48.ヴェルガの襲来
その日は、何の予定もない休日だった。
マオが朝に起きた気配はあった。
だが俺は連日の疲れのせいで起き上がれず、一緒に外に行くことはできなかった。
せめてマオがいつものランニングから帰ってくるまでは、だらだらと怠惰な眠りの世界に旅立ってる予定だった。
つまり――完全に油断していた。
ピンポーン。
……無視無視。
ピンポン、ピンポン、ピンポン。
うるさいな……。
宅配便なら不在票を入れて帰るだろうし、知り合いなら事前に連絡が来る。
ピンポンピンポンピンポンピンポンピンポン。
「……何だよ」
布団に顔を埋めたまま呻く。
だが、次の瞬間、嫌なことに気づいた。
――これ、下のオートロックじゃない。
直接、玄関のチャイムだ。
つまり、既に何者かが建物の中にいる。
インターホンがまた鳴る。
……しつこい。
異様にしつこい。
「…………」
嫌な予感が、布団の中まで染み込んできた。
仕方なく体を起こし、寝ぼけ眼のままモニターを確認すると、すぐに画面が切り替わる。
そこにいたのは……。
白銀の髪をした、無駄に整った顔立ちの男。
「…………」
脳が、理解を拒否した。
一度、瞬きをする。
もう一度、画面を見る。
「………………」
三度目。
「………………は?」
そこに映っていたのは、つい二ヶ月前に暴れ回って去っていった、あの氷の変態貴公子だった。
「……いや、待て」
夢だ。
疲れている。
これはきっと幻覚だ。
だが、インターホンは現実を叩き続ける。
ピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポン。
「……出ないと、永遠に鳴らし続けるタイプのやつだな、これ」
出ない選択肢はない。
しかし、出るのも嫌だ。
脳内で一瞬、最悪の可能性が駆け巡る。
出た瞬間氷で貫かれる自分の姿が脳裏によぎる。
マオ曰く、あの秘薬は完璧だからヴェルガが俺に何かすることはないって話だが、相手はこっちの理解を軽く凌駕する変態だ。
薬の力すら屈服させててもおかしくない。
だが、現実問題鳴り止まないインターホンはうるさすぎる。
それに、今日出なかったとしても、しつこそうなあの男のことだから、連日押しかけるに決まってる。
俺は観念して、チェーンをかけたままドアを開けた。
「何の――」
言い終わる前だった。
ドアの隙間から突如、紙袋が突き出される。
「…………は?」
袋の中身が、ちらりと見える。
――蕎麦。
……なんで蕎麦?
俺が固まっていると、相手も動かない。
しばし、無言。
俺は袋とヴェルガの顔を交互に見て、慎重に言葉を選んだ。
「……いや、何これ」
毒か?
毒なのか?
それとも新手の呪具か?
するとヴェルガが、眉を吊り上げた。
「違うわこの戯けが!!」
声がでかい。
思わず顔をしかめるが、ヴェルガはその音量のまま言葉を続ける。
「引っ越したら隣人にそばを配るのが、人間界の礼儀だと聞いたんだ!」
「………………」
理解が追いつかない。
「……引っ越した?」
「そうだ!!」
胸を張るヴェルガ。
「私は今日から貴様の隣人だ」
思考が停止する。
頭の中で、何かが音を立てて崩れた。
「……ちょっと待て」
落ち着け、まず確認だ。
「今、何て言った?」
「引っ越してきたと言ったんだ戯けが! 何度も言わせるな!」
「……で、どこにって?」
「隣の部屋だ!」
俺は無言で、ドアの向こうを見た。
ヴェルガは、ドヤ顔でそばを差し出したまま、微動だにしない。
――ああ、これ、ただ事じゃないわ。
絶対に、面倒なことが始まっている。
それだけは分かった。




