46.魔界の変態その一の逃走
マオに、俺への危害を一切禁じる命令を下されたヴェルガは、真っ白に燃え尽きたようだった。
まあ、当然か。
ヴェルガはマオと生活するために人間界まで来たのに、俺というお邪魔虫がいる上、それを排除することももはや叶わない、
で、魔力をこの世界で溜めるのは膨大な年月がかかるから、すぐに魔界にも帰れない。
妄想日記は全没収され、禁忌の薬はヴェルガの体内に吸収されている。
つまり。
「……あいつ、完全に詰んでないか?」
「うむ。詰んでおるな」
床に転がる芋虫状態の四天王を見下ろしながら、俺たちは同時にため息をついた。
「ところでこいつ、どうすればいいんだ?」
この家に置くか?
マオとの生活を邪魔されたくない……ってのもあるが、いくら命を狙われることがないとはいえ、心情的にこいつと暮らすのはきついから、勘弁願いたい。
もしくは警察に引き取ってもらうか?
……何をどう説明しろと。
ただでさえややこしいのに、マオの方まで飛び火したらかなわん。
これ、詰んでるのは俺達もおんなじなんじゃ。
マジでどうしようかとと思っていた、その時だった。
ヴェルガが、もぞりと動いた。
「……ま……おう……ざま……」
いや、まだ言うのか。
次の瞬間、ぶちっという、嫌な音がした。
「え?」
見ると、ヴェルガが芋虫状態のまま、体をよじらせながら、ビニール紐を引きちぎっていた。
どうもモゾモゾしてたせいで、紐が緩くなってたようだ。
ヴェルガはゆらりと立ち上がる。
半泣きで半狂乱のヴェルガは俺よりもタッパもあって、危害を加えられないと分かってても足がすくむ。
だが、マオにはもう魔力がない。
こいつにマオがなんかされる可能性も考え、俺はすぐにマオの前へと立つ。
「あ、晃、下がるのだ!」
珍しく、マオの声に焦りが滲んでいた。
「ヴェルガは晃に手出しできぬ。お主が前に出る必要などもうどこにも……」
「いや」
俺は、短くそれを遮る。
「こいつがマオになんもしないって保証はないだろうが」
自分でも驚くくらい、声は落ち着いていた。
「今はマオの方が無防備だろ。 魔力もなくて、あいつが何をするか分からない状況で、俺の前に立たせるわけにはいかないって。――さっき守ってもらったお返しだ。今度は俺にマオを守らせてくれ」
「っ、晃……」
我ながら、格好つけた言い方だとは思う。
だが、引く気はなかった。
ヴェルガが俺に害を加えられないなら、必然俺の後ろにいるマオにも手出しはできんだろう。
仮にあの薬に効果がなくて俺が攻撃されたとしても、相手はかなりのボロボロだ。
一ノ瀬さんみたいに俺に格闘技の経験がなくとも、十分に勝機はあるはずだ。
多少の怪我もまあ覚悟はしている。
しかし、俺の予想に反して、ヴェルガはマオを愛おしそうに見つめたあと、すっと俺達の前を通り過ぎる。
「え」
動揺で声を漏らすと、既に玄関まで移動していたヴェルガが、
「覚えていろ……覚えていろよ霧島晃……!」
涙目状態、しかし相変わらず無駄にでかい声で叫ぶ。
「私は絶対に諦めない……魔王様との異世界まったりイチャイチャスローライフを……! 必ず……必ず実現してみせる……!!」
そんな宣言を残し、ヴェルガは勢いよく玄関を開け――逃げた。
嵐のように。
……残されたのは、静寂と、嫌な予感だけだ。
「……追った方がよかったか?」
「問題ない」
マオは短く答え、指先を軽く振る。
「最後の魔力で、印を付けた。あやつがどこにいるかは、我が把握しておる。もし人間に危害を加えるようなことがあれば、すぐに粛清しに行く。とはいえ、その心配は皆無だろうが」
「そうなのか? でもあいつ、相当な変態だったぞ?」
「大丈夫だ」
マオはまるでヴェルガを信頼しているかのような瞳で、あいつの去ったドアを見つめ、言った。
「あやつは我さえ絡まなければ、概ねまともだ。悪戯に人間を傷つけることはせん男だ」
「……」
不安はあるが、それでも、マオがそう言うなら信じるしかない。
「……なあマオ」
「なんだ」
「なんつーか……」
俺は、玄関の向こうを見ながら呟いた。
「誰かをむやみに傷つけることはないかもしれんが、なんか今後、俺たちの周りで絶対面倒なこと起こしそうな気はしてるんだが」
俺に害は加えない。
その上でマオとの……なんだっけ、異世界まったりイチャイチャスローライフか? をどうにかして送ろうと画策してくる気がする。
するとマオは同意するような頷いた。
「……否定はせぬ」
「……ですよね」
俺は大きく息を吐いた。
「まあ、うちに置くよりはマシ、か」
「うむ」
マオは俺を見て、静かに言った。
「……晃」
「なんだ?」
「さっきは、その……我を庇うように前に出てくれて、感謝しておる」
少しだけ言いづらそうに、けれど誤魔化さずに、マオはそう言った。
俺は一瞬だけ視線を逸らして、頭を掻く。
「いや、別に。ああいう場面なら、誰でもそうするだろ」
首を傾げるマオに、俺は肩をすくめた。
「少なくとも、俺はそうしたかった。あいつのあの感じならマオを攻撃するとか、そんなんはないって分かってんだけどな。それでもやっぱ、あいつに触れられるのも嫌っていうか……」
……と、言いながら俺ははっとする。
待て。
何を言ってるんだ俺は。
触れられるのが嫌って……それ、完全に俺の私情だろう!
正直に言ってどうする!
急に自分の言葉が恥ずかしくなって、俺はごほんと咳払いをした。
するとマオは、一瞬きょとんとしたあと、ふっと表情を緩める。
「……それでも、我は嬉しかったのだ」
そう言ってもう一度、はっきりとマオは俺に告げた。
「ありがとう、晃」
その声は柔らかくて、ほんの少しだけ頬を染めたマオの微笑みは、夜の静けさの中でやけに胸に響いた。
……やばい。
空気が甘い。
マオが可愛すぎて手が出そうだ。
これはまずい、非常にまずいって!
俺は慌てて視線を逸らし、わざとらしいくらい大きな声を出すと、急いで話題を変える。
「そ、それにしても、変態一人と対峙しただけで、こんなに疲れるとは思わなかったわ!」
「……そうだな、我もだ。まさかヴェルガが来るとは。しかし、いつか来ることもあるかもしれんと、予想もしていたことではあったが」
「そうだったのか?」
「あやつの性格は理解しておるからな。遅かれ早かれ、といったところだ」
と、その時俺の腹が鳴った。
時計を見ると既に遅い時間。
とりあえず。
「晃、今はとりあえず、晩御飯にしようではないか」
「だな」
そうして俺達は、同時にため息をつきつつ、晩飯と晩酌の用意に取り掛かるのだった。
――ああ。
きっとこれは、終わりじゃない。
そんな、嫌な予感だけを残して。
で。
その、二カ月後。
――ヴェルガが隣に引っ越してきた。




