25.悪夢の襲来
マオから話を聞いた時は、一瞬だけ、いやそんなまさかだよな、という期待にも満ちた思いが頭をかすめた。
だが現実は残酷である。
「晃君っ!」
正直何も見なかったことにしてそのままマンションに入りたい。
もしくは、いつからここにいたかは分からんが、もう少し早く帰っていれば会わずに済んだかもしれない。
けれどそれらは全て後の祭りというやつである。
山本里香と関わるのは二度と勘弁だと思っていたが、こうして目の前までやってきて俺の名前を呼ばれれば、どうしようもない。
それに、放置しているほうが後々もっと厄介になるだろうことは予想できたので、早めに向こうから接触してきてむしろ良かったと思うしかないと強引に自分を納得させる。
「…………何の用だ。あと俺のことは下の名前で呼ぶな」
だがこの女も、あっちの世界のよく似たあの王女と同じで、人の話を全く聞きやしない。
「良かったぁ。晃君住所変わってなかったんだね。里香、どうしても晃君に会いたくて、でも晃君スマホ変えたみたいで電話もメッセージも繋がらないし、ダメもとでマンションに行ったら会えるかなって。そしたら会えちゃった! ねえ、これって運命って言うのかな??」
むしろそんな運命があるなら、それを作り出した神を全力で殴りたい。
俺ははぁぁぁと大きなため息をつくと、指でこめかみを抑える。
「あのさ、前に自分が何やったのか覚えてるのか? それなのによく平気で俺の前に顔を出せるよな」
「それは……」
ここで彼女は、大きな瞳にほんの数秒ほどの時間で涙をたっぷり溜めたかと思うと、鼻を啜りながらえぐえぐと泣き出した。
「だってぇ、あの時晃君、お仕事お仕事ばっかりで、ひっく、全然里香のこと構ってくれなかったから、寂しくって。ひっく、だけど里香が好きなのは、今でも晃君なのっ!」
構ってなかったっていうか、むしろ俺が早く仕事終わらせて会いに行こうとしたら、こいつの方から無理しなくていいとやんわりと断ってきたんだが。
休日だって何かと予定が詰まってるからって、丸一日一緒にいた試しがなかった。
どうもこの女、自分にとって都合のいいように記憶を書き換える能力でも持っているらしい。
「晃君とバイバイしてからね、里香ずっと苦しくって。晃君以上に美味しいご飯を食べさせてくれる人も、ひっく、素敵なプレゼントを買ってくれる人もいなかったんだぁ。だからね、晃君。里香たちもう一回、やり直そう?」
夜遅い時間なのが幸いして周囲には人がないが、端から見たら俺は女性を泣かせた最低野郎に見えるだろう。
誤解されるのも嫌だが、かといって彼女を家に連れて行くのも、ファミレスにでも行って話すのも遠慮したい。
結局以前にマオと出会ったその場所からの移動は諦め、その場で彼女と話を続ける。
「それ、結局俺の金が目当てだってだけだろう? 別れる時にも言ったけどさ、悪いけど俺お前に全く未練とかないんだわ。むしろ顔も見たくない」
「っで、でも、里香、あの時のことは、ひっぐ、もう反省してるから! 今度は晃君に嫌われないように、ちゃんとするから」
「嫌われないようにってか、既に嫌いなんだよお前のこと。何をどうしても好きになるとかありえないから」
「里香は晃君のこと、こんなに好きなのに? この里香が復縁してあげるって言ってあげてるのに?」
まったく、俺は一体なんて女と付き合っていたんだ。昔の自分の見る目のなさに、思わずげんなりする。
ただ、彼女を擁護するつもりはないが、出会った時と付き合ってしばらくは、もう少し言動も取り繕っており、まとも風であった。
そして夏樹は即効で彼女の本性を見抜けていたが、俺は中高と男子校で、大学時代はまあ諸々な事情から、ほとんど異性との付き合いがなかった。
つまりこいつから言わせればちょろいカモだったのだ。
むしろ半年で別れられてよかったくらいだが、しかしそれにしたって、久しぶりに会う彼女は、もしも前のように取り繕っていても絶対に今の俺なら引っかからないだろうと言える、独特のやばい空気を纏っている。
「俺は全くお前と復縁したいとは思わない。これ以上お前と話すのは時間の無駄だし、正直喋るだけでもきついから、帰ってくれ。で、二度とその面見せるな」
明日は休みだからな。
俺は早く帰ってマオの顔を見て、手料理食べながら一緒に酒を飲み明かしたいんだよ。
なのにこんなクソくだらないことで至福の時間が減っていくのはごめんだ。
女性相手に結構強めで冷たい言い方になったが、変に優しさなんて見せて付け入る隙がありそうだと思われて、しつこく付き纏われるのは勘弁してほしい。
言いたいことは言ったので、そのまま俺は踵を返しかけたが、この女は尚も食い下がる。
「晃君! 晃君って、絶対に里香の後に彼女できてないでしょう?」
彼女、という単語に一瞬俺の動きが止まる。
事実としてこいつの言う通り俺には彼女はいないが、対外的にはマオがいる。
けれどこの女に、今俺には付き合ってる人がいるんだと言うのは憚られた。
こいつのことだから、存在を知ればきっとマオに会いに行き、何なら害を加えようとするかもしれん。
マオは魔王であり魔法も使えるから、ただの小娘風情にしてやられることはないと分かってる。
