007
気合いを入れて挑んでみると、本を読み終えるのにそんなに時間はかからなかった。
精霊の名前を見つける度に《呪文の王》で調べていけば、覚えるのも簡単だった。いろいろと面白い呪文も見つけたけど、やっぱり魔法的な素養が求められる呪文も多く、使いこなすのはすぐには難しそうだ。
一通り読んでしまった後で別の本を探そうかとも思ったけれど、闇雲に探しても呪文言語の記述がある本を探し当てられそうにないと思い直した。こちらの世界の言葉には、よくあるファンタジー系ロールプレイングゲームの創作文字みたいな雰囲気の、筆記主体の曲がりくねった文字が使われている。この文字もそのうち覚えたい……というか、文字を解読する呪文ってのはないんだろうか。
「まあ、そもそも音声翻訳はあるんだよなぁ」
俺が話した言葉はこちらの世界の言葉に変換されて伝わるし、あちらの言葉は俺には日本語に聞こえる。これが魔法でなく呪文によるものなら、筆記文字の自動翻訳も呪文でできるんじゃなかろうか。
「そうは言っても、言葉の精霊みたいなのはいなかったしな」
精霊というのは、この世界の法則そのものだ。
火が燃える、雨が降る、雷が落ちる、物語が伝承する、幸運が釣り合う、空間が結びつく、血が繋がる。
あらゆる事柄は、精霊によって引き起こされている。この世界では「自然法則」を「精霊」と呼んでいる、という表現もできるだろう。自然法則との違いは、呪文言語によって精霊を操ることができるという点だ。
より炎を大きくする。雨を集める。雷を纏う。物語を再現する。幸運を奪う。空間を歪める。血を繋ぐ。
精霊が持つ「操れる部分」を操ってさまざまな現象を引き起こす科学。その成果こそが呪文だ。
「つーか、チート能力も極まれりって感じだよな」
《呪文の王》は、前の世界で例えるなら、アインシュタインの登場を待たずに相対性理論を知っていることができるようなものだ。あの世界に自然法則を改変する手段はないから、威力は一枚落ちるとしても。それでも、あらゆる科学の発見を最初から知っているっていうのは、かなり反則だと思う。
そんなことを考えつつ、《呪文の王》の権能を使って言語の精霊について調べていくが、見つからない。意味とか、伝達とか、翻訳とかでも調べるが、表記された文を翻訳するような方法まではなさそうだった。
残念。文字が読めたらいろいろ便利だったのにな。
◇ ◆ ◇
フィーナさんが戻ってきたのは砂時計の砂が落ちきって、そこからさらにもう一度落ちきってからだった。どうやら「砂が全て落ちるころに」というのは、一回ひっくり返した上でという注釈を含んでいたらしい。そんなわけあるか。
「随分遅かったですね」
暇を持て余していた俺は、涼しげな顔で階段を下りてきたフィーナさんに抗議する。
「あら、時間ぴったりじゃない」
「ええそうですね。おかげさまで俺は暇でしたが」
「そんなに忙しい身分でもないでしょう? 貧相な研究者さん」
そう言って差し出されたフィーナさんの手に本を渡す。彼女は一通り本を捲って状態を確認すると、小さく頷いた。
「本の扱い方はきちんとしてるみたいね」
「乱暴に扱うのは畏れ多いですからね」
何だったか忘れたけど、とりあえずこの塔には古くて貴重な本ばかりがあるって言ってたしな。
「ここじゃ分からないけど、もう外は夕方よ。どうする? 他に読みたい本があるなら探してあげてもいいわよ」
「せっかくですけど、もともとちょっと様子見に来ただけなので。おかげさまで収穫もありましたけど。また明日来ますので、そのときは他の本を教えてもらえます?」
「ふうん、そう。もちろん構わないわよ。それじゃ、出ましょうか」
フィーナさんと共に一度三階に上がって、俺が読んでいた本を本棚に戻してから塔を出た。どうやら出る時もキーワードが必要らしく、フィーナさんが唱えると扉が開いていた。まあ、そうでなければ俺を一人でここに放置しないし、迎えにくる必要性もないよな。
セキュリティは万全ってやつだ。
渡り廊下から見た外は既に日が暮れていた。宿で二人が心配してるかもしれないし、急いで帰らないとな。
図書館には既に人気がなかった。出入り口近くにあるカウンターにいた他の二人もいない。俺たちは揃って入り口を出て、フィーナさんが扉を閉める。両開きの大きな扉が閉じられて、閂を通した。
「閉館してたんですね」
「まあね。今日は私が戸締まりの担当なのよ。もう全部やってしまってるから、あとは入り口の鍵を閉めるだけ」
そうすると、中にいたのは俺だけってことか。わざわざ待ってもらっていたってことになる。少し申し訳ない気分になる。……ていうか、閉館時間とかあるなら、その前に迎えにこいよ。
