喪心(2)
羽中は、刑務官二人に引き摺られる格好で、面会室へと連れて来られた。
そして、力づくで膝を折り曲げさせられ、無理やり座らされる。
――まさに人形のようである。
拘置所での面会には、刑務官が同席し、会話をチェックされる。
刑務官二人は、椅子に座る羽中の両脇にスタンバイした。
「こんにちは」
アクリル板越しに、私は、試しに羽中に挨拶をする。
――しかし、案の定、返事はなかった。
よくよく考えてみると、刑事責任を問えるかどうかはさておき、羽中は、私を殺しかけ、そして、私の同行者を殺してしまっている。
だとすると、私の顔を見た途端、謝罪の一言があっても良さそうなところではある。
もっとも、羽中は、謝罪の言葉を掛けることはおろか、私の顔を見さえもしないのである。
羽中は、口を半開きにさせた状態で、私の背後の壁を見ている――いや、どこも見ていない。
やはり羽中は、完全に心を喪ってしまっている。
「突然お呼び出ししてしまってすみません」
私のへりくだった言葉も、羽中の心には届かなかった。
なぜここに連れて来られたのかも分かっていないのだろう。そもそも、私が誰なのか認識していない可能性すらある。
刑務官のうちの一人が、私に小さく頭を下げた。
この刑務官は、おそらく私が被害者だと知っていて、羽中の無礼な態度を、本人に代わって謝ってくれているのだろう。
ただ、少なくとも私は、羽中のことを恨んでなどいない。
むしろ、羽中には心から同情している。
羽中は、海原と私同様、この事件の被害者なのである。
――否、この事件だけではない。
羽中は、この社会の被害者なのである。
「羽中さん、以前お話ししたかもしれないのですが、私、駆け出しの記者なんです。それで、ある件について取材してまして」
もちろん、羽中からの応答はない。
これ以上、梨の礫のやりとりを繰り返しても意味がないだろう。羽中と刑務官二人の時間を無駄に拘束するだけである。
すうっと私は息を吸い込む。
私は、ついに、羽中の魂を揺さぶるに違いない「ある法律」の名を口にする。
「羽中さん、優生保護法について話をお聞かせ願えませんか」
優生保護法――それは日本国憲法下である昭和二十三年(一九四八年)に成立し、平成八年(一九九六年)まで、約五十年にもわたり存続し続けた法律である。
優生保護法は、その名のとおり、優生思想に由来する。優生思想とは、「人類の遺伝的素質を改善することを目的とし、悪質の遺伝的形質を淘汰し、優良なものを保存することを研究する学問」である優生学に基づいた思想である。
平たくいえば、人類をより優れたものにするという目的の下、優れていない人間を殺すか、そもそも生まれないようにしてしまおうという考え方だ。
ナチスの侵略戦争にも、この優生思想が土台にあった。
そして、日本で、与野党の全会一致で成立した優生保護法も、第一条の目的規定に、母体の保護とともに、「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止する」ことを謳っていた。
優生保護法に基づき、この国で、数多くの不妊手術や堕胎手術が、強制的に行われた。
手術の対象となった者は、遺伝性の障害や疾患を有するとされた者である。そういった者たちが、力づくで、もしくは、「病気の治療」だと騙されて病院に連れて行かれ、そこで中絶を強いられたり、生殖器を取り除かれたりした。
現代医療の見地とは異なり、当時は、ハンセン病は遺伝するものと理解されていた。
ゆえに、ハンセン病患者の収容施設では、患者が子どもを持つことは許されず、去勢を強要された。
ハンセン病だけではない。
ある種の精神障害や精神疾患も遺伝するものとされ、精神病者も強制不妊・強制堕胎の対象とされた。
日本神経学会が優生保護法の廃止を求める意見書をまとめたのは、平成三年(一九九一年)のことである。それまで、我が国で、「精神病は遺伝する」という医学的な誤りが正されることはなかった。
優生保護法による強制手術の件数が最も多かったのは昭和三十年(一九五五年)であり、手術件数は千四百件を超えている。その年をピークに強制手術の件数は減っており、平成二年(一九九〇)年頃までには、強制手術はほとんど行われなくなった。
――とはいえ、完全に行われなくなったわけではない。
若干数の手術が実施されたことは報告されているし、何より、優生保護法が事実上廃止される平成八年(一九九六年)までは、強制不妊・強制堕胎が合法だったのである。
優生保護法は、平成八(一九九六年)に、優生思想的な部分が取り除かれ、母体保護法へと改正された。
それまでに少なくとも約二万五千件の強制手術が実施されたという。
優生保護法が、幸福追求権を定めた憲法十三条、法の下の平等を定めた憲法十四条に違反することは、今日では明らかである。
ごくごく最近である令和六年(二〇二四年)七月三日、最高裁判所は、優生保護法を憲法違反とし、かつ、除斥期間(時効のようなもの)の適用をしないとする判決を下し、内閣総理大臣は、原告らに謝罪をした。
この優生保護法こそ、海原が、史乃の夢遊病殺人との関連を指摘した法律である。
加えて、私の考えが正しければ、この法律は、羽中が、海原と私を襲った理由とも密接に関連するのだ――
私が「優生保護法」の名前を口にした途端、羽中の目に色が戻った。
どうやら、私の思惑どおり、羽中の魂を揺さぶることに成功したようである。
その結果――
「うおおおおお」
羽中は、獣のような呻き声を上げながら突然立ち上がり、鬼の形相で、腕を振りかぶり、私に襲いかかってきた。
――もっとも、透明なアクリル板が、羽中の攻撃を防いでくれた。
ダンという衝撃音が鳴るやいなや、刑務官が羽中を取り押さえる。
羽中は、老人とは思えない迫力で、必死で暴れ回る。刑務官は大柄な男性であるとはいえ、二人でなければ抵抗を止められなかっただろう。
「うおおおおおお」
羽中は、もはや人語を話せるような状況ではないようだ。
それに、羽中が暴れてしまったため、これ以上面会を継続することはできないだろう。
しかし、これで十分だった。
羽中の異常な反応は、羽中の人生が優生保護法によって狂わされてしまったことを如実に示しているのである。
羽中は、刑務官に完全に取り押さえられ、鉄扉の向こうへと消えていく。
その様子を見る私の目からは、自ずと大粒の涙が流れていた。




