異界
「オスカー!オスカー!」
オスカーは自分を呼ぶリリーの声でまた目を覚ました。
夢か……
こちらに落ちてから何度目の夜だろう。
最後に聞いたリリーの声が何度もオスカーの頭の中を巡る。
もう会えないかもしれないと、オスカーは絶望的な気分になる。
亀裂を閉じたのは咄嗟の判断だったが、正しかったと思っていた。
あれは火竜だった。
元の世界と同じ形の月明かりの下、松明に照らされて鋼鉄製の首輪が巨大な竜の首に光って見えた。恐らく飼われていたのか、或いは捕らえられていたのか、とオスカーは考えた。
見た瞬間にマズイと感じた。
亀裂目掛けてそれは口を大きく開け、まさに炎を吐き出そうとしていると咄嗟に判断した。いや、実際少し喉の奥に炎がオスカーには見えた。亀裂からあの炎がリリーたちに襲い掛かると思ったオスカーは必死で亀裂を閉じた。火竜から吐き出された巨大な炎はそのままオスカーの方へと向かって来た。
オスカーはその時の事をはっきりとは覚えていなかった。
どうやら剣で咄嗟に結界を作ったらしい。リリーの結界の見よう見まねだったが、火事場の馬鹿力とだろうか。オスカーは何とか炎を結界で避ける事が出来たが、庇いきれなかった左手に広範囲の火傷を負った。結界が消えた時、オスカーを引きずり込んだ兵士達は皆、消し炭と化していた。
火竜の後ろにいた人々が慌てふためいていた。兵士たちも右往左往していた。その隙を狙って、オスカーは走り出した。その時、左腕に激痛を感じた。兵士の一人がオスカーの左腕を火傷の上から掴んだのだ。焼けてボロボロになった袖と皮膚がずるりと剥がれ落ちた。だが、ここに留まる訳にはいかない。オスカーは痛みをこらえて走り始める。そのうち火竜の鎖が解かれてしまったらしい。火竜は鎖を引きずりながら、あちこちへ炎を吐き始めた。そこここで火の手が上がる。轟々という炎の爆ぜる音と、兵士たちの阿鼻叫喚が辺りを埋め尽くす。兵士も、建物も次々に赤々とした炎と、それに照らされる真っ黒な煙にその姿を崩していく。オスカーは必死に走った。民家の多い集落だったが、人々が慌てふためいて飛び出してくる。叫びながら火を逃れようと走り出す。夜とは思えないほど、炎が辺りを照らしていた。
火竜はまるで今までの恨みを晴らしているように、人々に襲い掛かった。動くものに炎を吐く。オスカーも何度か見つかったが、その度に結界で何とか凌いだ。そのうちにどうも火竜がオスカーに目を付けたらしい。オスカーを執拗に追いかけてくる様になった。
道は次第に細くなり、森が近づいてくる。
何故か感覚が研ぎ澄まされている。森には魔物の気配がいくつも感じられた。
そう言えば、リリーが魔物の気配を感じ取っていたなとオスカーは思い出した。
あれはこの感覚か、と理解する。
正面に魔物たち、後ろに火竜。
オスカーは振り向くと、火竜の方向へ走り出した。
一気に距離が詰まる。
オスカーは剣に白い光を纏わせる。
火竜が口を開けた。
オスカーは火竜の懐に飛び込んで、剣を払った。
火竜の首が落ちた。
そして巨体がつんのめってオスカーの方へ転がるのを何とか避けた。
遠巻きにその様子を伺っていた魔物たちがオスカーの方へと動き始める気配がした。
火竜の骸が目当てなのか、オスカーを獲物と認定したのか。
月明かりの中、魔物たちの光る赤い目が次々にオスカーに襲い掛かって来た。
オスカーは右手一本で横薙ぎに剣を払う。魔物たちが上下に分かれて体液をまき散らしながら転がる。
何故だか、剣の届く範囲が思いの他広い。
魔物の他にも辺りの立木が何本も倒れた。その木を飛び越えて、再び魔物が襲ってくる。
何度も剣を振るった。
オスカーの右手の握力が消えかけた頃、ようやく辺りが白み始めた。
魔物が引いていく。
周りにおびただしい数の魔物の死骸が転がっていた。
魔物の脅威が無くなると、オスカーは左腕の激痛に再び襲われた。
回復術は呪文を書物で読んだ事があるだけだったが、やらないよりマシだと唱えてみる事にした。
すると、わずかに痛みが和らいだ気がした。
その時、オスカーは、ようやく気付いた。
この世界は魔素が濃いのだ。
だから、オスカーでも結界が張れたし、剣の威力がやたらと広範囲に届いた。
オスカーは火竜の骸の隣に腰を下ろすと、真剣に左腕に治癒魔術の呪文を唱え始めた。
左腕は驚くほど回復した。ずる剥けた皮膚が再生し、痛みも引いた。
すると、現金なもので腹が減って来た。隣に転がる火竜を見て、これは食えるだろうかとオスカーは考える。
巨大な太腿を白い光を纏わせた剣でさっくり切り落とす。
炎の魔法もやってみると容易く使えたので、腿の一部を焙って食べてみた。なかなかに美味い。
日が昇ると辺りの様子が分かって来た。来た方角は煙が依然立ち込めているが、反対側は遠くまで見通せた。平地には遠くに塔や建物が見える。あちらへ行くのはどう考えても悪手である。
