押し倒す。熱。光。頭のすぐ上を大量の炎が巡り、息が詰まる匂いが充満する。煙のような、黒い匂い。
軋む音が大量に聞こえる。焼かれた斑食虫の筋肉が、甲殻を軋ませている。不気味な音が満ちて、その音の合間に羽音も聞こえていた。
殲滅できたわけじゃない。ただの一時しのぎにしかならない。
これで二度。《千の火剣》の残りは一回限りだ。
「コースケ、なんか無い!?」
「《心意領域、微風の乙女を葬り去れ》!」
魔法的要素の強い呪文。この通路、という空間を意識する。形をイメージし、長さをイメージし、呪文の一部をそのイメージで代用することで、詠唱を短縮する。
通路内部のシルフの働きを低減させる。斑食虫の翼はシルフに働きかける呪文式を保った魔法器官だ。シルフの働きそのものを抑えることで、その昨日を低減させる。これでまともに飛ぶことができなくなるはずだ。足を使った移動速度がどの程度かわからないが、基本的に飛行に頼って移動している虫が、羽根が使えないからといってすぐに歩行に切り替えれるとは思えない。
その読みは当たっていたようで、水路にいる斑食虫もこちらに向かって来ることはなかった。
「とりあえず、これで上手く飛べないはず!」
呪文を維持するために、集中を切らすことができない。空間の隅々まで意識を走らせて、コントロールする。集中力が落ちれば、多分、効果が弱まる。
「ただ、ちょっと集中してないとだめだ! 先に逃げ道を確保して!」
「分かったわ。とりあえず、こいつらを潰す! 《岩の斧》!」
ドロシーの魔法が発動し、鋭い刃を伴った巨大な岩が、水路を二つに割った。石レンガごと崩し、ネディアさんと彼を咀嚼していた斑食虫を真っ二つにする。水路に溜まっていた水は崩れた石レンガの隙間から流れ出し、赤と緑の混ざった液体は一気に量を減らした。
「《岩の槍》!」
ドロシーが魔法でレンガを斜めに破壊する。崩れたその場所は、駆け上がるのにちょうどいい角度になっていた。滑りさえしなければ、すぐに水路から出ることができるだろう。
ドロシーがユルズの死体を踏み越えて、その際に二匹の斑食虫の首を斬りつける。一匹目はほぼ首を切断できたが、二匹目の途中で短剣が引っかかった。
「チッ!」
舌打ちをして、ドロシーがナイフを手放す。すぐに斑食虫を蹴り飛ばして距離を取り、俺たちに合流した。
「これで駆け上がれる。とりあえず、元来たルートを戻るわ。私は一応覚えてるけど、他に覚えてる人はいる?」
「私も大丈夫です」
アリシアさんが即座に応じる。
「なら、行くわ」
ドロシーの声で、俺たちは走り出す。依頼人である二人を真ん中にして、俺が最後尾だ。俺の体力のためにペースを落とすにしても、ひとまず帰るための通路に逃げ込まなければならない。この広い通路にいるのは危険だ。それが、言葉にしなかったが、全員の共通認識だった。
細い通路に逃げ込んでも安全が保障されたわけではない。けれど、少なくともこの場所にとどまることはできない。
俺の呪文は既に効力を失っていた。空間を正確に掌握しつつ走るなんて真似は、今の俺にはできない。長く正しく詠唱すればそれだけで良かったが、それを実行するだけの時間はなかった。長ったらしい呪文を唱えるなら、走った方が手っ取り早い。
斑食虫が三匹、ドロシーとユーリさん、そして俺に襲いかかってくる。
「クソッ!」
とっさに足を止め、斑食虫をやり過ごす。なんとか牙を回避し、すぐに駆け出した。怪我をしたユーリさんはアリシアさんが上手く庇い、ドロシーは問題なく斑食虫を仕留めていた。勢いをそのままに、斑食虫の死体がごろごろと転がる。
四人で通路に駆け込む。転がり込むように。すぐさま通路の先を見るが、斑食虫の影はなかった。
安全、なのか?
けれど、焦燥感と緊張は解けなかった。まだ何かいるのか、あるいは、ただ精神が状況についてこれていないだけなのか。どちらでもある気がした。
人がポンポン死んでいく。




