第3話 是正――「例外」をログに縛る
翌日、城の空は薄い灰色だった。
雲が低い。煙が残っている。だが、昨日までのような焦げ臭さは少しだけ引いた。
延焼が止まると、空気が変わる。人間の呼吸が戻る。呼吸が戻ると、次に起きるのは――不満だ。
組織は、火事の最中は団結する。
火が弱まると「誰が悪いか」を言い始める。
そこを放置すると、また燃える。
前原誠二は、朝一番にログ棚を確認した。昨日集めた紙と結晶の記録。全部揃っている。提出時間も守られている。
ただし、内容が偏っている。
勇者班は戦果しか書かない。
聖女庁は奇跡の残量しか書かない。
騎士団は損耗しか書かない。
補給は在庫しか書かない。
財務は支出しか書かない。
現場は、責められたくない項目を書かない。
それが人間だ。だから制度がある。
前原は紙を二枚取り出し、テンプレートの下に追記した。
・損耗(人員/物資)
・判断理由
・例外処理(基準外の判断をした場合)
そして大きく一行。
――例外は「記録される」ことでのみ許可される。
この一行を入れるだけで、世界は変わる。
例外が好きな者ほど、記録を嫌う。記録を嫌う者ほど、権力を乱用する。乱用は腐敗になる。腐敗は炎上になる。
だから例外を縛る。
中庭へ出ると、案の定、空気が刺さった。
白い装束の聖女庁の者たちが、集団で固まっている。こちらを見ている。
兵たちの視線も、昨日より硬い。
火が弱まった証拠だ。
現場が「余裕」を得ると、敵を探し始める。敵はたいてい、制度だ。
聖女庁運用責任者セラフィナが、前原を待っていた。昨日より目の下の影が濃い。寝ていない。
「前原。聖女たちが不満を抱えている」
前原は頷いた。驚かない。
「当然です。象徴を職員に戻すのだから、反発は出る。どういう不満ですか」
セラフィナは唇を噛み、抑えた声で言った。
「“ログに理由を書く”のが屈辱だと言っている。奇跡は女神の恩寵で、説明など不要だと」
前原は淡々と返す。
「説明が不要だと思うなら、説明しなくても運用できる仕組みが必要です。だが今は運用できていない。だから燃えた」
セラフィナの視線が揺れる。
彼女自身も、説明できない判断で矢面に立ち続けた人間だ。だから理解はしている。だが部下の感情は、理屈では動かない。
前原は一歩だけ歩み寄り、声量を落とした。
「聖女たちに“守り”として説明してください。ログは裁きではない。盾です。ログがあると、貴族が口を出せなくなる」
セラフィナが眉を上げる。
「……口を出せなくなる?」
「記録が残ると、口を出す側が責任を負うことになる。貴族は責任を負いたくない。だから口を出せなくなる」
セラフィナは小さく息を吐いた。
理解した顔だ。理解する者が一人いれば、運用は回る。
「分かった。私が言う。だが勇者も不満を抱えている」
「分かっています。勇者班は損耗を書かない。損耗を書くのが“敗北”だと思っている」
セラフィナが苦い顔をした。
「英雄はそういうものね」
前原は短く頷き、歩き出す。
「だから、面談です。今日は“損耗の価値”を教えます。損耗は敗北ではない。改善点です」
—
勇者は訓練場にいた。剣を振っている。強い。
強いが、動きが硬い。怒りが筋肉に残っている。
前原が近づくと、勇者は剣を止め、汗を拭って言った。
「お前の書類が増えた」
前原は頷く。
「増やしました。例外処理の欄を追加した。あなたが基準外の判断をしたとき、理由を書く」
勇者の目が細くなる。
「俺の判断を縛る気か」
前原は否定しない。否定すると、彼は議論ではなく感情で戦う。
「縛ります。ただしあなたを守るために。例外判断は、あなたの強みです。だが例外が無制限だと、あなたが権力者に利用される」
勇者が鼻で笑う。
「利用? 俺は俺のために戦っている」
前原は一拍置いて、言葉を刺す。
「あなたは“物語”のために戦わされている」
勇者の眉が動いた。
痛点だ。
前原は続ける。
「物語の中の英雄は、損耗しません。失敗しません。常に正しい。だが現実の英雄は損耗する。損耗を隠す英雄は、必ず折れる」
勇者の口元が歪む。
「折れない」
「折れます。人は折れる。折れないと言う人ほど折れる」
勇者が一歩踏み込み、前原の胸元を掴みかけ、止まった。
会議室安定化の加護が、訓練場では薄い。それでも、権威耐性の加護が前原の背筋を保つ。
前原は視線を逸らさない。
「あなたが折れたら、この世界が終わります。だから折れないためのログです。損耗を記録すると、補給が優先される。治療が優先される。あなたの班が“持続可能”になる」
