029
それは、声というよりも音に近かった。
無数の蟲が寄り集まって身体を擦り合わせているような、ギチギチ、シャアシャアという、肌の粟立つような音だ。
憎悪に塗れたその音が意味を成して、人々の頭に響いた時。
その場にいた全員が、凍りついた。
そして。
街の防衛線は、たちまちのうちに崩壊した。
身構えたシルフィの眼前で、正門が音をたてて弾けとんだ。
衝撃で、門戸を押さえていた男たちが吹き飛ばされる。
砕けた門の向こう側から姿を現したのは、見上げるような巨体を持つハサミムカデの呪骸であった。
松明に照らされて、闇夜に浮かびあがる真っ黒なその巨体は、昨日、ラクト少年を襲っていたムカデなどとは比べ物にならない。
「……嘘だろ」
シルフィの背後で、誰かが絶望を呟いた。
そう思いたくなる気持ちは、彼女にも痛いほど良く分かる。
だが。
シルフィは闇に目を凝らした。
巨大ハサミムカデの傍らから、何かが進み出てくる。
それは襤褸を纏った何かだった。
もしも人間であるのならば、その身体は枯れ木のように痩せ細っている。
襤褸を頭からすっぽりと被っているせいで顔は見えないが、その奥には確かに赤い妖光がぎらぎらと燃えていた。
間違いない。
妖魔だ。
シルフィはそう確信した。
彼女の視線の先で、妖魔がゆらりと動いた。
その片腕が、シルフィや街の者たちを指し示すように持ち上がり。
そして。
『殺せ』
ぎちりと、妖魔が命じた。
巨大ハサミムカデはぎぃいという叫びを発して、その命令に応じた。
恐るべき重量を誇るだろうその巨体が門を、壁を砕きながら、正門前の広場にいた人々へと襲いかかる。
正門のすぐ前に残っていた数人が、地面を這う巨体に押しつぶされた。
その中にはカロムの姿もあったのを、シルフィは見た。
「退避だ! 退避しろーー!!」
あまりにも現実離れしたその光景の中、真っ先に正気を取りもどしたのは騎士隊長のイムザだった。
退避を叫ぶ彼の声を聞いて、人々がようやく悲鳴を上げるだけの余裕を取り戻す。
だが、もはや遅かった。
巨大ハサミムカデは地面を這いながら民家を押し潰し、その巨大な顎を振り回して逃げ惑う人々に襲いかかった。
ある者はその鉄塊のようなハサミに叩き潰され、ある者は無数の足に踏みつぶされ、またある者は暗い口腔へと消えてゆく。
通りで焚かれていた篝火も弾き飛ばされて、火の点いた松明や薪があちこちにばら撒かれた。
そんな中、シルフィは我先にと逃げ出す人々を無視して、通りの真ん中へと立った。
押し寄せる呪骸の群れを迎え撃つように剣を構える。
巨大ハサミムカデも、彼女の存在に気付いたようだ。
顎の付け根あたりで真っ赤に燃える四つの目が、武器を持つ彼女を睨みつけた。
「シルフィ殿! 何をしている!?」
シルフィのしていることに気付いたイムザが大声を上げた。
「逃げろ! 見て分からんのか!? それは人間が太刀打ちできるようなものではない!!」
そう叫ぶ彼の前で、巨大ムカデのハサミがシルフィに襲いかかる。
シルフィはそれを剣で受け止めようとしたようだ。
だが、彼女の細い腕では、とてもではないが受けきることなどできない。
あっさりと、シルフィの身体は吹き飛ばされて、土煙の中へと消えてしまった。




