第58話 恐怖の一夜
その頃、エンゲリウムホイスト村から馬車で2日ほどの距離にある山の中で、アンジェリカは息を殺して地面に伏せていた。
視線の先には、開けた場所で野営をしている見学者たちの野営地がある。
すでにほとんどの者は眠りについているようで、起きているのは外で見張りをしている数人の騎士だけだ。
アンジェリカの体は全身黒ずくめで、手には望遠鏡を握っている。
この日のために、レイニーが王都から取り寄せてくれた物だ。
かなり値の張る品物であり、アンジェリカは傷を付けないようにと大事に両手で胸に抱いていた。
(――うう、怖いよう。見つかったらどうしよう……)
木々の間から野営地を見つめながら、アンジェリカが震える。
この場にいる人間はアンジェリカだけで、フィンとラーナはここから離れた別々の場所にいる。
フィンは村から馬で8時間ほどの場所でキャンプ生活をしていて、この2日間は朝になるとキャンプ地を出発してアンジェリカと落ち合い、祝福を強化してはまた戻っていた。
理由は、村にいるエヴァの母親とアンジェリカの両方の祝福を強化しなくてはならないからだ。
村に毒が撒かれたら、作物がやられてしまうまえに毒を浄化しなくてはならないので、エヴァの母親の祝福強化を切らすわけにはいかない。
また、証拠を転写するためにはアンジェリカの祝福も強化しておかなければならないので、こちらも切らすわけにはいかない。
そんなわけで、フィンはそれぞれとの中間地点で待機せざるを得ないのだ。
ラーナは動物たちの指揮を執るために、ここから少し離れた場所で待機している。
アンジェリカは目的を達成したら、ラーナの下まで戻ることになっていた。
アンジェリカが震えていると、隣にいた猟犬が心配そうに小さく鼻を鳴らした。
「あ、ごめんね。大丈夫だから」
猟犬の頭を撫で、アンジェリカが心を落ち着かせる。
この場には人間はアンジェリカしかいないが、彼女の傍には10頭の猟犬が控えていた。
彼らもラーナから計画の概要は聞かされており、何をやればいいのかはしっかりと理解している。
「あっ!」
その時、野営地の天幕の1つの屋根部分に、バサバサと1羽の鳩が舞い降りてきた。
クックッと鳩が鳴くと、中からトコロン家当主のドルトと、息子のドランが現れた。
「ドルト様、ドラン様。どうなされました?」
警備の騎士がドルトに声をかける。
「少し夕食時に飲みすぎてしまったようでな。親子そろって、こんな夜中に小便だよ」
ドルトが騎士に笑顔で言う。
「では、私がお供いたします。参りましょう」
「いや、付いてこなくてもよい。ちょいと用を足してくるだけだ。大丈夫だよ」
「いえ、そういうわけには……」
「ここらには狼もいないと聞いているし、野盗が出たというのも何十年も前の話だろう? 危ないことはないさ」
「しかし……」
渋る騎士に、ドルトが苦笑する。
「あのな、いい歳をした大人2人が夜の小便が怖くて護衛を付けるなど、笑いものだぞ。いいから、放っておきなさい」
「……承知しました。ですが、すぐに戻ってこないようでしたら捜しにいきますので」
「そんな何分も小便が出続けてたまるものか。なあ、ドラン」
「はい。20秒がいいところですね」
「何、そんなにか? 私はせいぜい10秒程度だぞ。我が息子はずいぶんと立派な膀胱を持っているようだな」
ドルトの軽口に、騎士が思わず笑い声をあげる。
こうして見ると、ごく普通の愛想の良い親子にしか見えない。
騎士に見送られて森へと入っていくドルトたちの後を、アンジェリカと猟犬たちは音を立てないように静かに追う。
先ほど天幕の上に留まっていた鳩が、ドルトの前にバサバサと飛んでいった。
