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20 カイの不在

 いよいよ亜蓮様の邸宅に伺うのは明日。今になって、もう少し猶予を貰えばよかったと後悔している。

 だって、カイといかに恋人の設定をまとめたところで、ちっとも距離は縮まらない。

 設定を決めたところで、恋人らしくなるわけがない。でも、亜蓮様との婚約を免れるためには、カイと恋人らしさを醸し出さなければならない。

 一日でどうにかなるものでもないけれど、取り敢えずカイと相談するしかない。


 よし、頑張る! 頑張って、カイと恋人らしくなるんだから!


 決意を固めて起きた早々、アヤメに先手を打たれてしまった。


「朝餉が終わりましたら、明日に備えてお肌や御髪のお手入れを致します」


 髪を梳きながら、アヤメはお手入れについての説明を始める。

 蒸し風呂から始まり、顔や頭皮、全身のマッサージ、足つぼマッサージや針灸、髪のトリートメント、肌のパック、爪のお手入れについて、延々と語る。

 

「え……そんなに?」


 鏡越しからアヤメに訊ねると、当然と言わんばかりに大きく頷いた。


「当然です。明日の鳳凰院伯爵家への訪問ですから、徹底的に磨き上げますので、覚悟なさってください」


 どうやらアヤメは、わたしを全身ピカピカに仕上げる気満々のようだ。

 わたしは知っている。以前、お嫁入り前の桐花姉上がブライダルエステ的な施術を何度か受けて、溜息が出るほど美しくなっていったけれど、毎回立つのもやっとなほどフラフラになっていたことを。

 一体どんな目にあっているのだろうと思っていたけれど、とうとう身をもってそれを知る羽目になろうとは……。


「あの……時間は掛かる?」

「終わったら昼餉のお時間になるくらいです」


 大したことありません、と笑顔で押し切られる。どうやら「やらない」という選択肢は、わたしには無いようだ。


「お手柔らかにね?」

「はい。誰もが見惚れるほど磨き上げてみせますので、ご期待ください」


 アヤメの笑みは、何というか……気迫が漲っているっていうのかしら。逆らえない圧力すら感じる。

 桐花姉上のようにきれいにして貰えるのは嬉しいけれど、すべての体力と気力を使い果たすような施術を受けるのは恐ろしくもある。

 

「きっと鳳凰院伯爵も、姫様の美しさに敗北感を味わうこと間違いありません!」


 なぜ敗北感? 見惚れてしまうとか、惚れ直してしまう、とかじゃないくて?


「えと……ありがとう?」

「お任せください! では姫様、まずは朝餉を済ませて、施術に備えておいたくださいませ」

「ええ……」


 その施術とやらは、お昼には終わるのかしら?

 カイに今日中に会えるかしら?

