第4話 王太子の焦燥
王宮の夜は、不安げな空気に包まれていた。
金色の燭台に揺れる炎が、重厚な廊下をかすかに照らす。
その光の下で、王太子ライト・セフィティナは書斎の机に両肘を突き、苛立たしげに髪をかき乱していた。指の動きは荒く、額に汗がにじんでいる。
「……アイラさえいれば、すべては安泰だ。」
吐き出すような低い声は、震えを帯びていた。
書斎には王国地図や軍備資料が散らばり、あちこちに赤い印が付けられている。
ライトの青い瞳は不安と焦燥でぎらつき、細くなった目尻に深い皺が刻まれていた。指先は震えて机の縁を掻きむしるように動いている。
(なぜ……なぜあの女は、俺を拒んだ?)
記憶の底から、幼い日の光景がふっと蘇る。
――庭園の泉のほとりで、淡金の髪を輝かせる少女。
「ライト様、こちらへ。」と微笑む声。
その声に、心臓が締めつけられるようだった。自分は、憧れと劣等感を同時に抱いていた。彼女はいつだって自分より聡明で、誰よりも輝いていた。
(なのに、今は魔王の手にある……くそっ!)
ライトは拳を強く握りしめ、震える腕で机を叩いた。鈍い音が静まり返った部屋に響き渡る。
その衝撃で燭台の炎が揺れ、揺らめく影が彼の険しい表情を浮かび上がらせた。
「殿下……」
そっと声を掛けたのは、補佐官クロードだった。銀縁の眼鏡の奥から、冷徹な光を帯びた鋭い眼差しを投げる。彼はゆっくりと歩み寄り、手に持つ資料を軽く机に置いた。
「王国の不安定化が進んでおります。各地で不穏な噂も――」
「黙れ!」
ライトは怒鳴り、立ち上がると胸を張り、乱れた髪を掻き上げた。
拳を机に叩きつけ、深く息を吸い込む。
「軍を動かす。アイラを奪還すればすべて解決する!」
クロードは、わずかに首を振った。背筋を伸ばし、静かに腕を組みながら視線を伏せる。
「それが最善とは限りません。……最近、第二王子殿下を支持する声も増えています。」
ライトの表情が一瞬で凍りつき、両手は硬直し、青白くなった指先が震える。
「……あいつの話を出すな!」
嫉妬と焦りが交じった怒声が部屋を裂いた。顔を真っ赤に染め、鋭い視線をクロードに向けた。
(あの弟め……俺の前に出ることは許さん。玉座は、俺のものだ!)
クロードは冷ややかな目で軽く息を吐き、静かに視線を伏せた。
(まだだ。もう少し……露出させるな――殿下。)
胸中で呟きながら、彼は揺るがぬ決意を秘め、王太子をじっと見つめ続けた。
同じころ、王都の社交界は華やかさとは裏腹に、冷たい噂話で満ちていた。
夜会の広間ではシャンデリアがきらめき、貴族たちの笑い声が響いている。だがその視線の先に立つカロリーナに向けられる感情は、もはや羨望ではなかった。
「可哀想に、もうすぐ終わりだな。」
「王太子妃になる夢を見ただけの娘。」
侮蔑の囁きが背後から降り注ぐ。
笑い声の合間に、誰かがわざとグラスを鳴らした。その小さな音でさえ、彼女を嘲る合図のように響く。
遠くから視線を投げる令嬢たちの口元には、憐れみとも侮蔑ともつかぬ笑みが浮かんでいた。
水色の瞳に涙が滲み、震える手がドレスの裾を掴んだ。
人々の視線は冷たい針のように彼女を刺し、舞踏の輪からさりげなく外される。
誰も彼女の名を呼ばず、代わりに嘲るような笑いが広がった。
ドレスの裾が乱れ、足元で宝石の飾りが外れる。
カラン――と転がる乾いた音が、彼女の野望が崩れる音のように響く。
カロリーナはその場に立ち尽くし、誰からも手を差し伸べられない現実に唇を噛み締めた。
それでもカロリーナはかつてのように可憐に微笑むしかない。伯爵家の娘として、掴みかけた王太子妃の座は自分のものだと誇示するためにも社交界という戦場で失態を繰り返すことはできない。何とか支持者を取り込み立場を固めるしかないのだ。
だがしかし、その笑みは凍りついていた――。
(何としてでも王太子妃にならなくては……! でなければ……もう未来がないわっ)
一方、王都から遠く離れた魔王城では、まったく別の夜が広がっていた。
漆黒の塔の最上階に広がるバルコニーは、静かな夜風に包まれていた。
空には群青の帳が垂れ、青白い月がゆるやかに王国を照らしている。遠方に漂う浮遊島は淡く輝き、空を舞う魔獣の虹色の鱗が星屑のように煌めいた。
アイラは石造りの手すりに指をかけ、遠くの夜景を見つめる。
(このままで、本当にいいの……?)
魔王の庇護は安心をもたらす。それでも、王国の動乱を思えば胸が軋むように痛んだ。
――その時。
扉がわずかに軋む音を立て、金具が乾いた音を鳴らす。
重い足音が、石床を静かに踏みしめて近づいてくる。
その気配だけで、誰が来たかを悟る。
振り返ると、黒いマントを翻した魔王が月明かりの中に立っていた。
紅い瞳は夜の深淵に燃える灯火のように揺れてその視線が心を射抜く。
「怖がるな、アイラ。」
低く甘やかな声。
魔王は一歩で距離を詰め、ためらうことなく彼女の肩を抱く。
その腕は温かく、同時に逃げ場を与えない檻のように力強かった。
「お前は俺が守る。誰も近づかせはしない。」
吐息が耳元をかすめ、心臓が激しく跳ねる。
アイラは頬を紅潮させ、かすれた声で呟いた。
「……ありがとう。」
その声には戸惑いと、わずかな安堵が混ざっていた。
魔王は黙って彼女を抱き寄せる。
深紅の瞳には――決してこの手から離さないという、危うくも熱い決意が宿っていた。
『もう二度と...離しはしない』
魔王の発した最後の言葉はアイラの耳には届いていない。
魔王の魔力を感じたあの日から、アイラの胸はいつも不思議な期待で満たされていた。なぜかはわからない――だが、必ず魔王様に逢えると信じていたのだ。
ライトとの婚約の日、胸の奥には複雑な感情が渦巻いていた。なぜか、この身に纏う魔王の魔力が自分を繋ぎ止めているように感じていた。
魔王とアイラのシーンは第3話との違いが...あまりない...ような?
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