近寄りすぎてバレてしまっては大変なので、アンジェリカは急いでドルトの顔が見える程度まで離れた位置に回り込み、望遠鏡を目に当てた。
「――っ!?」
アンジェリカが望遠鏡を覗き込んだ途端、ドルトの目の前に降り立った鳩の姿が、一瞬にして中年の男に変異した。
アンジェリカが驚愕に目を見開いていると、彼の後ろから次々に動物たちがやって来た。
鹿、イタチ、イノシシ、鷲、トンビ、フクロウと、鳩だった男を合わせると全部で7匹、もとい7人ほどだ。
鹿、イタチ、イノシシは、背に布袋を下げている。
「今日はご子息も一緒なのですね」
中年男がドランに目を向ける。
「うむ。これも跡継ぎとしての勉強のためだ。それで、首尾はどうなっている?」
ドランを傍らに控えさせ、ドルトが彼らに話しかける。
アンジェリカははっとして、意識を瞳に集中した。
その瞳が黄金色に光り輝き、レンズ越しの彼らの姿を目に焼き付ける。
即座に目を閉じて光を隠し、懐から出した紙に今見た物を転写した。
次の瞬間、すべての動物たちの姿が一瞬にして人間の姿に変異した。
若い男から老年の女まで、歳も性別もバラバラだ。
「言い付けどおり、村のすべての畑と果樹園に毒をばら撒いてきました。これで、2日後の見学会は大盛り上がりでしょう」
イノシシの姿だった老年の男が、ドルトに言う。
ドルトがほっとした様子で息をついた。
「そうか。よくやってくれた。後で報酬はたっぷりと払わせてもらうぞ」
「ありがとうございます。我々はもう帰ってもよろしいでしょうか?」
「ああ。いつもどおり、その荷物は帰ってから焼却処分して灰は土に埋めろ。間違っても、水源の傍に埋めるんじゃないぞ」
「分かっていますとも。灰が雨で流れ出たら大変なことになりますからな」
あまりにも遠すぎて彼らの会話はよく聞こえてはいないが、アンジェリカにとってはそれどころではない。
額に脂汗を浮かべながら、再び祝福を発動した。
彼女の瞳が黄金色に光り輝き、その様子を紙に転写する。
やや薄暗いが、強化された祝福のおかげか、彼ら一人一人の顔まではっきりと映っていた。
ほっとして再び望遠鏡に目を当てた時、若い女がこちらに目を向けているように見え、アンジェリカは慌てて身を伏せた。
「では、我々はこれで」
彼らの姿が、再び獣のそれへと一瞬で変異する。
そして鳥たちは一斉に空に羽ばたき、鹿、イタチ、イノシシは暗い森の中へと消えていった。
ドルトたちも踵を返し、野営地へと戻っていく。
(――やった! 上手くいった!)
アンジェリカはバクバクと早鐘を打つ胸を押さえつけながら、猟犬たちとともに暗い森の中を駆け出した。
後はラーナの下へ逃げ戻り、そのまま一緒に村へと馬で帰れば任務完了だ。
これ以降のことは、すべて動物たちがやってくれる。
「皆、後はお願いね」
アンジェリカが猟犬たちに言うと、彼らは一斉に獣たちが消えた森の方へと駆け出していった。
ここから少し離れた場所には王国の騎士たちが馬車とともに待機しており、猟犬たちは彼らを捕らえたら遠吠えで知らせることになっていた。
アンジェリカが森の中を暫く走っていると、突如目の前に何か黒い影が落ちてきた。
「ばあっ!」
「きゃあっ!?」
地面に降り立ったフクロウが一瞬にして若い女の姿に変わり、アンジェリカは驚きのあまり腰を抜かして尻もちをついた。
「あははっ! やっぱり盗み見てる人がいた。お嬢さん、こんなところで何をしてるのかなぁ?」
「あ、あ……」
アンジェリカが驚きすぎて喉を引きつらせていると、その周囲にトンビ、鳩、鷲が舞い降りてきた。
それらの姿が、一瞬にして人間のそれに変異する。
「うわ、マジかよ。本当にいたよ」
「ったく、めんどくせえなぁ。ていうより、なんでこんなとこに女の子が一人でいるんだ?」
トンビだった若い男と鳩だった中年の男が、アンジェリカを見下ろして言う。