 明日が本番なのだから打ち合わせをしたい。ううん、ただ会いたいだけなのかもしれない。

 一抹の二抹もよぎる不安を抱えながら頷くのがやっとだった。


 * * * *


 鬼のような施術が終わったのは、お昼過ぎだった。

 うん、アヤメの言った通りの時間だ。終わったらすぐに昼餉の時間だったから。


 お肌はもちもちのすべすべ。ただえさえ白い肌が、さらに透明感を増したような白さになったけれど。

 念入りなマッサージのおかげで、血液の流れもよくなって、頬も唇も桜色になったけれど。

 針灸や足つぼマッサージのお陰で、肩凝りもないし、身体が軽くなったけど。

 髪もさらさらのしっとり。銀色は光沢を増し、驚くほど柔らかな手触りになったけれど。

 頭のてっぺんから爪先まで、ピッカピカになったけれど。


 つ、疲れた……。


 昼餉もろくに喉を通らなかった。やっと紅茶と果物をお腹に入れるのが精いっぱいだった。

 カイに会わなくちゃ。

 今日は庭仕事はしない。というかできない。

 でもカイには会わなくちゃいけない。


「姫様、どうなさいました?」

「ううん……ただ。綺麗になるって大変なのね……と実感したところよ」

「まあ姫様。これくらいは、まだ序の口ですわ」


 食後のお茶を用意してたアヤメは、それすら手を付けようとしないわたしの状態は予想していたようだ。控えめに微笑みながら、温かな紅茶を差し出した。


「今日はゆっくり過ごされたらいかがですか?」

「ええ……あの、カイに。そう、堆肥のことで言付けがあったのを思い出したの。だから着替えの支度を……」


 するとアヤメが僅かに、目を逸らす。

 そう、アヤメは報告しづらいことがあると、すぐに目を逸らしてしまうから気付いてしまった。

 何だろう。嫌な予感がする。


「……今日はカイ、お休み? 病気とか、怪我とか……」


 するとアヤメは、ゆるりと頭を振った。


「カイは……昨日で王城を去りました」

「え……」


 耳にした言葉の意味が理解できなかった。


「昨日付けで庭師を辞したと聞いております」


 サツキは敢えて事務的に告げる。

 

「そう、なの……」


 知らなかった。ううん、知っていた。

 以前カイが父親の仕事を継ぐという話を、此花ではなく、ハナだった時にしてくれた。

 そうだ。恋人の振りは? 

 でも、アヤメに聞いたところで答えは得られない。何故ならカイに恋人の振りをしてもらうこと、明日亜蓮様に彼も招待されていることを知らないのだから。


 一体、どうして?

 もっと先の話じゃなかったの?

 そんなにわたしの頼みが嫌だったの?


 頭が真っ白になって、何も考えられない。


「…………そう、辞めてしまったのね」


 昨日のカイを思い出す。いつもと同じ様子だった。辞めるなんて一言も言っていなかった。

 もしかしたら、普段と様子が違っていたかもしれない。なのにわたしは、自分のことで頭がいっぱいで、何も気付かなかった。


「姫様……」


 不安そうな、労わるような、気遣うようなアヤメの声。

 主なら「仕方がないわ。大丈夫よ」と、微笑んでみせるところだろう。なのに、急に胸に空いた穴が大きすぎて、色々考えることが難しい。

 ただ、カイともう二度と会えないということばかりが、わたしの胸を苦しくする。


 もう明日のことなんて、どうでもよかった。

 これでは亜蓮様との婚約を回避することができない。ううん、そもそも庭師の青年と交わした約束なんて、無かったことにされるのはわかっていた。

 亜蓮様だって、本気でカイと会いたかったわけじゃない。相手は市井の人間だから、伯爵家の当主が相手とわかれば、尻尾を巻いて逃げ出すと思っていたのだろう。


 カイだってわかっていたはず。庭師の青年と結婚の約束をしていたからって、まともに取り合って貰えないことくらい。


 わたしの子供じみた提案に乗ってくれたのは、ただの気休めのため? 王女の我が儘に適当に付き合ってくれただけなの?


 でも、カイはそんな人じゃない。

 駄目なことは駄目だと言ってくれる。わたしの頼みだって、面倒くさいからってなかなか聞いてくれない。特に堆肥作りには非協力的だった。けれど、どうしてもわたしの手が空かない時は、嫌々ながら手伝ってくれることもあったけれど。

 将来を誓い合った振りをして欲しいなんて、これまでのお願い事の中で、一番馬鹿げたものだ。

 なのにきいてくれた。相談に乗ってくれた。恋人らしく見えるよう、一緒に考えてくれた。


 だから……信じよう、カイのことを。

 きっとわたしに何も言わなかったのは、きっと理由があるからだと……信じたい。


「……アヤメ」

「はい、何でございましょう姫様」


 やっと出した声は擦れて震えていたけれど、アヤメは気付かない振りをして頷いた。


「一緒にお茶を飲みましょう?」

「……お毒見ということでしたら、喜んで致しましょう」


 アヤメがごくたまにお茶に付き合ってくれる口実だった。


「ありがとう、アヤメ」

「ただのお毒見ですから」


 そう言いながら、ティーカップを二組用意してくれる。

 きっとアヤメは気付いている。わたしが彼に使用人以上の気持ちを抱いていることに。彼が王城を去ったことが、どれだけ衝撃で悲しかったのかを。

 でも、何も言わずに、王女の我が儘に付き合ってくれている。


 大丈夫、カイを信じる。


 今すぐ飛び出して、カイを探し回りたい気持ち。押し潰されそうな不安をぶちまけたい気持ち。

 それらを全部飲み込んで、柔らかな椅子に身体を沈めた。




 カイを信じる。

 そう心に決めたはずなのに、その日の夜は一睡もできなかった。


 うつらうつらとし始めた頃には、もう空は白み始め、夜は終わりを告げようとしている。

 何とか眠ろうと寝具に包まったまま身体を丸めていたけれど、窓の外が次第に明るくなるのを認めて、眠ることを諦めた。

 のろのろと起き上がると、寝台を降りて姿見の前に立つ。艶を失った縺れた銀髪と、白さを通り越して青ざめた頬。近づいて鏡を覗き込むと、目の下にはうっすらと隈が浮かんでいた。


