41.●後輩から見た先輩
入社してすぐのこと。
社会人なりたてほやほやの楠穂乃果の教育係になったのは、よくよく目を凝らすとわずかに目の下に隈の残る先輩だった。
「どうも。俺は霧島晃だ。分からんことがあったら、遠慮なくなんでも聞いてくれていいから」
「は、はい! 楠穂乃果です。よろしくお願いします!」
一体どんな人が自分の指導にあたるのだろうと、会うまでドキドキしていた穂乃果。
できれば優しそうな先輩だといいんだけど。
けれど実際初めて顔を合わせた先輩は、若干不健康そうな顔色の悪さを除けば面倒見のよさそうな人で、そのことに彼女は内心胸を撫で下ろす。
意気込みながらぺこりと頭を下げて挨拶を済ませ、早速彼の指導の下業務に取り掛かった穂乃果だが、まだ仕事に慣れていないせいか、早速初日にミスをしてしまう。
「すみませんっ! お願いされていたデータ入力、保存を忘れてうっかりファイルを閉じてしまって……!」
いくら新人だからってありえない。
どうしよう、こんな簡単なこともできないなんて、お前は役立たずだとか、もう会社に来なくていいとかそんな風に言われてしまうんじゃないか。
まして相手はこの課の中でも一二を争うほどの仕事のできる人のようで、実際穂乃果に仕事を教える傍らで自身の仕事も猛スピードでこなしつつ、別の後輩の相談にも乗っていた。
そんな人にこんなくだらないミスのせいで時間を取らせてしまって申し訳ないと、お叱りの言葉が来るのを覚悟していたのだが、当の先輩はまったく怒っている様子はなかった。
それどころか、
「そんなに気にすんなって。ミスは誰にでもあるし、俺も新人の頃、楠さんと同じような失敗もしたっけ。次しないよう気を付けてくれたらいいから」
そして、今にも泣き出しそうな穂乃果を元気づけるようにだろうか、少しだけ表情を和らげて見せた。
けれどやはり初歩的なミスをした自分が許せず、落ち込む気持ちを引きずりながらなんとか昼休憩が始まるまでに作業を終え、友人と昼食を済ませたものの、気持ちが浮上することはなかった。
すると、休憩も終わる間際、外に昼食に行っていたらしい先輩が、コンビニの袋を手に下げた状態で穂乃果の席にやってくると声をかけてきた。
「よう、楠さん。ちゃんと昼飯は食べてきたか?」
「霧島先輩! はい、午後の業務に備えてしっかり食べてきました」
「ちなみにどこに行ってきたんだ?」
「会社の一階にある食堂です。他の課に配属された同期の子達と一緒に」
「そっか、うちの社食、安くて旨いからおすすめだぞ。ちなみに俺のお気に入りは親子丼だな。サービスでついてくる吸い物まで美味いんだよ」
「そうなんですね。私は今日はきつねうどんを食べたんですけど……。今度はそれを食べてみます。ところで霧島先輩はどこでお昼だったんですか?」
「ああ、俺は今日はガッツリの気分だったから牛丼食べに行ってきた。で、帰りにコンビニでおやつ買って帰ってきたとこ」
と、ここで、先輩はコンビニ袋をがさがさと漁りながら穂乃果に尋ねる。
「なあ、ところで楠さんって、甘いもんとか好きか?」
「え、っと、はい、すごく好きですけど……?」
「そっか、ならこれやるよ」
そう言って渡されたのは、ほのかも好きでよく食べているチョコレートのお菓子だった。
「これは一体……」
すると晃は頬を掻きながら、少し恥ずかしそうに視線を逸らすと、
「あー、いや、さっきの失敗、まだ引きずってんじゃないかって思ってさ。だからまあ、これでも食べて元気出してくれたらいいなって」
「っ!」
なるべく顔には出していないつもりだった。
けれどこの先輩は穂乃果が落ち込んでいることに気付いて、こうして元気づける為にお菓子をくれた。
自分の買い物のついでなのだろうが、それでも、そのことが申し訳ないのと同時にとても嬉しく、胸の奥に小さな火が灯るのを感じながらも、穂乃果がお礼を言ってチョコレートを受け取ると、彼はほっとしたように息を吐き、はにかむように笑った。
その笑顔を目の当たりにした瞬間、心臓がきゅっと収縮し、思わず顔が赤くなる。
それを誤魔化すように前髪で表情を隠しつつ、さっき灯ったばかりの火がまた大きくなったのを感じた。
その後は、ミスはいくつかしでかしてしまうものの、その度に先輩は嫌な顔一つせずサポートをしつつ丁寧に指導してくれ、落ち込む穂乃果も気遣い、毎回優しく声をかけてくれたり、甘いお菓子をくれる。
彼の気遣いは全て先輩としての行動だと分かってはいたが、それでも初めは爪の先ほどの大きさだった火が大きなものになるのに、時間はかからなかった。
だが、同じ課にいる五代夏樹という、社内一のイケメンと名高い彼のモテっぷりが異常でそちらの方に目が行きがちだが、霧島晃という人間も密かに女子社員の人気は高かった。
穂乃果以外にも他の人のことをよく見ているようで、誰かが仕事で困っていそうだったりするとすぐに声をかけているし、飲み会でも面倒な上司に捕まった後輩の助けに入って自分がその相手をしたり、潰れた人たちを毎回介抱してまとめて家まで送ってあげたり。
そういう人間なので男女問わず彼を慕っている人は多いのだが、本人は鈍いのか、これまでどんな美人や可愛い子に明らかに分かりやすい好意を向けられアプローチされても、まったく気付く様子はなかった。
それは穂乃果相手でも同様で、何度か勇気を出してみたものの、やはり一ミリも察してはもらえなかった。
周りにはバレバレだったというのに。
さすがに告白でもすれば鈍い先輩も分かるとは思うのだが、今の関係が壊れるのが嫌で、あと一歩が踏み出せず、悶々としている間に先輩に彼女ができてしまった。
あれだけ仕事に没頭し、好んで残業をしまくっていたのに、定時で帰る日も増え、顔色も随分と良くなった。
きっとその彼女の影響なのだろう。
もしかしたら自分が気持ちを伝えていたら何かが変わっていたのかもと思うものの、全てが後の祭りだった。
まして彼女について尋ねた時に見せたあの表情と台詞。
穂乃果に対しての『可愛い』と、彼女に対しての『可愛い』。
同じ単語なのに、そこに込められている想いの違いが分からないほど、穂乃果は愚かではない。
それでも簡単に芽生えた気持ちが消えることはなく、彼の好きな本が家にあると伝えた時の先輩の反応一つで、未だに穂乃果の心は性懲りもなくときめく。
あの小説のように、この恋心も水に流せればよかったが、すぐには無理そうだ。
だから、せめて密かに思うことだけは許してほしい。
そんなことを思いながら、本の入った紙袋を受け取り立ち去る先輩の後姿を、もらった冷たいミルクティーでも冷ましきれないほどに熱っぽい視線で見送る穂乃果だった。




