037
「ぐっ……」
呻きながらシルフィが身を起こしたのは民家の中だった。全身の骨が砕けてもおかしくない衝撃を何度も受けたというのに、数度、呼吸を整えている内に、痛みはみるみる引いてゆく。
地響きが辺りを揺らした。あの巨大ハサミムカデが近づいてくる音だろう。
シルフィは崩れた壁と砕けた家具の瓦礫の中から立ち上がった。
「ひっ」
瓦礫を押し退けて立ち上がったシルフィの耳に、小さな悲鳴が聞こえた。
見れば、幼い少女が部屋の隅に蹲っている。
逃げ遅れたのだろうか。兎を象った可愛らしいぬいぐるみを抱えながら、怯えた目でシルフィを見ている。
「どうした。ご両親は――」
シルフィが口を開いたところへ、ハサミムカデが家々を踏みつぶしながら迫る轟音が響いた。悲鳴を上げた少女に素早く近寄ると、シルフィはその身体を抱えて家から飛び出した。少女が再び、悲鳴を上げる。
外へ出た途端、家がガラガラと音をたてて崩れ落ちた。
振り向けば、紅く染まる空を背景にハサミムカデがその巨体をもたげていた。四つの妖光を灯した瞳が、凶星のように爛々と輝いている。
不味いな。
そんな言葉が、シルフィの脳裏を過ぎった。左腕に抱えた少女へ目を落とす。
一人ならばともかく、この少女を抱えたままでは戦えない。
かといって、この子を一人にしてしまえば、あっという間に殺されてしまうだろう。
どうすべきか考えながら、シルフィは少女を抱えて走った。
街の中を適当に走り続けていると、門のある広場に出た。
シルフィには見覚えのない場所だった。恐らく、西か南の門のどちらかだろう。
いつの間にか、街の端まで来てしまったらしい。
どうしたものかと、息を整えながらシルフィは考えた。
背後からは巨大ハサミムカデが次々に建物を倒壊させながら迫っている。
これ以上逃げ回れば、返って街の被害ばかりが大きくなってしまう。
仕方ない。
心の中でそう呟いて、シルフィは少女を下に降ろした。
ここで迎え撃つしかない。
「そこから動かないように」
精一杯の優しさを込めて少女にそう言うと、彼女は迫りくるハサミムカデへと向き直った。
そして、誰ともなく呟く。
「もっとだ。もっと。力を寄こせ」
この少女を守って、あの巨大な呪骸を打ち倒せるだけの力を。
心の中で、何処かへ向けてそう呼びかける。
――これ以上かぁ?
当然のように、頭の中でダンテの声が答えた。
「私はまだ正気だ。まだ、耐えられる」
――そりゃ。そう思うのは勝手だがなぁ
荒れ狂う怨嗟の声に混じって、ダンテの呆れたような声が頭に響く。
――確かにお前の魔力許容量はただの人間にしちゃ大したもんだ。どこかしらで妖精人の血でも引いてるんだろうが、だからって闇雲に
「わけのわからないことを言っていないで、早くしろ」
シルフィは有無も言わさぬ口調でダンテの声を遮った。
それは彼女の知らない世界の話だ。
今のシルフィにとって必要なのは、あの巨大な呪骸を葬るだけの力。
猛然と向かってくる巨大ハサミムカデを睨みながら、シルフィは剣を構える。
――へいへい
その頑なな彼女の姿をどこかから見ているのか。
気の抜けた返事が頭に響く。
――本当に狂っても知らねえぞ
その言葉とともに。
これまでにないほどの瘴気がシルフィの身体を包み込んだ。
応じるように、頭の中に響く怨嗟の声も大きくなる。
シルフィは剣の柄を両手で握ると、最上段に構えた。
柄を握るその手、その腕には、今やはちきれんばかりの力が宿っている。
その彼女を捉えたハサミムカデの妖眼が、狂わんばかりの憎悪に燃え上がった。
シルフィの瞳もまた禍々しい真紅に染まっている。
大きなハサミを振り回しながら地を這う巨大ムカデがシルフィに迫った。
頭部だけでも、彼女より大きい。その巨体に向けて、シルフィは満身の力を込めて剣を振り下ろした。
閃光のような勢いで降り降ろされた刃が巨大ハサミムカデの分厚い外殻を打ち砕き、頭部を地面ごと両断する。しかし、頭を真っ二つにされても、巨大ムカデの体は動きを止めなかった。
シルフィは再度、剣を振ってその頭を体から切り離し、暴れ狂う胴体をバラバラに切断する。そこまで壊しぬいて、ようやく巨大ハサミムカデの体は活動を停止した。
切断面から真っ黒な瘴気が噴きあがり、切り落とされた頭部に光り続けていた妖光がふっと消えてなくなる。
巨大な死骸を見下ろしながら、シルフィはほっと息を吐いた時。
背後から、激しく咳き込む声が聞こえた。