すると、鷲だった老女が冷たい目をアンジェリカに向けた。
「どうでもいい。見られたからには生かしてはおけないよ。殺しちまいな。死体はその辺に埋めるよ」
「へいへい」
若い男が、腰から短剣を引き抜く。
そして、左手でアンジェリカの髪を鷲掴みにした。
「悪いな、嬢ちゃん。事情は知らないが、運が悪かったと思って諦めな」
「ひっ! や、やめ――」
男がアンジェリカの喉を短剣でかき切ろうとした時、突如無数の羽音が空から響き渡り、大量のカラスが男たちに襲い掛かった。
「うおっ!? な、なんだこいつら!?」
「ちょっ、やめ、ぎゃあっ!!」
嘴で目玉を突かれた若い女が、悲鳴を上げて暴れる。
アンジェリカは這いずるようにして、必死で彼らから離れた。
ガタガタと震えながら男たちに目を向けると、数十羽のカラスがギャアギャアと騒ぎながら男たちを襲っていた。
男たちは腕を振り回して抵抗するが、カラスの数が多すぎてとてもではないが対処しきれない。
しかも、カラスたちは彼らの目を執拗に狙っており、彼らは自らの顔を守るので手一杯だ。
「飛んで逃げろ!!」
老女の叫びで、全員が一瞬にして鳥の姿に変異した。
突然の出来事にカラスたちが一瞬たじろいだ隙に、彼らは空へと舞い上がった。
「あっ!?」
上空へと飛び去ろうとしていた彼らを見ていたアンジェリカが、声を上げる。
彼らが大きく羽ばたこうとした瞬間、その頭上から矢のような速度で急降下してきた無数のカラスたちの嘴が彼らに直撃した。
彼らはその背や頭に嘴をモロにくらい、全員が地面へと落下する。
カラスたちは仲間が男たちを取りこぼした際のことも考えて、2手に分かれていたのだ。
「あ、あ……」
ドサドサと目の前に落ちてきた鳥たちが、次々に人間の姿に戻っていく。
ぴくぴくと動いているのはフクロウだった若い女とトンビだった若い男だけで、他の2人はピクリとも動かない。
動かない2人の頭にはカラスの嘴で突かれた大穴が開いており、どうやら死んでしまっているようだ。
カラスたちが地面に降り立ち、アンジェリカの下へと集まる。
彼女に怪我がないか心配しているのか、クイクイッと首を動かしては彼女の顔を見つめていた。
「あ、ありがとう……大丈夫……」
アンジェリカが震えながら、カラスたちに礼を言う。
するとその時、かなり離れた場所から猟犬たちの遠吠えが聞こえた。
「アンジェリカ!」
アンジェリカが座り込んでいると、背後からラーナと数人の騎士が駆け寄ってきた。
ラーナたちを先導して飛んでいた1羽のカラスが、アンジェリカの前に降り立つ。
本来ならば、ラーナはアンジェリカの帰りを野営地で待つはずだったのだが、カラスから緊急事態発生の知らせを受けて駆け付けたのだ。
「おい、大丈夫か!?」
地面に座り込んでいるアンジェリカと、その傍で倒れている4人を見て、ラーナが表情を険しくする。
「は、はい。この子たちのおかげで、怪我一つありません」
頷くアンジェリカに、ラーナがほっとした顔になる。
「そ、そうか。こいつらが例の……む」
カアカアと鳴くカラスたちに、ラーナが目を向ける。
「……カラスたちが『自分たちがこの連中の動きを読み誤ったせいで、アンジェリカに怖い思いをさせてしまった。すまない』と謝っているぞ」
「えっ?」
その言葉に、アンジェリカは足元で自分を見上げてくるカラスたちに目を向けた。
皆、どことなくしゅんとしている様子だ。
その途端、目まぐるしい事態の連続で麻痺していた心が解きほぐされ、アンジェリカの瞳から涙が溢れた。
「お、おい!?」
「う、うえぇぇん!!」
震えながら号泣するアンジェリカ。
カラスたちはそれを慰めるように、彼女にしっかりと寄り添っていた。




