52.有給の使い道
ヴェルガはあれから、本当に俺の言ったことを律儀に守っていた。
俺は、ごみ捨ての時にたまに顔を合わせるくらいの接触だ。
これで仲の良い隣人へとステップアップできると奴はほくそ笑んでいたが、そんな未来は当然来ない。
そんな、隣に魔族が住んでいることがもはや日常と化したある日。
「霧島君、悪いんだけど、今週末出張をお願いしてもいいかしら」
伊吹課長に呼び出された俺が命じられたのは、二日間の出張だった。
「ちなみに拒否してもいいんですか?」
楠さんに借りた本は少しずつ読んでいるが、まだ全巻読破には至っていない。
今週は仕事も割とゆっくりしていたから、一気に読み進めようと思っていた俺は、伊吹さんに一応お伺いを立ててみるものの。
伊吹さんは有無を言わさない笑顔だった。
分かってる。
俺はしがない勤め人。
所詮上からの命令には逆らえない。
「……冗談ですよ」
そう答えたら、伊吹さんの笑顔が、さっきよりも柔らかいものになる。
「だけど、いい傾向ね。これまではこういう出張だって、嫌な顔一つしなかったあなたが。順調に社畜を卒業出来ている証拠よ。最近は帰りも早いものね」
「そりゃあ、まあ」
家にマオがいるからな。
仕事は好きだが、それでもマオと過ごす時間は俺にとっては何物にも代えがたい時間だ。
「あなたが一緒に住んでいる、例の彼女の影響かしら」
「さあ、どうですかね。ご想像にお任せします」
「ふふっ、まあいいわ。……そんな霧島君に、もう一つお願いがあるんだけど」
「なんですか? 高島との色恋沙汰の相談事とかはやめてくださいね。俺、そういう系疎いんで」
「違うわよ。あなたに相談しなくても彼とは順調だから。あなたへのお願い……いいえ、命令はこれね」
そう言うと、伊吹さんは俺に一枚の紙をぺらっと差し出す。
そこには、俺が入社して以来使われた有給の日数が、年度ごとに記載されていた。
俺は察する。
「あー、そういうことですか」
「そういうことよ」
並ぶ数字はゼロ。
「うちの会社は、極めて健全な会社なの。だから有給を使わない社員がいると困るって、霧島君に今の内から有休を取らせなさいって上から圧がかかったの。――この意味が分かるわよね?」
「……みなまで言われなくても理解しました」
そりゃそうだよな。
俺は素直に伊吹さんの言葉に頷く。
「ちょうどいい機会だし、この出張に有給をくっつけて、旅行にでも行って来たらいいんじゃないかしら。例えばあなたの彼女と一緒に。出張先の近くには、有名な温泉地もあるわよ」
「旅行ですか」
しかも温泉が近いと。
……俺は数日前のマオとの会話を思い出す。
休日にテレビでやっていた再放送の二時間ドラマ。
温泉地に取材に行った記者が、旅館での連続殺人事件に巻き込まれて、類稀なる推理力で解決するやつだった。
二十年前のドラマで、俺としては、あの俳優ってこんなに若かったのか、とか、やっぱ崖に犯人追い詰めるのは定番なんだな……と思いながら何気に見てしまったんだが、マオは明らかに目を輝かせてたな。
「この、温泉卵というのは、温泉というものの中に浸しておるのか?」
「晃、温泉饅頭とは、普通の饅頭とは何か違うのだ?」
「旅館の食事というのは、こんなにも豪華なのか」
感想のほぼ八割が食べ物だったのはともかく。
温泉自体にも興味を持っていた。
うちでもマオは風呂に入るのが好きで、湯船に浸かるマオの為に俺はせっせとよさげな入浴剤を貢いでは、買ってき過ぎだとマオに怒られるのはもはや日常と化している。
ということで、俺は伊吹さんと会社の圧に負け――いや、俺の意志で、この度初めて有給を取得することにした。
マオには速攻で連絡した。
どこに泊るべきか相談したら、俺に一任するということだったので、手が空いた時にネットで情報集していたんだが。
旅行の件を知った夏樹から、早速すぐにいくつかの宿をリストアップしたものが送られてくる。
「僕のオススメはここかな。相場よりは高いけど、部屋に露天風呂もついていて、部屋も広いからゆっくりできるよ」
某牛丼チェーンで昼飯を食べながら、リストの中でも特に一押しだという宿を教えてもらい、早速チェックする。
「へぇ、口コミも高いし、部屋もいい感じだな」
「食事も美味しかったから、絶対にマオさんも気に入ると思う。晃は平日に泊まるんだよね?」
「その予定だな」
出張は水曜日。
木金と連続で休みを取って、土曜日に帰る予定にしている。
日曜は、家でゆっくりしたいしな。
「週末じゃないからまだ部屋は空いてるかな……あ、でも人気の宿だからね。今見たら、一番高い部屋だけは空いてるみたい」
「じゃあそこにするか」
同じサイトを見て確認した俺は、すぐに予約のボタンを押す。
すると夏樹が、すごい顔で俺を見てくる。
「え、晃、予約したの?」
「夏樹のオススメなら問題はないだろう」
「そうじゃなくて……君、本当に金銭感覚大丈夫? ちゃんと値段見た?」
「……いや、見ずに押したな」
一応確認すると、二人分、二泊で、俺の先月の給料とほぼ同額だった。
「晃、その金額、絶対にマオさんに言わない方がいいよ」
「いやまあ、言う気はないけど」
「じゃあばれないようにしなよ。僕が思うにマオさん、そんな金額を自分に使われたって知ったら、絶対に気遣うから」
「ああ……」
身に覚えがあり過ぎる。
俺としてはマオが喜んでくれるならいくらでもつぎ込みたいが、マオはそうじゃないってのは嫌ってほど分かってる。
夏樹の言葉に、俺は力強く頷いて見せた。