勇者の手が下りた。
持続可能。英雄にとって一番聞きたくない言葉で、一番必要な言葉。
「……俺が損耗を書いたら、弱いと思われる」
前原は即答する。
「弱いと思われるのは、損耗が“隠れている”ときです。損耗が見えると、対策が打てる。対策が打てると、あなたは強くなれる」
勇者が黙る。
“強くなれる”は、彼の言語だ。
前原は紙を一枚出し、欄に線を引いて見せた。
「例えばこうです。出撃。敵撃破。民救出。――ここまでは戦果。ここに損耗を書く。兵の負傷数。消費した薬。折れた剣。足りなかった水。理由を書く。なぜそうしたか。ここまで残ると、次の出撃が最適化される」
勇者が紙を見つめる。
「……最適化」
「あなたの戦いは、才能だけで回してはいけない。才能は枯れる。仕組みで回すと、才能は伸びる」
勇者の視線がわずかに揺れた。
彼は、理解し始めている。だが最後に必要なのは“プライドの逃げ道”だ。
前原はそれを用意する。
「損耗を書くのは、敗北ではない。“勝ち続けるための情報”です」
勇者が小さく息を吐く。
「……分かった。だが俺の班を責めるな」
前原は頷いた。
「責めません。責めるのは構造です。あなたの班が損耗を書けない構造が問題だった。そこを直します」
勇者は、ようやく短く頷いた。
完全な納得ではない。だが運用に乗るだけの合意は取れた。
—
次に前原が向かったのは、王の代理の執務室だった。
王そのものではなく“代理”が来ている時点で、この世界の意思決定が逃げ腰なのが分かる。
扉を開けると、若い男が机に突っ伏していた。昨日の青ざめた顔だ。名はレナード。書類の山に潰されかけている。
前原は椅子に座らず、まず言う。
「あなたは“例外枠”を使いたいですか」
レナードが跳ねるように顔を上げた。
「……例外枠?」
「王族や貴族の優先治療。優先補給。優先避難。そういう要求が来るでしょう」
レナードは顔を歪めた。
「来る。来るが……私は……」
前原は頷く。
この男は逃げたい。だが逃げると燃える。逃げ道を制度で作る。
「使っていい。ただしログに残す。あなたの署名も残す」
レナードが震える。
「……私が責任を負うのか」
「負います。だから守れます。責任がない権限は腐敗します。責任がある権限は運用できます」
レナードは唇を噛み、やがて低く言った。
「……私は、王のために悪者になりたくない」
前原は即答した。
「悪者にならないでください。悪者になるのは“例外”ではなく“例外を乱用する構造”です。あなたは構造を守る役目です」
レナードの目が少しだけ上がった。
言語化されると、人は立てる。
「あなたに一つ役割を与えます。例外承認官です。例外はあなたの窓口で処理する。あなたが署名する。ログが残る。だから貴族は無茶が言いにくくなる」
レナードが恐る恐る言った。
「……反発される」
前原は頷く。
「されます。反発されるのは、あなたの仕事が機能している証拠です」
レナードが苦笑した。
管理職の苦笑だ。これで一歩進んだ。
—
午後、再度会議が開かれた。
前原は今日の議題を三つに絞る。
第一:例外処理フロー
第二:損耗ログの追加
第三:聖女庁の判断理由ログ
前原は、最初に「例外」を机に置いた。例外を先に扱う。例外を扱う会議は荒れる。荒れる前に型を固定する。
「例外は、承認官の署名とログでのみ許可される。承認官は王代理。例外は一日三件まで。超える場合は会議体決裁。理由を記録する」
王代理レナードが青ざめた顔で頷く。
勇者が舌打ちする。
聖女庁代表セラフィナが静かに言う。
「例外が制限されると、聖女が守られる。支持する」
聖女庁が支持した。これが大きい。
宗教組織が制度を支持するとき、権威の圧は弱まる。
次に損耗ログ。
「勇者班は戦果だけでなく損耗を書く。損耗は敗北ではなく、改善点。損耗が見えれば補給が最適化される」
勇者が不満げに腕を組む。
「俺の班の損耗を、誰が見る」
前原は即答する。
「私が見る。騎士団長が見る。補給官が見る。聖女庁が見る。必要な者だけが見る。晒しものにはしない。だが必要な情報は共有する」
勇者の眉が少し動く。
“晒しものにしない”。そこが必要だった。
最後に判断理由ログ。
「聖女庁は奇跡を使った理由を書く。残量も書く。拒否した場合も理由を書く。拒否は怠慢ではない。資源管理です」
セラフィナが頷き、短く言った。
「奇跡は無限ではない。理由が残れば、聖女が責められない。支持する」
