019
朝早くに街を出たシルフィは、騎士隊長のイムザから教えられたアダランの森へと来ていた。
アダランの森は、街の北東に広がる広い森だった。
その森の前に立ったシルフィは、辺りを注意深く観察した。
森と平原の境目には分かりやすく低木が茂っている。
その奥に生える木々には温暖な気候の南部らしく、広葉樹が多かった。
初夏の日差しを浴びて、青々と輝く葉を枝いっぱいに抱えた木々は、生命の力強さに満ちている。
イムザは、森は呪骸の巣窟だと言っていたが、一見した限り、これといった異常は見受けられない。
耳を澄ませてみても、木の葉がざわめく音以外、森は静かなものだった。
しばらく、そうして森の様子を窺っていたシルフィだったが、やがて、意を決したように中へと踏み込んだ。
全周に気を払いながら、慎重に歩みを進める。
地面は思っていたよりも歩きやすかった。
フェリン神父から行方不明になった木こりがいると聞いたのを、シルフィは思い出した。
恐らく、街の者たちは薪を拾うためなど、普段からこの森をよく利用していたのだろう。
足元はしっかりと踏み固められているし、草も想像以上に生い茂ってはいない。
それでも、何があってもすぐに対応できるように、剣の柄に手を添えておく。
木陰から、茂みから、青葉の陰から。
今、この瞬間も、この世ならざるものがこちらを窺っているかもしれないのだから。
そうして進んで行くと、木々の開けた場所に出た。
陽光の角度が高くなるにつれて、夏の熱気に蒸された地面から立ち上る濃厚な土の匂いのせいで、息が詰まりかけていたシルフィは、そこで大きく深呼吸をした。
森に入ってから、一刻ほど経っただろうか。
それなりに奥まで進んできたはずなのだが、呪骸の影も形も見ていない。
相変わらず、周囲に響くのは木々の囁きばかりだ。
静かすぎる。
ふと、そう思ったところで。
シルフィは、広場の真ん中に異物が落ちていることに気付いた。
それは人間の腕だった。
恐らく、右手。
討伐隊に参加した聖堂騎士のものだろうか。
肘のあたりで断ち切られた腕は、篭手が付いたままだった。
シルフィはゆっくりと広場を進んで、それを掴んだ。
持ち上げると、ぐにゃりとだらしなく手首が曲がる。奇妙に重たかった。
その時。
近くの茂みがガサガサと音をたてて揺れた。
シルフィは反射的に剣を抜いた。
揺れる茂みを睨みつけていると、やがて、緑の下から黒い塊がのそりと頭を出す。
昨日、ラクト少年を襲っていたものよりも遥かに小さいが、それは間違いなく呪骸化したハサミムカデだった。
四対の単眼を真っ赤に怒らせて、顎をガチガチと鳴らしている。
ハサミムカデの呪骸から目を逸らさずに、シルフィは拾った腕を腰に括りつけてある雑嚢の中へとしまった。
ムカデは興奮したようにガチガチとハサミを打ち合わせている。
獲物を前にして喜んでいるのか。或いは人間を見て、憎悪に狂っているのか。
どちらにせよ、相手をしなければならないことに変わりはない。
覚悟を決めて、シルフィは剣を構えなおした。
途端、ぎぎぃという肌の粟立つような音をたてて、ハサミムカデが動いた。
黒い体をわずかに蛇行させて、地面を滑るようにまっすぐシルフィへと向かってくる。
その動きを慎重に見極めて、シルフィは足元を払うように切りつけた。
「――っ!?」
ガキン、という金属音が響いた。
まるで岩に剣を叩きつけたような衝撃がシルフィの腕に走り、ムカデが少し離れた場所へと弾き飛ばされる。
だが、刃は硬い外殻に阻まれて、傷一つ付いていない。
弾かれたムカデはすぐさま、二度目の突進を始めた。
シルフィの顔に驚愕が、そして焦りが浮かぶ。
しかし、それも一瞬だった。
迫るムカデを迎え撃つように再び剣を構え、そして、ふいにそれを逆手に持ち変えた。
そして、ムカデが足元に来たその瞬間。
シルフィは全体重を乗せて、剣をムカデの胴めがけて突き立てた。
切先が硬い外殻に当たってわずかに滑る。
失敗したかと、顔をゆがめたシルフィだったが、剣はそのまま外殻の間にある柔らかい関節部へと滑り込んだ。
ぎぎぃという絶叫とともに、ムカデが地面に縫い付けられる。
その傷口から、じゅうじゅうと泡立つような音をたてて、黒いもやが漏れ出した。
剣から手を離したシルフィは、数歩下がってから乱れた息を整えた。
だが、まだ安心することはできない。
呪骸化した生き物の体液は、この世のあらゆるものを腐食させる。
唯一、聖銀を使って鍛えられた武器だけがそれに耐えることができるのだが、あいにく、シルフィの剣はただの鉄製だ。
怒り狂ったようにのたうち回っているムカデに突き刺さっている剣は、その体液に触れてみるみる黒く変色してゆく。
このままではすぐに折れてしまうだろう。
しかし、時間稼ぎにはなる。
剣は諦めるしかない。
そう決めて、来た道を戻ろうと振り向いたシルフィは、息を呑んだ。
そこに、新たな呪骸が現れたからだった。




