29 隠し事は禁物のようです
亜蓮様と固い握手を交わした後、ひとりで茶室を後にした。
躙り口から出てきたわたしを、カイが待ちかねたように近付いてきた。
「姫様……」
「大丈夫よ。少しお話をしただけだから」
カイは当然のように手を貸してくれる。わたしも当然のような振りをして、彼の手を取る。
白い手袋越しに感じる彼の体温がとても温かく感じる。どうやら緊張していたみたい。わたしの指先の冷たさに気付いたカイは、温めるように優しく握り締めてくれる。
何か言いたげなカイの様子には気付いていた。多分、ううん……それは間違いなく、亜蓮様と二人で話したことについてだろう。
けれど、亜蓮様との会話の内容を話すわけにはいかない。それは、亜蓮様に恋の手管を教えてもらうことになったから。
もちろん、亜蓮様が純粋な気持ちで協力してくれるわけがない。まるっと信用するつもりはないけれど、この四年間続けてきた努力が実を結ばない身としては、百戦錬磨の亜蓮様の協力は非常にありがたいものだった。
『今の話を、もちろん火威殿には話してはいけませんよ』
『少し秘密があるくらいが、男女の仲は丁度良いのです』
今思い返せば、何でもあけすけにカイに話し過ぎていたのかもしれない。
少しくらいカイに秘密があってもいいわよね、うん。
「帰りましょう」
「……はい」
亜蓮様との会話について、触れる気が無いと察したのだろう。カイは静かに頷いた。
* * * *
馬車が走り出した途端、カイは襟元を緩め、整えた髪をぐしゃりと掻き乱した。
かっちりした服装のカイが見せた無造作な仕草に、思わず心臓が跳ねる。
ちょっと驚いたけれど、カイも堅苦しい格好は疲れたのだろう。だったら、わたしも……と伸びでもしようかと思った時だった。
「……で、鳳凰院伯爵と何を話していたのですか?」
ずい、とカイは身を乗り出すと、真正面から詰め寄った。
大して広くも無い馬車の中。しかもカイと二人きり。
ときめきとは違う意味でドキドキする!
誤魔化すように目を逸らすと、視線の先を腕で阻まれた。
これって、いわゆる「壁ドン」ってやつよね。
嬉しいシチュエーションのはずなのに、今はむしろ恐怖だ。冷や汗が止まらない。
「あの……カイ?」
「二人で何を話していたのですか?」
やっぱり見逃しては貰えなかったのね……。
至近距離から真顔で迫られるなんて。夢に見たシチュエーションのはずなのに、ネコに追い詰められたネズミの気分って、きっとこんなだと思う!
「え、ええと……婚約者候補からは辞退しないけれど、伯爵の婚約者の女性には誤解がないよう話をしておくから安心して欲しいと」
「それは俺も聞きました。で、本当は何を話したのです?」
「…………それは」
「何のために俺がここにいるのですか?」
そりゃそうよね、カイは亜蓮様が婚約者候補から辞退してくれるよう、協力してくれているのだから。
だからといって、亜蓮様との会話をすっかりそのまま話すわけにはいかない。
必死に頭を整理する。
カイに知られてはいけないこと。それは、わたしがカイに恋をしているということ。カイの気持ちがわたしに向くよう、協力してもらうこと。
それを知られないよう、ある程度は会話の内容を伝えても、恐らく大丈夫なはず。
「実は……私たちが偽物の恋人同士だと気付かれてしまったの」
「何を今更。散々怪しまれていたではないですか。まあ……姫様なら看破するのは簡単だと思ったのでしょう。それで、姫様はあっさり認めてしまったと」
「あっさり認めたというわけではないのよ……うっかり口を滑らせてしまったというか…………ごめんなさい」
嘘ではない。一応嘘ではない。
カイの華族の養子という身分が仮の恋人役に丁度良かったとか、わたしたちが相思相愛だとかいうから、うっかり否定してしまっただけで。
「……姫様が謝る必要などありません」
カイはひっそりと息を吐いた。そして、壁に置かれた手で、自分の顔を覆う。壁ドン状態を解いたカイは、力尽きたように背もたれに身体を預けた。
「…………俺にも責任はあります。そもそも、庭師と王女が恋仲だなんて、最初から無理があるのですから」
溜息と共に吐き出した彼の言葉が、胸に突き刺さる。
「……どうして無理があるの?」
声が震える。同時に震え出した指先を握りしめ、カイの返事を待った。
「身分が、雲泥の差ですから」
でも、あなたは此花に恋をしていたじゃない。
「なのに、庭師仕事に興味を持ったり、飼料づくりに精を出したり、侍女の振りをしたり、一介の庭師に恋人役を頼んだり……」
「侍女?」
途端、カイが息を呑む。
ひとつひとつ挙げられたわたしの所業の中に、ふと引っ掛かるものに気付いてしまった。
「それは……」
カイは顔を覆っていた手を離すと、気まずそうな面持ちを露わにした。
「……私が侍女の振りをしていたこと、気付いていたの?」
「…………」
驚きのあまり、指先の震えも止まってしまった。というか、侍女のハナの時、カイに変なこと言ったりした?
侍女姿でカイに会った時の出来事を、必死に思い返す。
カイは……ハナに対して優しかった。もしかして、女の子に対して優しいのかもしれない。
というか、どこでわたしだと気付いたのだろう?
最初にナンパまがいに名前を聞いた時? 迷子になるからと手を繋いだ時は?
「いつから気付いていたの?」
「…………」
今度はわたしの方がカイに詰め寄った。彼の困った様子を目にして気が大きくなったのかもしれない。
座席から大きく身を乗り出して、俯いたカイの顔を覗き込んだ時だった。
馬車が、がくんと大きく揺れた。
「あっ!」
「っ!」
大きな段差か石にでも乗り上げたのか、下から突き上げるような衝撃に襲われた。座席から身体が宙に放り出された時、痛みを覚悟して目を瞑った。
……あれ? 思ったより、痛くない?
目を開くと、目の前には赤、ううん、赤よりも落ちついた赤褐色……紅茶の水色に似た髪が目の前にあった。
「申し訳ございません! 御怪我はございませんか?!」
「殿下も私も怪我はありません。このまま馬車を走らせてください」
「畏まりました」
慌てた御者の声と、それに答えるカイの声。
カイの声が近いというか、直接身体に響いてくるみたい。
ということは、今わたしが縋り付いているのは……。
恐る恐る顔を上げると、案の定、気遣うように覗き込むカイの瞳とぶつかった。
「大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫、平気よ……」
カイが抱き留めてくれたお陰で、怪我ひとつなかったけれど……。
今の状況を理解した途端、一瞬にして頬が火のように熱くなる。
「あ……りがとう。もう、大丈夫だから、離して……?」
抱き付くどころか、カイの膝に乗ってるし!
慌てて身体を離そうと腕に力を込める。けれど、それ以上の強さで、カイの腕がそれを引き留める。
「あの、カイ」
「いつから、ハナが姫様だと気付いたのか。俺が答える前に教えていただけますか?」
「なあに……?」
抗うのを止めると、少しだけ腕の力を緩めてくれた。そうしてもう一度向き合うと、雨が去った後の空を思わせる瞳が、わたしを静かに見つめる。甘さの欠片も無い眼差し。けれども切実な色を帯びて、ただ真っ直ぐな瞳を向ける。
「姫様は、何故……俺に恋人役を頼んだのですか?」
今度は、わたしが息を呑む番だった。




