17 わたしの前から、消えたりしないで
カイがお城を辞めてしまうなんて……。
あれから一週間が経ったけれど、誰からも辞めるという話は一言も聞いていない。
実を言うと、カイにあのお願いをした日から、庭仕事をしていない。だから耳に入らない可能性もあるけれど、もしカイが辞めるなら、少なくともゴウかサイからは何か一言あるはずだ。
もしかすると、今すぐにというわけではないのかもしれない。とはいえ、カイが辞めると言ったのだから、いつかは辞めてしまうのだろう。
わたしと関わりを断ち切りたいと思ったから、辞めようと思ったのだろうか。
恐らく以前から辞めることを決めていたとしても、わたしの件で踏ん切りを付けたのかもしれない。
カイの話を聞いて以来、ぐるぐるとネガティブな考えが頭の中を行ったり来たりしている。
カイは親父の跡を継ぐって言っていたから、それは本当なのだろう。でも、それが一番わからない。
親父、つまり庭師の頭であるゴウの跡を継ぐことだ。お城の庭師を辞めるなんて話が合わない。
親父というのは、ゴウのことじゃないの?
ゴウは養父だから、カイの本当の父親という意味?
考えれば考えるほどわからない。だからと言って、本人にも聞けない。
庭仕事に行けない理由。それは、カイにどんな顔をして会えばいいかわからないから。
ああでも、彼に嫌われるくらいだったら、将来を誓い合った仲の振りをして欲しいというお願いなど、さっさと取り下げるべきなのかもしれない。ううん、速攻取り下げるべきだ。
女王への道を回避すればカイと結ばれるなんて、思っていたあの頃が遠い昔のことのようだ。
カイの心がわたしにない限り、そんな未来はあり得ない。
いっそのこと、玉砕覚悟で告白をしようかしら。絶対受け入れて貰えないとは思うけれど、せめて気持ちだけでも伝えたい。
そうよ、亜蓮様や、その他出現するかもしれない婚約者候補をすべて退けて。そして、カイにきちんと振られて……わたしは一人で生きていくの。
確か、誰とも婚姻を結ばない「孤高ルート」というものも存在していた。
ちゃんとプレイしていなかったから、詳しくはわからないけれど、出奔した兄上の忘れ形見を王として育て上げ、その後主人公は隠居するってことくらいしかわからない。
でも現状としては兄上は出奔をしていないし、女王にもなることはない。だから、この世界でゲームと同じ孤高ルートは存在しない。
ふと、いつまでもゲーム設定に拘っている自分に気が付き、苦い笑いを浮かべる。
だって、カイは主人公に恋心を持っていないし、兄上も無事王太子となった。一人の攻略キャラは桐花姉上と婚姻を結んだ。いまだに亜蓮様以外、他の攻略相手のことは思い出せないし、登場する気配もない。
そう。ゲーム通りなのって、亜蓮様くらいじゃないかしら。
亜蓮様に本当のことを言おう。将来を誓い合った人なんていないって。そしてカイに謝ろう。あんな馬鹿みたいなお願いをして、ごめんなさいって。
だからカイ、どこにもいかないで。
あなたが居てくれるだけでいい。わたしのことを何とも思っていなくてもいいから。
だからお願い。わたしの前から消えたりしないでって、彼に追い縋りたい。
でも、彼は決めたのだ。この王城から去ることを。だから、我が儘で引き留めたりしてはいけない。
わたしのおかしな頼みごとが引き金だとしても、いずれ彼は城を去るに違いない。
「やっぱり、モブキャラとは結ばれない運命なのかな……」
ううん、彼はモブキャラなんかじゃない。
この世界で、自分の意志を持ってちゃんと生きている人なのだから……。
* * *
「姫様、鳳凰院伯爵から文が届いております」
亜蓮様からの文。とうとう来たかと、溜息を吐きそうになる。
用件は何かしら……なんて、わからないわけがない。
いつ将来を誓い合った人物を連れてくるのか、その催促に違いない。
アヤメから文を受け取ると、紙面に書かれた優美な文字を眺める。案の定、催促の文だ。
「……ご招待状が届いたわ」
「まあ、いつですか?」
「三日後よ」
「三日?」
「大丈夫よ、さほど準備はいらないわ」
大丈夫。亜蓮様には正直に話そう。そして、あなたと婚約をするつもりはないと、はっきりと言おう。
「鳳凰院伯爵に返事を書くわ」
「はい」
「その後、庭園へ行くわ」
「……はい」
アヤメの返事が冴えないのは今更だ。思わず苦い笑いを浮かべてしまう。
速攻で「招待受けますよ」と返事をしたためると、アヤメを伴ってすぐさま庭園へ向かった。