「ひどい顔」


 せっかく綺麗にしてもらったばかりだというのに、寝不足の前ではその努力はすべて水の泡だ。

 ふっと、失笑のような笑みをしている自分が映る。

 まるでお化けみたい。

 でも、亜蓮様はわたしが美しかろうと醜かろうと関係ないのだろう。ううん、中身だけでも本物の此花のように美しかったら、きっと亜蓮様は恋に落ちただろう。


 カイを信じる、信じたい。でも、本当は信じ切れていない。認めたくないけれど、カイはもう二度とわたしの目の前に姿を現さないんじゃないかって思ってしまう。


 わかっていたじゃない。カイはわたしに恋していないってことくらい。

 それは、わたしが本物の此花じゃないから。

 鏡にはさんざんモニタ越しに眺めていたゲームのヒロインその人が、思いつめた青白い顔でこちらを見つめている。

 絶対に此花が浮かべないような陰鬱な表情。


 此花わたしが此花じゃなかったら、カイは好きになってくれたかな?


 ふっと視界が歪む。不意に込み上げた涙が、筋を作って頬を濡らす。

 駄目だ、泣くな。

 歯を食いしばって、込み上げる嗚咽を噛み殺す。

 

 駄目。泣いたらカイを信じていないことになる。

 最後の最後まで、カイを信じたい。

 カイがわたしを好きじゃなくてもいい。わたしがカイを好きなんだから。


 手の甲で涙を拭うと、挑むように鏡の自分を目ね付けた。


 * * * *


 ひどい目の下の隈を見つけても、アヤメは何も言わなかった。

 アヤメのお化粧は本当に見事で、厚化粧に見えないように、すっかり綺麗なお肌に仕上げてくれた。

 髪はアヤメが梳ると、瞬く間に柔らかな輝きが甦る。 

 翡翠色の晴着には、銀糸で刺繍された藤の花が、光の加減で浮かび上がる。髪も下ろし小さな生花で作られた髪飾り。

 薄紅色の紅を乗せた化粧は、大人びたものではなく、年相応な装いに仕上げてくれた。


「姫様、お美しいですわ」

「ありがとう、アヤメ」


 年上の亜蓮様と合わせるなら、もっと大人びた感じに仕上げるのだろうけれど、敢えてアヤメは年相応にしたに違いない。


「そろそろお時間ですね」

「ええ」

「馬車の支度が出来ているか、確認してまいります」

「ありがとう」


 アヤメが慌ただしく退室すると、急に辺りが静かになってしまった。

 カイは……来ない。

 両手を、ぎゅっと握り締める。

 どうか……あなたを信じさせて。お願いだから。


「姫様!」


 再び戻ってきたアヤメの声に、はっと我に返る。

 知らず知らずのうちに、自分の手の甲に爪を立てていたようで。肌にはうっすら血が滲んでいた。

 

「姫様……姫様、馬車が、お迎えが……」


 いつになく慌てたアヤメの様子に、思わず彼女の下へと駆け寄った。


「どうしたの、アヤメ」

「あの、お迎えが参りました」


 アヤメが動揺している。いつも冷静なアヤメが、どうしたのだろう。


「お迎えって、まさか鳳凰院伯爵家かしら」

「いいえ」


 アヤメは短く否定する。そして意外な名前を口にした。


上遠野かみとおの辺境伯からのお迎えです」

上遠野かみとおの様?」


 あまり耳にしない名前に首を傾げる。

 確かずいぶんとお年を召した方で、奥様は結婚後間もなく亡くなってしまい、後継者がいないという噂は耳にしていた。

 領地は遠く、恐らくわたしは一度もお目に掛かったことがないはずだ。


 なぜ、面識のない上遠野辺境伯がいらしたのかわからない。

 思い出せない攻略キャラクターかしら……と思考を巡らせていると、部屋の扉がノックされた。

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