それでも、ほんの少しでも彼女の悪意がマオに向くことが耐えられなかった。
しかし、俺がわずかに彼女の言葉に反応してしまったのを好機と捉えられたらしい。
喜々とした表情で俺の方へ足を踏み出すと、目にもとまらぬ早さでこちらへ近付き、不覚にも俺はそのまま抱き着かれる形になる。
「はっ!? おま、何すんだ……」
気持ち悪さと嫌悪感で慌てて引き剥がそうとするが、こんな小さい体のどこにそんな力があるのか、いっこうに離すことができない。
その間に、彼女は俺を上目遣いで見上げ、ささやかな胸を押し付けて甘ったるい声で囁いた。
「ねぇ、晃君。晃君になら、里香は何されたっていいんだよ?」
「…………」
この体勢、そしてそれに近い台詞を言われるような状況が、つい最近あったばかりだ。
だが全然違う。
顔とか身長とか胸の大きさとか香りとか、そういったことだけじゃなくて、あの時の俺は確かに出会ったばかりだったマオにドキドキしたし、酒で酔った勢いってことにして自分から触れにいきたいとすら思った。
理性でなんとかその欲望は抑えたが。
そして酒が入っていない状態だとしても、今のマオに同じことをされたら、俺は間違いなく前回と同様、何してくれようかと悶々としつつ一瞬どうするか悩む気がする。
なのに今、こいつに触れられても、何も感じない。
ただただ嫌悪感が膨らんでいくばかりだ。
裸で迫られたって、俺の男の部分は一切反応しないと言い切れる。
「なあ、マジで離してくれないか?」
「でも晃君、ずっと一人だからきっと色々と溜まってるでしょう? 里香がちゃんと慰めてあげる」
溜まってるのはむしろマオがいるからだ。
一緒に寝る仲だし、かといって手を出すつもりはないが、それでもふとした時に見せる顔は無邪気で、それでいてどうしようもなく可愛い。
そんな時、手を伸ばして触れていいもんかと悩む。
マオはそれでも俺を拒絶はしないだろう。
だがそれは俺への恩返しのため、体を差し出しているにすぎない。
俺が触れたければそれに応えるという受動的なもので、俺だけが一方的に欲を発散するだけ。
心の伴わない行為なんぞ、一人でしてるのと大して差はない。
かといってその欲を他にぶつけるのも空しいだけだ。
だから俺がこの女に言えることは一つだ。
「無理だな。俺はお前に何も感じないし、お前を使って発散するくらいなら、死んだほうがマシだ」
その瞬間、これまで作っていた、この女が自分で思っているであろう可愛く見せていた顔が、一気に般若のように変化した。
「……は? この可愛い里香が迫っても、反応しないどころか、死んだ方がマシ?」
そして彼女は手を離すと、怖い形相は崩さぬまま俺を睨みつけ、大声でまくし立てた。
「信じらんない!! あんたなんて金しか取り柄のないダサくて冴えない男のくせに、こんな可愛い里香がわざわざ手を出しやすいようにせまってあげたのに、里香に恥をかかせるなんて! あんたおかしいんじゃないの!? だからいつまでも彼女の一人もできないのよこの喪男! あんたなんて一生右手以外に恋人なんてできやしないんだからっ!!」
物申したいことは山ほどある。
まず、おかしいのは俺じゃなくこの女だ、多分な。
だがそれを言ったところで彼女が認めるはずもない。
言うだけ無駄だ。
けれどこいつの発言の中で一つ訂正したいことがあった。
なので、俺は非常に真面目な顔で、
「悪いが俺の恋人は左手の方だ」
と伝えると、唾を飛ばしながらさらにデカい声で、
「そんなのどっちでもいいわ!!」
と、怒鳴られた。
しかし、金以外に取り柄がないか。
まあ、顔だって十人並みで、仕事はできる方だと思うが特に趣味もなく、気の利いたことは言えんし、そんなの自分が一番自覚してる。
だが。
「それでも、他人であるお前にとやかく言われる筋合いはない。ってことでいい加減理解しただろう? お前が下に見ていた俺がなびいて、お前の言いなりになる財布野郎にはならないから」
俺がこの女に金を使うことはないし、今俺にとって貢ぎたい相手はマオだけである。
だが大体は向こうに却下され、金額がおかしいと怒られるのだが。
ここまで言ってもこの女がただ黙って引き下がるとは、俺も思っちゃいない。
前の別れ話の時がそうだった。
俺の気持ちを引き寄せられないと分かった彼女は、あの時も散々にこちらに当たり散らしてから俺の元を去った。
小一時間ほど暴言に耐えてれば、この嵐も終わる。
今回もそれと同じことをするだけだ。
そしてこの女は、俺が最も傷付く言葉をよく覚えていた。
「っ、あんたみたいな奴に見下されるなんて、ほんっとムカつく!! そうやって一生一人で寂しく生きていけばいいのよ! 父親に捨てられたあんたには、そんな人生がお似合いだわ!」
表情が歪んだのが自分でも分かった。
彼女はそれを見逃がさず、水を得た魚のように汚い笑顔を浮かべて言葉で攻撃を続けようとしたのだが。
「まったく、見ておれんな」
突如あいつから放たれるやかましい騒音が止んだ。
しかし、当の本人は変わらず口を動かし続けている。
何が起こったのか分からず、声の方へ体を向けると、そこにはマオが呆れた表情で立っていた。