フィーナさんは錠前を取り付けて閂を固定した。前の世界でもよく見た、一般的なタイプの錠前。鍵がなくても閉じることができるタイプのやつだ。開ける時は別の人がやるのかもしれない。
「そういえばあなた、この街の人じゃないわよね?」
施錠を終えたフィーナさんと一緒に中心部に向かって歩く。そこから北東側にある宿に戻ると道に迷いにくい。ドロシーにそう言われたので、素直に遵守するわけだった。
体を傾けて質問してきたフィーナさんに答える。
「ええ、まあ。旅の途中で、この街についたのは昨日ですよ」
「ふうん。旅って、どこか目的地はあるのかしら」
「とりあえずはルディアを目指してますけど、まあもう目的地なんてあってないようなものですよ」
ルディアを目指してるのは、俺が自分で生活する手段を手に入れるためだ。けど、ルディアまでいかなくても、何かそういった方法がありそうな気もする。なにより、ドロシーと離れるのはすこし寂しい。
「フィーナさんはずっとこの街に住んでるんですか?」
「そうよ。だから、旅には憧れがあるの」
フィーナさんは目を細めて微笑んだ。
旅に対する憧れか。
旅人とか、冒険者とか、そういうファンタジーならではの職業に漠然とした憧れは、確かに俺にもあった。世界を旅して回って困っている人を助けたり、未踏のダンジョンや隠された遺跡を冒険したり。そういった『RPGの主人公』に対する憧れ。
ゲームはあんまりもってなかったというか、自分の家には置いてないんだけど、良太のところに遊びにいったときは二人プレイのできるRPGをやっていた。
だから俺の中にも、『RPGの主人公』に対する憧れの気持ちはある。
フィーナさんが旅人に憧れるのも、そういう気持ちだろうか。
「この街なら、旅になんて出なくても珍しいものがたくさんありそうですけどね」
「珍しい品物を見ることはできても、それがどこで作られているのかを見ることはできないのよ」
まるでわかってない人に諭すように、フィーナさんは言う。
「どんなものでも、どこかで生まれて、旅をして、そしてどこかで潰えるのよ。生命であってもね。何かが存在するということは、旅なのよ。生きるということは旅なの。私は私の旅をこの街の中だけで終わらせることに、不満があるわ」
ーー生きるということは旅。
そうだとしたら、俺は随分と長い旅を始めてしまったのかもしれない。
父親と戦ってきたこれまでの人生と、この世界そのものに挑まなければならないこれからの人生。どちらが楽と言うことではなくて、どうやら俺の旅は、そこそこに険しい道のりらしかった。それでいて、追い風が俺の背中を押してくる。
まあいい。今までとそう変わりはない。そうやって、俺は内心で決意を新たにした。
「フィーナさんって、詩人なんですね。今のはわりと良い言葉でしたよ」
「あら、ラウリルネ族は知識の民よ。これくらいは朝飯前なのだけれど」
「ラウリルネ族ですか? どんな種族なんです?」
そう尋ねると、フィーナさんはつまらなそうに口を尖らせた。
「確かにマイナーだけど、そんな風に『聞いたこともありません』みたいなリアクションだと面白くないわね」
「あ、すみません。俺、常識に疎いんですよね。ちょっと事情があって」
「ふうん……。ま、追求はしないけれど」
フィーナさんはため息をついて、ラウリルネ族について教えてくれた。気を悪くしたことはさっさと水に流してくれたらしい。
「ラウリルネ族っていうのは別名で『苗の民』とも呼ばれているわ。植物と共生する、いわば自分の体をそのまま植物の苗床にする一族よ」
「……それは、なかなか、なんというか」
グロテスク、と言おうとして躊躇した。なんて言ったら良いだろうか。
ちらりとフィーナさんの髪飾りを見る。鮮やかなオレンジ色の花の髪飾り。これはもしかして、本当は髪飾りじゃなくて……生花なのか?
俺の視線に気づいたフィーナさんが、髪飾りに指を伸ばす。触れるか触れないかの距離で、花びらを撫でた。紫の瞳が怪しく細められる。
「これはただのアクセサリーよ。ラウリルネ族が実に宿す植物は、私たちにとって必要不可欠なものなの。こんなに分かりやすい場所に見えるようにはしないわよ」
「そう、ですか」
この人、いまいち信用ならないんだよな。別に良いんだけどさ。この街にいる間の付き合いだろうし。
そうこう談笑しているうちに、中央広場に到着したらしかった。
「それじゃあ、おやすみ。貧相な研究家さん」
「ええ、おやすみなさい。明日もきっと図書館に伺いますから、もし会えばその時はよろしくお願いします」
それだけの何でもない挨拶をして、俺たちは別れた。




