42.マオと嫉妬
荷物は重いが、今日の俺の足取りは軽い。
なぜなら楠さんに小説を借りることができたから。
本編四十巻、外伝十巻の全五十巻で構成されており、久しぶりにお気に入りの小説を読めることに、人生の楽しみが増えたと思わずスキップしたくなるくらいである。
勿論、夕方のそこそこ往来のある道で、いい年した仕事帰りの男が、ウキウキでそんなことするなんて恥ずかしい真似はしないが。
まあ、異世界帰り直後はスキップしながらコンビニに向かったわけだが、夜で人通りもなかったし、テンションおかしかったから、あの時の俺のことは記憶の奥にしまっておくことにして。
あと、文庫本とはいえそれなりの重量の荷物持っての軽やかな動きはなかなかにきつい。
こんなに重いものを会社まで女の子の後輩に運ばせてしまったことに、俺は再度申し訳なさを覚える。
だから今度マジで彼女にはいいもん奢らないとなと考えながらマンションへ帰るものの、珍しくマオの出迎えがなかった。
今から帰る連絡に返事はあったし、電気もついているから、中にはいるんだろう。
なので、そのままリビングのへ足を踏み入れると、ソファに座って黙々と読書に勤しむマオの姿があった。
一体何をそんなに真剣に読んでいるんだと思ったが、マオの前のテーブルに積まれた本の題名を見て、そういやそうだったなと反射的に口元が引きつる。
作品名『触手使いのおっさんとエルフ少女達とのハーレム生活』、著者名は『ぬるっと舐め子』。
……さすがに本名ではないとはいえ、ペンネームの破壊力よ。一目でそういう系統の小説を書ていると分かる名前である。
しかしながらぬるっと舐め子先生の話は、しっかりとした性描写も売りの一つだが、キャラクター一人一人の緻密な感情表現も大変評判がよく、女性のファンも多いと聞く。
マオが俺の帰宅にも気付かないくらい本の世界に入り込んでるんだから、その話もあながち間違いじゃないんだろう。
折角集中しているのに邪魔するのも悪いよなと思い、先にシャワーでもするかと風呂場に向かいかけたところで、キリのいいところまで読み終えたのか、マオがふっと顔を上げた。
「!? あ、晃、帰っておったのか!」
本を閉じ、慌てて立ち上がったマオは、すまなさそうな表情で俺を見る。
「つい本に集中してしまっておってな。お主の出迎えを忘れるどころか、帰宅にすら気付かなかった……」
「いいって別に。マオが集中するくらい面白いんだろう、それ」
すると彼女は途端に赤の瞳に星を散らし、さっきまで読んでいた本を持ってずいっとこちらに詰め寄る。
「そう、そうなのだ! これは、ある日体からいきなり触手の生えた主人公が、旅先で出会うエルフの少女たちに次々とその触手を使って卑猥なことを仕掛け、身も心も陥落させていくという話でな。男性の成人向けというだけあってその描写は生々しく官能的で、我が男であったならばおそらくたまにお主がなっているように下半身がむくりと反応していただろうと推測できるほどだ!」
「うん、俺のそういう情報は入れんでいいから」
「しかしながらそれ以外のシーンも非常に秀逸でな。……例えば一巻百三十五ページから十ページほどにわたって書かれた、一人のエルフ少女の独白シーンは、彼女の境遇や心情が細かく綴られておって、これが成人向け小説だということを忘れてしまうほどで、思わず目が潤んでしまった。それ以外にも張り巡らされた伏線も見事で、ページをめくる手をなかなか止められんでな。晃も時間があれば是非読んでみるといい!」
マオがここまで大絶賛するのだ。
多分、本当に面白いんだろう。
俺としても興味は湧くが、もしそういったシーンに遭遇して自身の下がうっかり反応した場合、舐め子先生本人と会社で顔を合わせた時に目を逸らしてしまいそうな気がする。
そうなるとあの後輩のことだから、根掘り葉掘り聞いてきて、最終的に、
「私の書いた小説でもっこりさせる先輩は最低ですけど、それだけ私の才能がすさまじいということですね。これは是非会社のみんなにも自慢しないと」
とかなんとか言って、喜々として周囲に触れ回りそうな気がする。
本来ストッパー役となるべき彼氏は、仕事では頼りになっても彼女のことになるとネジが数本抜け落ちることは、この間の遊園地でも嫌というほど分からせられたので、そっちが止めてくれるなんて期待はできない。
それに、俺には今日借りてきたばかりのこの本がある。
いつまでも借りっぱなしってのもなんだし、できるだけ早く読んで返すべきだろう。
「あー、マオ、実は後輩から別の小説を大量に借りてきちゃってさ」
「ほう、もしやこの紙袋がそうなのか?」
俺がテーブルに置いた袋を覗き込みながら尋ねられたので、肯定するために頷く。
「小学生の頃めちゃめちゃはまってたやつでさ。後輩の前で何気に、読みたいんだけど紙書籍版が今売ってないって話したら、持ってるから貸しますよって言ってもらって。だから読むなら先にこっちからにするわ」
すると紙袋の中から本ではない何かを取り出したマオが、普段よりもわずかに低いトーンになる。
「……晃、もしやその後輩というのは、女の子なのか?」
「え? ああ、そうだけど。よく分かったな」
「袋の中に手紙があったんでな。字の感じといい、そうなのだろうなと」
そんなの入ってたか?