まずは小屋にいるかと思ったけれど、誰もいない。
「アヤメはここで待っていて」
「姫様!」
「大丈夫、すぐに戻るから。お願い、ここで待っていて」
アヤメには話を聞かれたくなかったので、強引にアヤメを置いて小屋を飛び出した。
カイは多分薔薇園にいるはず。今日は庭仕事をしないので、洋装ではない。袴姿なのがせめてもの救いだ。もつれそうになる足を必死に動かして薔薇園へと走る。
カイはすぐに見つかった。今一番きれいに咲いている薔薇を選びながら、一輪一輪丁寧に摘み取っている。
微かな鳥のさえずりと、ささやかな風が揺らす葉のざわめき。そこに、カイの裁ち鋏の音が不規則に小気味良く、慎重に響く。まるで凛とした鈴の音のようで心地よい。
ああ、この姿を見るのも、もう最後なのね。
焼き付けるように、カイの後ろ姿を見つめる。
いつまでも、彼の姿を見ていたいけど、ちゃんと謝らなければならない。そして、同時にカイとの未来を望むことを諦めなければ。
ひっそりと息を吸い込み、彼の名を呼ぼうとした時だった。
しゃん、と鋏が音を立てた後。振り向きもせず、カイの方から声を掛けてきた。
「姫様、こちらにいらしたらどうですか?」
驚いて声が出ない。なんと返事をしたらいいかわからなくて、その場で立ち尽くしていると、カイが鋏を下ろして振り返った。
「庭仕事をしに来たわけではないようですね」
わたしの服装を目にして、カイは最近よく見る苦笑いを浮かべる。
「ええ……」
ゆっくりと、カイに歩み寄る。
綿で仕立てたシャツとズボン。丈夫なブーツという姿のカイからしたら、今のわたしはなんて作業に向かない姿に映るだろう。
「せっかく質のいい馬糞があったのに、姫様が来ないものだから、俺が引き取ってきて、もう仕込んでしまいましたよ」
「カイが?」
「はい」
「ありがとう……」
「まったく、特別手当でもいただかないと、割りに合いません」
こちらを向いたカイは、拍子抜けするくらい普段と変わらない。少し意地悪く、ニヤリと口角を上げる。
今、言わなくちゃ。多分カイも敢えて普段通り振る舞ってくれているのだと思う。だから、今、言わなくちゃ。
胸の痛みに気付かないふりをして、意を決して口を開いた。
「カイ、ごめんなさい……。あのね、この間お願いしたことなのだけど……なかったことにして欲しいの」
「肥溜めの視察ですか? 助かります、俺もあれは流石に勘弁です」
「違うわ」
「じゃあ、鶏舎の」
「違います! 牛舎の視察でもないです! だから、あの、この間あなたにお願いした……」
言葉を濁すと、カイは背を向けてしまう。そして、再び鋏の音が始まる。
「伯爵と結婚する意志が固まったのですか?」
ややあって、振り向きもせずカイが訊ねる。
「まさか、違うわ」
そんなこと、あるわけがないのに。力なく微笑むと、正直に話す。
「伯爵には本当のことを話すわ。将来を誓い合った人なんていないって。そして、婚約は今は考えていないということを伝えて……」
「無理ですよ。姫様だけでは簡単に丸め込まれてしまいます」
「……そんなことないわ」
「そんなことあります」
前世で生きていた年月をプラスすれば、カイよりも年上なのだ。だから、その分しっかりしていると思うのだけれど、長く一緒に過ごしている彼に言い切られてしまうと、たちまち自信がなくなってきた。
「でも……」
亜蓮様に丸め込まれないようにする策を練らねば、と考えていると、カイは事も無げにこう告げた。
「だったら、俺を使えばいいじゃないですか。風よけくらいにはなれますから」
「駄目よ」
「でも、伯爵との婚約は嫌なのでしょう?」
「大丈夫、丸め込まれないよう頑張るわ。だからもういいの、おかしなお願いをしてごめんなさい」
そう、たとえ亜蓮様に丸め込まれようと、カイを頼ってはいけない。
「わたし、こう見えても結構しっかりしているのよ」
笑顔で大丈夫アピールをする。彼にはハッタリだとバレているのはわかっているが、こういうことは気の持ちようが大事である。だからハッタリでもいいのである。
「姫様」
「本当に大丈夫だから」
「はいはい、わかりました。わかりましたが、伯爵の屋敷へは俺も同行しますか」
「え」
咄嗟の言葉に反応ができない。ポカンとしている間も、カイは鋏を振るいながら話を続ける。
「伯爵から俺のところにも招待状が来ました。ぜひ姫様とご一緒にお越しくださいと」
えええっ! まさか、カイの元にも招待状が届いているなんて!
