第9話 静寂の書庫と揺れる心
魔王城の書庫は、まるで時間から切り離された聖域のように静まり返っていた。天井高くまで続く書棚は漆黒の木でできており、幾千もの古書や巻物が整然と並べられている。淡く揺らめく魔法の灯火が、ページの隅々まで柔らかな光を注ぎ込んでいた。埃っぽさは一切なく、むしろ古書特有の深い紙の匂いと、微かに混じる魔法の香りがこの場所を神聖なものにしていた。
アイラはゆっくりと歩みを進め、背の高い書棚の間を慎重に選びながら一冊の書物を手に取った。指先で丁寧に表紙を撫で、まるで大切な宝物に触れるかのような感触を確かめる。彼女の目は穏やかに、本の文字を追いながらも、どこか遠くを見つめていた。
本を返すために棚の元の場所へ戻すとき、その動作は儀式の一環のように神聖で静謐だった。彼女の手のひらに伝わる木のぬくもりは、まるで長い歴史の重みをそのまま伝えてくるようで、アイラの胸の内に複雑な感情を呼び起こした。
書庫の静寂は深く、彼女の呼吸の音すらも周囲の空気に溶け込んでいく。そんな空間に包まれながら、ふと彼女の心に浮かんだのは幼き日の思い出だった。
侯爵邸の広い書斎で、柔らかな日差しが木製の机の上にこぼれていた。母アイシャは、静かに微笑みながら幼いアイラの小さな手を取っていた。厳しくも温かい眼差しで、彼女に伝えた言葉が今も鮮明に蘇る。
「辛い時は無理をしなくていいのよ。あなたは一人じゃない。私たちが必ず支えるから。」
その声は穏やかで深く、アイラの胸に暖かな灯をともした。母の強さと優しさは、彼女にとって救いの光だった。母が放つ凛とした空気は、どんな嵐にも負けない揺るがぬ支えとなり、アイラはそれを背にして歩み続けてきた。
だが、今この魔王城にいる自分を振り返ると、その強さは自分の中に確かに根付いているのか、それとも脆くも崩れかけているのか、曖昧な感覚が胸をもたげる。
「私は……母のように強くなれるかしら。」
自問しながらも、どこかで自身の力の限界を感じることもあった。魔王に護られながらも内面の不安は消えることがない。
そして、ふと胸の奥に灯る別の感情。魔王に対する複雑な想いだ。
彼の存在は恐怖の象徴でありながら、なぜか安堵をもたらす。冷たい瞳の奥に見える深い慈愛と、時折覗く危うい独占欲。その両極の感情に揺れる自分を、アイラはどう受け止めればいいのか分からなかった。
「なぜ、彼のそばにいるとこんなにも心が落ち着くのかしら。」
その問いは、時に胸を締め付けるほど痛い。
そんな葛藤を抱えながらアイラは静かに本を棚に戻し、ゆっくりと息を吐いた。
その時だった。書庫の空気が一変する気配を感じた。
微かな振動、床の冷たさとは違う、魂を揺さぶるような気配。
彼女の肌に冷たい汗が滲み、視線は自然と闇の奥へと向かった。
そこに漆黒の闇と深紅の瞳をまとった男の姿が浮かび上がった。魔王が静かに佇んでいる。
彼の存在は圧倒的で言葉を発さずともすべてを語る。アイラの心は恐怖と同時に、得も言われぬ安心感に包まれた。
魔王は一歩ゆっくりと近づき鋭い視線でアイラを見つめた。
その視線は、まるで何百年も待ち続けたかのような熱を帯びている。
無言のまま、魔王はアイラの肩に手を置いた。
触れられた瞬間、ひんやりとした冷たさの中に温もりが混ざり合い、アイラの胸に熱い感覚が広がる。
『お前は一人ではない。』
魔王の言葉はまだ口から発されてはいないが、その想いが心の中に深く響いた。
アイラはゆっくりと息を吐き小さく微笑む。
『ありがとう。』
そこには確かな決意と感謝がこもっていた。
静寂に包まれた書庫で、二人だけの時間がゆっくりと流れていく。
魔王は一瞬だけ視線を逸らした。夜の闇に溶け込むようなその雰囲気が、どこか寂しげに震えるのをアイラは見逃さなかった。
「……お前が知りたいのは、俺の過去か?」
低く響く声は、まるで遠い記憶を呼び覚ますように重い。
アイラはゆっくりと頷いた。胸の中にぽつりと灯った小さな光を確かめるように。
「ええ……。あなたのことを、もっと知りたいの。なぜ、こんなにも私を大切にしてくれるのか。教えてほしい。」
魔王の深紅の瞳が揺れ動く。普段は凛と冷たいその視線が今だけは柔らかく、どこか切なげに。
「昔、我ら魔国と王国は盟約を結んでいた。お前の先祖が生まれるずっと前、互いの魔力を分かち合い平和を保っていた。」
その言葉には、誇りと痛みが交差している。
「だが、王国の愚かな一族がその約束を破り、我らを裏切った。欲に溺れた者たちのせいで王国は二分され戦が生まれたのだ。」
魔王の声が低く震え、熱い怒りと深い哀しみが混じり合う。
アイラの手がぎゅっと震えた。胸の奥が締めつけられるようだ。
「その時、我らの仲間の多くも儚くなった。王国の人間も。お前は、その残された光……。」
魔王がそっと近づき、闇に紛れるように伸ばした手がアイラの頬に触れる。指先はひんやりと冷たいはずなのに、まるで太陽のように温かい。
アイラは息を呑み、頬が自然に紅潮する。心臓が高鳴り、言葉が詰まる。
「……私が、ただの人間じゃないってこと……?」
声は震えていたが、確信に満ちていた。
魔王はゆっくりと微笑む。
「お前は、俺の希望であり、守るべき光だ。誰にも渡したくはない。」
その瞳がまるで全世界を見透かすように真っ直ぐにアイラを捉える。
アイラはそのまなざしに胸がいっぱいになり、ぽろりと涙が零れ落ちた。
「どうして……こんなにも優しいの?」
問いかける声に、魔王は少しだけ首を傾げた。普段は冷徹な彼の仕草に、かすかな柔らかさが混ざる。
「……お前が怖がらないからだ。お前の存在が俺にとって唯一の救いだからだ。」
その言葉は囁きとなり夜の静寂に溶けていく。
魔王はそっとアイラを抱き寄せ、その腕の中で彼女の体温を感じ取る。
「これからも、お前の側にいる。絶対に離さない。」
アイラはその言葉に心の底から安堵し小さな声で囁いた。
「私も……ずっと、あなたのそばにいたい。」
魔王の手がゆっくりとアイラの髪を撫で、そっと頬に触れた。
「……お前の光を守るために、俺は何だってする。」
その瞳は、愛と独占欲、そして深い孤独を秘めていた。
ラブラブにできたかな♥︎︎
魔王を動かすの大変。
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