013
ドロシーが俺の描いた呪文式の前に跪いて、目をつむる。荷物は全部俺が持っていて、その俺はドロシーの肩に手を置いていた。なるべくドロシーに近づいて、俺も砂の上に膝をつく。
「とにかくあの酒場の、あの部屋でいい。あそこに俺たちが立ってることにしてくれ」
「わかったわ」
「よし、じゃあ行くぞ。《天上の者の瞬き》」
キーワードを口にする。適当に設定したキーワードだが、この音を引き金にして、この呪文式に魔力が流れ始める。そして、式のそば、砂上に描いた円形の模様が、ドロシーを取り囲んでいて、彼女の魔力を下敷きに呪文が発動するようにしてある。
だから、ドロシーの意思に則って、《転移呪文》は発動する。
視界が、ブレる。
二重になる。甲殻竜が驚いたのか嘶くが、その音もはっきりとは聞こえない。
炎が見えた。
そして、ぼろぼろになった建物が。砂と泥を加工して作った壁が崩れ落ちて、停めてあった竜車も引き倒されている。
視界が定まったとき、そこは地獄だった。
人の気配はない。死の匂いだけがある。そして、大蛇がまだ、ここに居た。
空を覆う病目の大蛇。見上げて、炎に微かに照らされたその腹部を見て、俺は理解する。
病目。
まるで、眼球のような不気味でリアルな模様が、その腹部には施されていた。そしてそれは、グロテスクに動いている。ガクガク、ガクガクと。模様だけが動いていて、気色悪い。
腹部の模様が広がって、蛇がその鎌首を下げ、壊れた建物の中に頭を突っ込んで、何かを持ち上げた。蛇の巨体に比べて、あまりに小さなそれは、人だった。
舌がぬるりと、その人を飲み込んだ。
「……まじかよ、ディナー中とか、笑えねえ」
「コースケ、そんなことよりシアラを探すんでしょ! 私、市場の方見てくるから。危なかったら戦わないで戻ってくるからね!」
「あ、おお!」
ドロシーに言われて、蛇を警戒しながら周囲に目を配る。ここはどうやらあの酒場があった場所らしい。最も、それらしい壁が立っているだけで、もう人は誰もいない。
周囲は蛇に荒らされたのか、ぐちゃぐちゃだった。もう街の面影なんてない。ここが旅の中継地点になることは、もう当分ないだろう。
血が飛び散り、けれど甲殻竜も、人も、もうほぼここには居なかった。
ドロシーが向かった先とは反対側。つい数時間前に旅立った街の入り口。そちら側に向かう。そして、俺はそこでシアラを見つけた。
膝をついて、呆然としている。
かつての街を、ぼうっと眺めている。
何を考えているのか、何を感じているのか、わからない表情で。
「おい、シアラ! 大丈夫か、しっかりしろ!」
肩をつかんで無理矢理揺さぶる。目線を合わせて顔を覗き込むが、その目は奇妙に焦点がずれていて、俺を認識していなかった。
ぼうっとした金色の瞳が、炎と闇を反射して彩られる。そこに、シアラ自身の感情の揺れは見えない。
「シアラ! ぼーっとしてんじゃねえ、逃げるぞ!」
ひと際大きな声で叫ぶと、シアラは目を見開いた。瞳に意識が戻る。
「あ、コースケさん?」
俺を呼んだ瞬間、くしゃりと表情が歪んで、まるでそれを隠すようにして、額を胸元に押し付けられた。
肩が震えている。嗚咽が聞こえる。
「……わたっ、私の……おとうさんと……おかあ、さんも……」
過呼吸になりながら、必死に話すシアラ。
震えながら、痛いくらいに俺の腕を掴んで、ぐりぐりと額を押し付ける。腕に爪が食い込んで、痛みが走る。アテアグニ族の力で握られた腕は、みしみしと骨がきしむ。
それでも俺は、されるがままになった。
「あの蛇に、こ、殺された……なんで、いつも……、みんな、消えるの……」
何も言えなかった。
あの蛇を殺したって、ダメなんだ。もう。シアラの過去は、そんな事をしても変えられない。
でもあの蛇に執着するしかなかったんだ。あの蛇を理由にしなければこの街を離れられないほど、この砂漠を離れられないほど、死んでいった両親に、シアラは縛り付けられている。
「みんな、いなくなる! 私より先に死ぬ!」
「俺はーー」
ああ、ダメだ。
無責任な事を口にしようとしている。それはダメだ。でも、もう、これしか言葉がない。
「俺は、シアラの前から消えない。俺が一緒に死んでやるし、俺が死ぬ時は殺してやる。だから、もう大丈夫だ」
友達も血のつながった姉も、前の世界に置き去りにしてここに立っている俺が、一体何を言ってるんだろう?
