018
羽音がジリジリと神経を焼く。少しは数が減ったが、今やこの通路のいたるところを斑食虫が飛び回っていた。
俺たちと……つまり、ユルズ、ドロシー、アリシアさん、そして俺と対峙しているのは、三匹の斑食虫。
反対側の水路に移動するには、一度水路から上がらなければならない。この広い通路に直交する、さっきまで調べていた細い通路の下は、橋になっているわけではない。底に近い一に水を流すための空間が通っている程度で、あちら側を覗くことさえできない。
「コースケ、ちょっと判断ミスだったわね。一番のミスは、私がユルズと同じ側にきちゃったことだけど」
「まあ、今更そんなこと言っても仕方ねえ」
ユルズが槍を前方に向けたまま、大きな声で言った。
「とりあえずこの三匹をさっさと片付ける。斑食虫は群れ意識が強いが、臆病でもある。襲ってきたやつだけ倒せば、他はすぐに逃げるさ」
「そういうこと。さっさと片付けて、私が向こう側にいくわ」
「だいたい、カルマは向こうにいるしな。あいつは武器こそ持ってないが、魔法の使い手なんだ。斑食虫如きに簡単に殺されるやつじゃねえ」
魔法の使い手。この世界における魔法の使い手というのは、そんなに継戦能力が高いのだろうか。一気にやられるなら意味がない。……そう思ってしまうが、けれど、それを今言ったところで意味はなかった。
ああ、ダメだ。頭が上手く働かない。俺は焦っていた。
この世界の非日常さの、どこか傍観者でいられた今までとは全く異なる。今俺は、この世界の危険にぶつかっている、当事者だ。そのことが心を萎縮させる。
親父と対峙した時とは全然違う。生々しい恐怖。食うか食われるか。殺すか死ぬか。
《闇除けの呪文》によって見える、暗がりの中の斑食虫の口元が見える。不気味に動く顎は、人の腕くらいなら噛みちぎれるだろう。表情を一切感じさせない複眼が気色悪い。ブンブンと高速で動かしている羽根は、俺たちを威嚇するものだろうか。その羽音には威圧感がある。
水が跳ねた。二匹が迫ってくる。高速で飛行して、上下から先頭にいるドロシーを挟み込む。
頭部がブレて、それがドロシーの肩とふとももに噛み付こうとした動きだと、かろうじて認識できた。
次の瞬間には、ドロシーの肩に噛み付こうとした一匹は緑色の体液を噴出しながら、飛行した勢いのままこちらに飛んできた。体を傾けて跳躍したドロシーの、上を通り抜けて。
とっさにアリシアさんの腕を引いて庇う。虫の死骸は水路に沈んだ。足だけが動いているが、起き上がる様子はない。ただの反射動作だろう。ただ、そのことが尚更、気色の悪さを際立たせていた。
ドロシーが着水した。ふとももを狙ってきた虫の上空を飛び越えつつ、肩を狙ってきた虫を切り裂いたらしい。ふとももを狙っていた虫はユルズが槍で体の中心を突き刺し、殺していた。
「フン、やっぱ大したことはないな」
槍を引き抜きながら、ユルズが嘯く。
「逃げたか……。どうする、登るか」
水路の先を見ると、もう一匹いたはずの斑食虫は確かに逃げ去っていた。
「それが良いと思うわ。ただ、どうやって登る? アリシアさん、携帯梯子は持ってるんだっけ?」
「いえ、そういった小道具はすべてネディアが……。ただ、楔ならありますから、これをレンガの隙間に差し込めば、簡易的な足場になるはずです」
「オッケー。じゃあ、それでいきましょう」
ドロシーとアリシアさんは素早く話し合いを終えた。アリシアさんが手渡したハンマーを使って、ドロシーが楔がを壁に打ち込んでいく。水路の壁はすこし傾斜があるため、ちょっとのとっかかりがあればかなり上りやすくなるだろう。
「俺は飛び越えれば良いが、コースケはどうする? 上れるか?」
「いや、分かんない。運動苦手だしな……。でもまあ、多分大丈夫」
「そうか。じゃあまず俺とドロシーちゃんが登る。一応周囲の安全を確保してから、アリシアさん、コースケの順番にするか。お前、武器使えなくても、男なら殿くらいやれるよな」
「……アリシアさんにやらせることでもないしな」
挑発するようにニヤリと笑ったユルズに、言葉を返すだけで精一杯だった。
水路から上方を見上げる。この広い通路は天井も比較的高く作られている。ランタンの光が届かず、《闇除けの呪文》の視力でなければ天井が見えない程度の高さはあった。そして、その天井には斑食虫が大量に張り付いている。