これで、会議体として決裁が落ちた。
制度が一段、深く入った。
—
夕刻。火の匂いはさらに薄くなり、城の廊下に人の声が戻った。
人の声が戻ると、笑い声も戻る。笑い声が戻ると、次は油断が戻る。
油断が戻る前に、前原は最後の“是正”に入る。
配置だ。
人事は、制度だけでは回らない。
制度は「誰がやるか」で決まる。
前原は騎士団長に会い、昨日話した“現場調整役”を正式に任命させた。名はグレイ。下級騎士だが、兵に信頼されている。顔つきが柔らかい。だが目が死んでいない。
前原はグレイにだけ、短く言った。
「あなたは現場の窓口です。現場の不満を吸い上げ、会議体に上げる。燃え方を早めに見つける。火事を大火にしない」
グレイが頷く。
「……分かりました。誰かがやらなければ、また燃えます」
この世界にも、分かっている人間はいる。
分かっている人間を、役割に置く。それが是正だ。
—
夜。ログが集まった。
今日のログは、昨日よりも厚い。
損耗が書かれ始めた。
理由が書かれ始めた。
例外が記録され始めた。
例外欄に、早速一件入っていた。
――貴族子息の治療を優先(理由:暴動抑止のため/承認官署名:レナード)
前原はそれを見て、静かに頷いた。
例外は必要だ。例外がない制度は、人を殺す。
だが例外が無制限の制度は、腐敗する。
だから例外はログに縛る。
胸元の札が熱を帯びた。直通。
『どう?』
リュシアの声は少しだけ明るい。
255世界の火種が、一つ消えかけているのだろう。
「例外処理をログに縛りました。勇者班の損耗が出始めた。聖女庁の判断理由も出始めた。現場調整役も置いた」
『うん。第27世界、すごくいい。あなた、ほんとに仕事が早い』
「早くしないと燃えますから」
『燃えるの、嫌い』
「誰も好きじゃない。でも燃え方が見えれば止められます」
リュシアが小さく笑った。
『じゃ、打ち上げ。業務』
前原は苦笑した。
「了解です。業務なら仕方ない」
札を押すと、神の執務室へ切り替わった。
リュシアは机に突っ伏していなかった。代わりに椅子に深く座り、グラスを既に持っていた。
それだけで、彼女の疲労が一段軽いのが分かる。完璧な顔に、ほんの少し血色が戻っている。
「お疲れ。例外、縛れた?」
「縛れました。例外はログに残る形にした。これで貴族が乱用しにくくなる」
リュシアが頷き、グラスを傾ける。
「好き。例外を縛るの、好き。神界も例外だらけだから」
「神界もですか」
「上がね。上は例外が好き。責任は下に落とす」
前原は笑えない顔になり、すぐに言った。
「どこの世界も同じですね」
リュシアが疲れた笑いを漏らした。
「同じ。同じだから、あなたと飲めると楽」
前原は一口飲み、今日のログ束を机に置いた。
「今日から“誰が何を決めたか”が残ります。責任が残れば、組織は戻れます」
リュシアはログ束に触れ、目を細めた。
「……あなた、私の世界運営の補佐に来ない? 第七区画、正式に」
前原は即答しなかった。
だが、否定もしなかった。
「現実が止まるのは派遣中だけです。正式に来たら、現実が壊れます」
リュシアが少しだけ視線を落とす。
「そう。あなたが現実を壊すと困る。だから派遣」
前原は淡々と言った。
「派遣でいい。派遣の範囲で、燃えている世界を止血します」
リュシアが頷いた。
「うん。派遣でいい。派遣の方が、あなたらしい」
グラスが空になる頃、リュシアが砂時計を弾いた。
スマホに通知が落ちる。
《第七管理区画・第27世界:火勢:小→微》
《ただし:反発:継続》
《ただし:例外要求:増加傾向》
前原は画面を見て、静かに言った。
「例外要求が増えるのは当然です。制度ができると、権力者は“抜け道”を探す。抜け道をログで潰します」
リュシアが頷く。
「好き。抜け道を潰すの、好き」
前原は苦笑した。
「女神がそれ言うと、妙に怖いですね」
リュシアが真顔で返す。
「怖いよ。私は中間管理職だから」
その言い方が、やけに現実的で、前原は笑ってしまった。
笑うと少しだけ息が楽になる。打ち上げは、確かに業務だ。
前原はグラスを置き、明日の予定を頭の中で組み立て始める。
明日は定着。
運用が崩れるポイントを先に潰す。
ログが形骸化しないようにする。
現場調整役が燃えないようにする。
聖女庁が“基準”を自分の言葉で語れるようにする。
勇者が“損耗”を恥だと思わないようにする。
制度は入れた。
次は、制度が“当たり前”になるまでだ。
(つづく)