「う、うそ、です。信じられません」
そうだよな。
信じられないよな。
俺だって信じられない。
だから、ーーおれは、深呼吸をして、心を決める。
こちらの世界に来てから、何となく姉の事を思い出した。その後で、この世界に置ける血のつながりについて《呪文の王》で調べていて、見つけた呪文がある。
弱々しくなったシアラの爪を解いて、抱きしめる。小さな体だ。俺よりどれくらい年下なんだろう。いや、年上っていう可能性もあるのか。竜人だし、歳の取り方が遅いのかもしれない。
できれば妹が欲しいんだけどな。
腰からナイフを取り出す。ドロシーが買い与えてくれた、新しいやつだ。
シアラから離れて、ナイフを構える。自分に向けて。
首の付け根、左側。そこを突き刺す。鋭い痛み。思わず怯むが、かまわずにナイフを埋め込んで、抜く。血がどくどくと流れ出るのが分かる。腕が震える。心臓がどくどくと早鐘を打つ。自分で自分を傷つけるという行為に、それも致命傷を負いかねない首を刺すという行為に、俺の精神が拒絶反応を起こす。
荒い呼吸を整える事もせず、俺を見て驚いて、そして怯えているシアラの背中に、左手を回す。
「なあシアラ。嫌だったら言ってくれ」
「な、なにを、ですか?」
「俺と血のつながった兄妹になろう」
「は……え……?」
「呪いだよ。俺が死ぬと君も死ぬ、君が死ぬと俺が死ぬ。この世で最も濃い血の契約だ」
「…………」
「俺には肉親がいないんだ。だから、シアラ。もし嫌じゃないなら、もし俺を君の死の道連れに選んでくれるなら、俺と兄妹になってくれないか」
血のつながった兄妹。それは、遺伝子の繋がった兄妹という意味ではない。
前の世界の兄妹と、全く異なる概念だ。
血のつながりは呪文的に意味を持つ。そしてこれは、血を繋げるための呪文だ。
不安そうにシアラの瞳が揺れる。
「わ、私を一人にしない、ですか?」
「しない。兄妹だからね」
「一人で死んだりしない?」
「死ぬ時は一緒だ。兄妹ってのはそういうもんだよ」
「困ったら助けてくれて、悪い事したら怒ってくれる?」
「もちろんだ。俺だって、昔居た姉さんには良く怒られたし、助けられたし、助けたし、怒ったもんなんだよ」
「おねえ、さん……もう、いない、の?」
「もう居ないよ。絶対にあえないんだ」
「……わたしも、一人」
泣きそうな、けど必死に笑おうとして歪んだ顔で、シアラは言う。
「私を、妹にしてください、お兄ちゃん」
「任せておけ」
そう言って、ナイフをシアラの左側の首の付け根に突き刺す。俺と同じように血が流れ、シアラがびくりと震える。ナイフを引き抜いて、地面に放り出す。
指で式を描く。簡単な式だ。でも、正確に書かなければならない。第二の視力を開いて、確認しながら描いていく。そして、手探りで自分の傷からも血液を引きずり出して、式を描く。
そして、シアラを抱きしめる。強く。傷を押し付けて、キーワードを唱える。
「《命を同じくする兄妹の誓い》」
傷が熱を持ったかのように疼く。血管の中を通って、血液がそこから流れ出る感触を感じる。そして同時に、流れ出た分と同じだけの血液が、入ってくる。熱い血だ。それが傷口から心臓に届き、這い回るように俺の全身を蹂躙してく。
ひどい目眩と吐き気が襲う。倒れそうになるが、シアラにしがみついてなんとかバランスを取る。シアラの方も俺の背に腕を回して、がたがたと震えていた。呼吸が荒くなる。意識が朦朧とする。漠然とした、肉体的な不安に襲われる。
思ったよりもきつい。
血液が俺の体を一巡すると、再び入れ替わる。それを何度も繰り返す。傷口が大きな穴になって、シアラの傷口と繋がったんじゃないかと思うような錯覚に陥る。
そうして血液が何度も循環し、やがて、それが停止する。
ぐしゃりと、体力を使い果たして、地面に倒れる。シアラと一緒になって。息が荒い。ものすごく長い時間が経過したような気がするけど、実際にはどれくらいの時間だったんだろうか。
息を整えて、ぼんやりとしているシアラに言う。
「これで、死ぬ時は一緒だ」
その言葉に、シアラは嬉しそうに微笑んだ。