斑食虫の大量発生源は、この遺跡だったのだろうか。可能性は高いはずだ。本来、この遺跡のあるメギルマ洞は、斑食虫の大量発生源だということだった。その内部にあるこの遺跡が実際の発生源だったとして、ならば外からは、メギルマ洞が発生源に見えるはずだ。
もしそうなら、俺たちは今まさに、大量の斑食虫と共にこの遺跡の中にいることになる。
無事に出られるのか。ここからどれだけ斑食虫を退けて進むんだ。遺跡に入ってから数時間が経過している。同じ時間で戻ることはできないだろう。
……違うな。それは後回しだ。今はネディアさんたちの無事を確認して、全員で話し合う必要がある。
「とりあえず大丈夫だ、二人とも上がってこい」
ユルズに言われて、俺とアリシアさんも通路に登る。斑食虫は至る所にいるが、こちらを意識しつつも警戒して近づいてこない、といった印象を受ける。
すぐに反対側の水路に向かった。
向かったのだが、水路を覗き込むよりも先に、アリシアさんの持っていたランタンが、それを照らす。
羽音を鳴らす斑食虫が、ぬっと水路から上がってくる。飛行して、口元に、生気の無いカルマをぶら下げて。
首もとから血液が滴り、手足は力なくダランと落ちている。首が曲がっていて、骨が折れているのは一目見て分かった。
「なっ!? こ、こいつ!」
ユルズが一瞬動揺したが、素早く斑食虫の……人間なら脇腹に該当する位置を狙って槍を突き出す。カルマを傷つけない、けれど斑食虫に攻撃できる正確な位置だ。瞬時に攻撃の判断ができたユルズは優秀だったのだろう。水路の上空にいる斑食虫を狙えるのは、ユルズの槍しかない。
だが、結論から言えば、ユルズはカルマごと斑食虫を刺し殺すべきだった。
ふらりと風に煽られたかのように揺れて、斑食虫はユルズの槍を回避する。そしてそのまま、素早く上空に舞い上がる。ランタンの光の外。素早く複数の斑食虫が集まり、天井近くで、カルマは食われた。
ぐちゅぐちゅという咀嚼音が聞こえる。血液が滴り落ちて、俺の頬を濡らした。生暖かい血が、服の隙間から流れ込んで、まとわりつく。悪寒が走った。気色悪い。そして、怖い。
怖い。
なんだこれ、人が、死んだのか?
ぼとぼとと食い残しの筋肉や骨や臓器や服の切れ端やぼろぼろになった彼の持ち物が振ってくる。それらがこつこつと体にぶつかって、痛かった。
痛いと思う余裕はなかったが。
「カルマァァァ!」
ユルズが叫ぶ。悲痛な声だった。そりゃそうだ。相棒が死んだら、誰だってそうなる。俺だって、死んだのがドロシーだったら、思わず叫んでいただろう。
それが多分、二つ目のミスだった。
通路の空気が変わった。斑食虫たちが全員ざわざわとうごめき始め、そして数匹が素早くユルズに向かってくる。
次の瞬間、今度は俺がアリシアさんに引っ張られて、水路に落下した。
痛い。鈍い痛みが体を覆う。そんなに深くない水だから、そりゃあ痛いだろう。ぼんやりとそう思う。
「ぐあぁぁぁぁあ!」
ユルズの悲鳴が聞こえた。ひっくり返った視界に、ドロシーが見えた。逃げ後れたのはユルズだけだ。ただ、斑食虫がまた水路に入ろうとする。
「行かせるかぁぁぁぁーーらあ!」
気合いの叫びと共に、槍が振るわれ、一匹の斑食虫が真っ二つになって落下してきた。
「コースケ! 水路を辿って逃げろ!」
なんで俺に言うんだ。
自分でやれよ。
「コースケ、立てる?」
「ああ、なんとか」
ぼんやりした頭のままで、ドロシーに助けられて起き上がる。
「ちょっと、ビビった。ダメだな、しっかりしないと」
「そうね。ましてや依頼人に助けられてちゃ、半人前よ」
ごもっともだ。水路を見回す。少し離れた場所に一匹の斑食虫がいて、ドロシーがそちらに短剣を向けていた。その斑食虫はうずくまって、ぐちゃりぐちゃりと咀嚼音を響かせている。
ネディアさんだった。
内蔵を食いちぎられて絶命していた。
目をそらして、周囲に視線を走らせる。そちらの斑食虫はドロシーが警戒している。他にいないか確認すべきだ。
水路の隅に、ユーリさんが倒れていた。腕から血を流している。駆け寄って呼吸を調べたが、幸いにも生きていた。気絶しているだけだ。
「ユーリっ! よかった……ッ!」
アリシアさんがユーリさんに駆け寄って、抱きしめる。
死者二名で、負傷者が一名。そして、ユルズはおそらくもう助からない。一瞬にして、最悪とも思える状態に陥った。
やっと話が動き出した……!




