038
シルフィが振り返ると、あの少女が苦しそうに胸を押さえていた。
「おね、ちゃ、ん……」
膝をついて咳き込んでいる少女が、助けを求めるようにシルフィへと手を伸ばす。
しまったと、シルフィは少女に駆け寄った。
この巨大な呪骸から噴き出した瘴気を、恐らくは相当量吸い込んでしまったはずだ。
焦ったようにシルフィは少女の顔を覗き込んだ。
その顔は苦しさのあまり、涙と涎でぐしゃぐしゃになっている。
少女が再び咳き込んだ。跳ねるようなその動きに合わせて、首につられている聖印の銀細工が、ちゃらりと揺れる。
それを見た途端。
シルフィの中で、憎悪が燃え上がった。
「……聖教徒」
ぽつりと、その言葉が彼女の口から漏れた。
頭の中に響く怨嗟の声は、もはや自分のものなのかどうかさえ判断がつかない。
少女を見下ろすシルフィの瞳が、憎悪と殺意に紅く燃え上がる。
自然と、剣の柄を握る手に力が籠った。
「聖教徒を」
殺す。
まったく自然にそう考えて、シルフィは剣の切先を持ち上げた。
そうだ、そうだ、そうだ!!
頭の中で、無数の声が絶叫している。
彼女は剣を構えた。罪人の首を落とす処刑執行人のように、その刃をゆっくりと持ち上げてゆく。
簡単なことだと思った。
あのハサミムカデの呪骸を殺した時と同じように、目一杯の殺意とともに、ただ降り降ろせばいい。
咳込みながらも、少女はシルフィの様子がおかしいことに気付いたようだった。
自分に向けて剣を振り上げている彼女を見て、怯えたように目を見開いた少女は、這って逃げようとしている。
だが、咳がますます酷くなり、身体が思うように動かないようだ。
ずるずると、シルフィから半歩ばかり離れたところで、少女は力尽きたように頭を地面に沈ませた。
咳はなおも止まらず、苦しそうに咳き込む合間には、嗚咽も混じっている。
シルフィはそんな彼女を冷徹に見下ろした。
この薄汚い餓鬼を八つ裂きにしなければならないと思った。
そうだ、そうだ、そうだ!
殺せ、殺せ、殺せ!!
頭の中で、怨嗟の大合唱が始まる。
ああ。そうだ。私は。
「聖教徒を、ころ――」
――違う。そうじゃないでしょう?
シルフィが少女の首筋めがけて、剣を振り下ろそうとしたその刹那。
彼女の頭に響く怨嗟の中に、不思議な声が混じった。
叱るような、諭すような。温かく、優しい響きの声だった。
――あなたは
他の声とは何もかも違う。誰を憎むでもない。何を恨むでもない。神を呪うでもない。
その声に。
「そうだ、私は」
唐突に、シルフィは我に返った。
今まさに降り降ろそうとしていた剣を取り落して、足元の少女へ目を落とす。
そして、自分が何をしようとしていたのかに気付く。
「そんな」
その言葉とともに、思わず零れそうになったのは涙。
だが、泣いている暇などない。
否。泣く権利など、自分にはない。
そう自らを叱りつけて、シルフィは少女をゆっくりと抱き起こした。
呼吸は荒く、弱い。触れた手足は氷のように冷え切っていた。
これだけの瘴気をまともに浴びてしまったのだから、当然だった。
「済まない、済まない……私のせいで、済まない……」
頼む。死なないでくれ。
どうか、この子を死なせないで。
祈るように何度もそう繰り返しながら、シルフィは少女を抱えて走り出した。