後ろに広がる森と、その向こうの岩山が見えた。魔物の巣ではあるが、人間を相手にするよりは良いだろう。魔物たちは亀裂から零れてくるので、ある意味見慣れているが、異界の人間は何を考えているのか計り知れないとオスカーは考える。
遠くに見える岩山へ向かう事にした。
携帯食料は非常用に多少騎士服に縫い込んであるが、こんな場合は現地調達が基本である。竜の腿を片手に持つ。森を進むうちに良さそうな蔓があったので、腿を背に括り付けた。少々匂うが我慢である。
下草をかき分け、森を進む。斜度がキツイところはマルクのリボンのようなものを出して上方の木に絡めて手繰り寄せながら登る。
あれほど羨んだマルクの術具だが、こちらの世界だとオスカーでも簡単に出せた。
苦笑しながら登って行くと、滝があった。
水を飲む。
生き返るようだった。
滝の裏に洞窟があるのを見つけられたのは僥倖だった。
洞窟に入ると、奥から吸血蝙蝠が大挙して押し寄せてきたが、結界を天幕のように張って、やり過ごした。
あの蝙蝠の縄張りという事は、他の魔物はここにはいないのだろう。下手に蝙蝠を全滅させて、他の魔物を呼び込むのはよろしくない、とオスカーは判断する。
洞窟は内部で枝分かれしていた。
炎の魔法で松明を作り、少し進むと、行き止まりだった。
しばらくはここをねぐらにするか、とオスカーは思う。
枝分かれの入り口部分に結界を張って、蝙蝠が入れないようにした。
水もある。食料はこの火竜の腿肉がしばらくある。
少し安心した途端に強烈な眠気がオスカーを襲って来た。
眠ると結界が消えるだろうか?だとすれば、中の蝙蝠を一掃しなければならない。
などと考えていたが、あまりの疲労につい眠り込んでしまった。
目覚めた時、目の前に結界がまだ白く輝いていたのには心からホッとした。やはり、魔術の効きは、こちらの世界が圧倒的に良いようだった。
そして再び、夜を迎えた。
魔物たちが目覚める気配がする。オスカーは近くで巨大なモノが起き出したのを感じた。
この洞窟には吸血蝙蝠以外もどうやらおいでになるらしい。
その巨大なモノはズズ、と音を立てながら近づいて来る。
入り口に張った結界の前でそれが止まる。
ドスン、と言う音と共に結界が何度も白く煌めいた。それが攻撃を仕掛けているのだろう。
やがて、またズズ、という音がして、それが動き始めたのが分かった。滝への出口に向かっているようだ。
そのうち大きな水音が聞こえてきた。
どうしても正体を知りたくて、オスカーは結界に隙間を作ってそこから出る。剣に纏わせた光で辺りがほんのりと照らされている。吸血蝙蝠どもは狩りに外へ出ているのか、先の巨大なモノに道を譲ったのか、気配が無い。
滝へ出た。
昨日より少し欠けた月が煌々と滝壺を照らしている。
滝壺には巨大な白い蛇がいて、悠然と体をくねらせていた。
蛇がこちらを見た。オスカーと目が合う。丸く、赤い目だ。
オスカーは緊張しながらも、その目を合わせ続けた。
石化の呪いなどは無いようだったのが助かった。
そのうち蛇はふいと目を逸らした。
何日か過ぎたが、もうあの白い蛇はオスカーの結界に攻撃を加える事は無い。この滝の主はどうやらオスカーを受け入れてくれたらしい。
取り敢えず身の安全は確保した。食料が足りなくなれば、夜に魔獣を狩った。飲み水はいくらでも滝から補充できる。体も洗えた。
落ち着くとこれからどうするか考えるようになる。
空間を切り裂く術具はあちらにある。ひょっとするとそれを使ってオスカーを探しに来るかもしれない。空間が裂かれれば、近ければ感じ取れる。だが、初めの村からは、かなりの距離がある。離れたのは間違いだったかもしれないが、かと言って様子を見に来るだろうこちらの世界の人間たちに捕まるのは御免だった。
リリーたちが術具を使いこなせなかった場合、帰る手段は自然に開く亀裂を待つ他無い。
自分が通れる位の大きめの亀裂が、感じ取れる位の近さで開く確率を考えるとオスカーは暗澹たる気持ちになったが、待つ以外に無い。
術具がこちらの世界に複数あると言う仮定はどうだろうか?それを奪い取って自分で帰路を開く。
だが、しばらく考えてオスカーは頭を振った。
もし、複数あるとするなら、もっと頻繁にあの奇妙な形の亀裂が生まれただろう。あのような人為的な形の亀裂は殆ど無かった。
術具は一つと仮定するのが最も可能性が高い、と結論付ける。それも樽が現れ始めた頃に開発されたのだろう。
捜索隊を待つか、自然の亀裂を待つか。いずれにせよ待つしかないと覚悟を決めたが、日がたつにつれて次第に不安が大きくなる。
洞窟に毎日一本ずつ刻んだ筋が三十本を超える頃になると、諦めの気持ちが大きくなってきた。
そんなに長期間捜索してくれるとは思えない。死んだと思われれば終了だ。
自然の亀裂を待つか。自分で、亀裂を作るか。
何度も亀裂を作ろうとしてみたが、一度も成功しない。
そうしてオスカーは、夜ごとにリリーの夢を見ているのだ。