しかし、どうやら本と紙袋の隙間に落ちていたようで、マオから渡された封筒のない薄ピンク色の便箋には、楠さんらしい柔らかい丸字で、
『返却はいつでもいいので、急がなくても大丈夫です。霧島先輩のペースで読んでくださいね』
と書かれてあった。
まあ実際、普段は仕事もあるし、週に三冊くらいが限界だろう。
さすがに一気に返すのは彼女の荷物になるから、そのくらいのペースで返却していくかと考えていた俺だったが、ふと目に入ったマオの顔が浮かないことに気付いた。
「マオ?」
怪訝に思い呼びかけると、なんとも微妙な表情のままのマオは、予想外の質問を口にした。
「ちなみにその後輩とやらと晃は、どういった仲なのだ?」
「え? どういったって……。彼女が研修期間だった時の教育係が俺で」
「仲が良いのか」
「まあ、悪くはないよな。顔合わせたら普通に会話はするし」
「そうか」
そう言ったっきり、マオは口をつぐむと、顔を伏せる。
どうにも様子がおかしい。
尋ねても、マオからは何でもないと返され。
しかしどう見たっていつもと違うマオの姿に首を傾げていたら、目の前のマオが腕を伸ばすと、俺のシャツの胸元をぎゅっと握る。
唐突過ぎるこの行動に、思わず俺は目を白黒させ、その真意を測ろうとマオの顔を覗き込もうとするが、彼女の髪の毛で表情は覆い隠され、よく見えない。
だが、縋りつくように伸ばされた白い腕と、服越しだが感じるマオの指の感触に心臓が早くなるのを感じ、それを悟られないように一刻も早く収まれと念じていたら、ふっとマオが口を開いた。
「その、本を貸してもらうくらい、相手が男だろうが女だろうが気にするようなことではないというのは分かってはおるのだ。しかし、それなのに相手が女の子だと聞いただけで、我も自分でよく分からんのだが、胸が妙にざわついて、嫌な気持ちになってな」
そう言って顔を上げたマオの顔は、これまで俺の見たことのない類のものだった。
怒っているわけではない。
かといって悲しんでいるわけでもなく、さっきの台詞と併せて考えるに、もしかして今のマオって嫉妬してる……とか?
その瞬間、俺の心臓は通常運転に戻るどころかますます早くビートを刻み、顔に一気に血液が送り込まれ、火を噴きそうなほどに全身が熱くなる。
うーわ、ヤバいわこれ。
本当にそうなのか絶対的な確証はないが、もしも、万が一そうだとしたら、マオは俺の思っている以上にこっちに好感持ってくれてるってことで、それだけで勝手に顔がにやける。
締まりのない顔になるついでに理性も緩み、
「急に服を引っ張ってしまってすまなかった。……シャツが皺になってしまうな。すぐに離す」
という言葉と共に離れていく熱をこの手で掴んで、腕の中にマオの体を閉じ込めそうになる。
だがそれはまずいと、何とか腕を磁石のように自分の足に貼りつかせ、欲望を形にするのを抑える。
もしも勘違いだった場合、あまりにも俺がいたたまれなさすぎる。
そしてマオに、急に抱き締めてきて気持ち悪いって言われたり、冷たい視線を浴びせられたら、俺の心は間違いなく死ぬ。
まだまだこのぬるま湯みたいな居心地のいい関係を続けたい俺としては、それは避けたいのだ。
だからマオが離れた隙に、自分の顔を見られないように急いで部屋の端へと移動すると、窓を大きく開ける。
「あー、なんか今日は暑いよな。けど夜はこうして窓開けてると風が通るからちょうどいいわ」
我ながらわざとらしい誤魔化し方かもしれない。
だが、あのまま真っ赤な顔になった俺をマオに見られる、もしくは俺がマオに不埒な真似を働くことになるよりもマシだろう。
しかしここで唐突にマオが叫ぶ。
「晃っ! 今すぐ窓を閉めるのだ!」
温かった空気を切り裂くほどに鋭いマオの声に、俺は何か彼女を怒らせたのかと、そう思ったのだが、振り返ったマオの顔は焦りを含んだ非常に険しいものだった。
あまりの気迫に押され急いで窓を閉め鍵をかけたら、いつの間にか俺の傍まで来ていたマオが、いきなり俺の体を何かから守るように自分の後ろへと引っ張り、真剣な表情で何かを唱え始めた。
と同時にマオの体から目に見えない何かの力が発せられ、それがこの部屋全体を覆っているのが空気感で感じられた。
「お、おい、一体何が」
マオは明らかに魔法を行使している。
それも、この間元カノに使ったような、もしくは自身の酔い止め防止の為のものとは格の違う、たとえるなら勇者戦で使用した類の超強力な魔法だ。
マオは詠唱を終えたタイミングで俺を見る。
額には大粒の汗が浮かび、明らかに何か異常事態が発生したのだと悟る。
「晃、我は今、この数カ月で溜め込んだ全ての魔力を注ぎ込みこの部屋に結界を張った。だが、それでも多少は衝撃が来るやもしれぬ。一応備えておいてほしい」
「来るって何が……」
するとマオは眉間に刻んだ皺を更に深くさせ、絶望を滲ませた声で答えた。
「我に度を超えた忠誠心を捧げる、魔界の変態にこの場所を特定された。奴が────魔界の四天王の一角を担うあの男、ヴェルガが来る」
そう言い終わるや否や、突然部屋に大きな衝撃が走った。