うっかり口を滑らせただけなのに、亜蓮様は、しっかりカイの名前を覚えていたようだ。
どうしよう?! これじゃあ、カイの気持ちを蔑ろにしていたのと同じだ。弁解なんて見苦しいけれど、弁解させてください!
「ごめんなさい! 事後承諾を取ればいいとかじゃなくて、あの、つい口が滑って名前を、妄想がうっかり」
「妄想?」
ひい! 余計なことを口走ったぁ!
「ううん! 今のは忘れて! なんでもないの!」
脳内彼氏をカイで妄想、ううん設定していたなんて知られたら、間違いなくドン引かれる!
「あの、その……とにかくごめんなさい。それに伯爵には、一人で伺うとお返事をしたから、カイはもう関わらなくて大丈夫よ」
その時、カイの鋏の音がぴたりと止んだ。
「関わらなくてもいいなんて、言わないでください」
背を向けたまま、絞り出すような低い声で告げる。
「あの……カイ?」
怒っているのだろうか。当然だ。ああ、やっぱり亜蓮様に彼の名前を漏らしてしまったのはよくなかった。
「……本当にごめんなさい。迂闊にあなたの名前を出してしまったことお詫びします。もう、あなたに迷惑を掛けません。庭園にも、もう来ないようにするから」
わたしの前から、消えてしまわないで。
今にも飛び出しそうな言葉を、唇を引き結んで言うまいと堪える。
思わず両手を握り締めて、彼の断罪の言葉を待ち構えていると、両手が不意に暖かくなる。
「さっきから、何を勝手なことばかり言っているのですか」
呆れたような声が近い。
声につられて目を上げると、息が届きそうなほど近くにカイがいた。伏し目がちな少し情けない面持ちで、わたしの手を包み込む手は温かい。
「カイ……」
「すぐ先走るのは、姫様のよくない癖です」
「だって……」
不意に涙ぐみそうになる。
「だって、わたし……」
これ以上、あなたに嫌われたくない。
込み上げる嗚咽を堪えて、やっと呟いた声は蚊の鳴くようなものだった。その呟きを拾い上げた彼は、さらに呆れ返ったように息を吐き出した。
「嫌ってなどおりませんから、ご安心ください」
「……本当?」
「はい。勿論です」
「でも、恨むって言ったわ」
「……あれは忘れてください。ただの逆恨みですから」
結局恨まれていることには変わりないんじゃない?
「とにかく、それなりにお慕いはしています」
嬉しいはずの言葉なのに、投げやりな口調のせいで残念な感じだ。それに、らしくない。
「なんだか……カイらしくないわ」
「嘘じゃありません。姫様には幸せになっていただきたいと、常日頃から思っております」
どうしよう、ますます彼らしくない。
嬉しい半分、キツネにつままれた感じ半分で、どう反応したらいいのかわからない。
「だから、一緒に伯爵の元へ行きますよ。姫様の思い人として」
「駄目よ、だって……あなたは」
王城を辞めるのでしょう?
でも、怖くて言葉にできない。
「いいのですよ」
カイの右手が、わたしの頬に触れる。
雨上がりの空の色をした瞳が近付いてきたので、思わずぎゅっと目を閉じた。途端、額にこつりと当たるものがあった。薄く瞼を開くと、睫毛が触れ合うほどの近さにカイの顔があった。
額がぴたりとくっついて、銀色と褐色の帳の向こうに、淡い空が優しく微笑む。
「できる限り、あなたのお役に立ちたいと思っている気持ちは本当ですから」
少しは信用してください、とカイは淡く微笑んだ。




