第31話 不穏な空気
前半は第三者視点です。
「……参ったのう。結局、一人も帰ってこんとは……」
「「「「「ワッショイ!」」」」」
『灰帯』達が汗を流す『山の道場』。
一日の始めに行う型の稽古を見ながら、師範を務めるヘイゼルは困惑していた。
昨日、朝早くから行われた森の一斉調査。
下の階級の『白帯』と『帯なし』も動員されたその大規模な調査は、見事なまでに空振りに終わり――いまだ森の異変の原因は掴めていなかった。
……だが、仏頂面に深いシワを寄せたヘイゼルの心配はそこではない。
『灰帯』だけでも百を超える班の中で、ただ一つ。
一夜明けて稽古が始まっても、いまだに帰ってこない班があったのだ。
カミラ班。人数は五名。
次の昇格試験で“合格確実”と言われる、女門弟カミラ=スミスが班長を務め、
『灰帯』で一番の足技の使い手、イサク=ストレットンが副班長を務める班である。
「「「「「ワッショイ!」」」」」
そして、『異端者』ベル=ベールマン。
現時点で数少ない二つ名持ちの一人で、唯一無二の『オリジナル技』使い。
誰にも真似できない、爆音を伴う“規格外”な攻撃技を持つ門弟もいる。
彼らは編成された班の中でも、一、二を争うほどの戦力を有する班だというのに……。
(ワイバーンと遭遇しおったか? だがヤツらの力なら、楽ではなくとも討伐できるじゃろうし……)
任せたのは森の南西部エリア。
周囲と比べて魔素が濃く、ワイバーンの目撃情報もあった危険な方角だ。
だからこそ、ヘイゼルは信頼してカミラ班に任せたのだが……。
森を区切る『大地の傷』の先から、まさか一人も帰ってこないとは予想外だった。
「「「「「ワッショイ!」」」」」
木の香りが漂う『山の道場』に、門弟達の気合いの入った掛け声が響く。
すでに彼らもカミラ班が帰還せず、“行方不明”となっている状況は把握している。
――とはいえ、あまり心配はしていない。
何か異変の正体を掴み、野営覚悟で森の奥まで進んだ可能性もある。
さらにはカミラ班の戦力――。師範のヘイゼルと同じく、彼ら五人の力を信じているのだ。
何度も魔物に襲われているだろう。……だがそれを素手で倒すのが『魔体流』だ。
歩き続ければ腹も減るだろう。……だが森の恵みを正しく受け取れば、一日どころか一年だって生き残れるはずだ。
(すでに捜索隊も放っておるしな。心配せずとも待っておれば、何か情報を持って帰ってくるじゃろう)
そう考えて、ヘイゼルは師範として指導に熱を入れる。
腰が入っていない者にはバチン! と尻を叩き、
目が覚めきっておらず魔力が練られていない者には、ゴツン! と拳骨を落とす。
そんないつも通りの稽古が続き、午前の稽古全てを終えて。
腹を空かせた門弟達が食堂で食事を取っていた――ちょうど昼時。
「――ヘイゼルよ! 下から手紙が届いたぞ!」
焼けた肉やパンのにおいが充満する巨大天幕の中で。
八百名以上の門弟に混じり、同じく“山盛りの食事”を取っていたヘイゼルを呼ぶ声が。
声の主は『にわとり荘』の寮長だ。
仏頂面なヘイゼルとは正反対の柔和な顔で、同い年(六十五歳)で飲み仲間のジグ=ライアーである。
そんな寮長ジグが慌てた様子で食堂を走り、門弟達の視線を集めながら、ヘイゼルに一枚の手紙を渡す。
……ちなみに、この手紙は“伝書烏”を介したものだ。
離れたエリアをわざわざ行き来するのは面倒なため、全階級のエリアで飼育。
緊急の連絡をはじめ、エリア間での情報共有には非常に便利なものである。
「何っ!? 『大地の傷』の吊り橋が……落ちておるじゃと!?」
渡された手紙を読み、ガタッ! とイスから立ち上がるヘイゼル。
また、注目していた周囲の門弟達も、続くように立ち上がっていた。
師範の口から漏れた言葉を聞いて驚き……食堂内が一瞬にして騒然となる。
――手紙の内容はこうだ。
今朝早くから捜索に出た『白帯』(熊人族など数名)が、『大地の傷』の異変を発見。
対岸の岩壁の損傷具合から、ワイバーンが破壊した可能性が高いとのことだった。
「まさか谷底に落ちたか? ……いや、そう決めつけるのは早いのう」
もし橋と同時に落ちていれば……助ける術はなし。
だが、逆に渡った後に落ちただけなら?
森深くまで進んだカミラ班が、まだ帰ってこないのもうなずける。
全長五十キロを超える、神が創ったとされる『大地の傷』。
そこに一本しかない吊り橋が落ちた場合、地道に歩いて“迂回”するほか手はないのだ。
(無事でおれよ五人とも。お前達はこんなところで終わる器ではないじゃろう?)
手紙を強く握りしめながら、ヘイゼルは仏頂面のまま教え子を思う。
――こうして、一日ほど遅れて情報は山エリアへ。
彼らができることは、カミラ班が無事に戻ってくるのを祈るだけだった。
◇
「(これは多分……そろそろ近いな)」
調査二日目。
一時間交代の見張りで、暗くて不気味で危険な夜を無事にやり過ごした俺達。
日が昇ってからしっかりと朝食も取り、脇腹の傷をまたカミラさんに処置してもらってから、俺達は再び森を歩いていた。
道は当然、昨日からずっと続く木々がなぎ倒された道だ。
何が通ればこうなるのか、幅が四メートル近くあるその獣道(?)を進んでいたところ、
森に生えた木々や草花――は変わらずとも。
明らかに森の空気が、昨日までよりもさらに変わってきていた。
「……やたら魔素が濃いな。お前ら、ここからは特に気を引き締めていくぜ」
「「「「はい」」」」
班長のカミラさんを先頭に、俺達は少し速度を落として慎重にいく。
空気中の魔素が濃くなり、肌に纏わりつく感じは湿気に似ている。
あまり体には良くないのか、微妙に右脇腹の傷が疼くが……もう前に進むしかない。
「うっ……」
「ん? どうしたイサク?」
「いや、ちょっと“嫌な臭い”が出てきてさ……」
「に、臭いとな?」
と、ここで。
獣人ゆえに、誰よりも鼻が利く狐人族のイサクが急に顔をしかめる。
まだ俺達人間には分からないが、聞けば“腐敗臭”が道の先から漂ってきているらしい。
「つうことはアンデッド系の魔物か? ……まあ実際に会えば分かるか」
言って、カミラさんが腰の『灰帯』をキツく締め直す。
その両腕には一段と魔力が込められ、早くも臨戦態勢に入っている。
――ただ、他の魔物については“全然いない”。
魔物は本来、魔素が濃ければそこに集まるはずなのに……。
あるところからパタリと姿が消えて、非生息域にでも入ったのか? と錯覚するほどだ。
ここにも元々は魔物はいたはず。
頭上からは木漏れ日が差して緑が鬱蒼と茂る森の中、今回の異変の元凶によって、逃げたか追い出されでもしたのだろう。
ずっとあった鳥の気配や鳴き声も消えて……どんよりとした重い空気が漂っているぞ。
「! もう近いよ。あと二百メートルもないかもしれないね」
「……ぐっ、これか。リアルガチで何か臭ってきたぞ」
「は、鼻の奥までガツンとくるぞい……」
「だな兄じゃ。朝飯を食ったから余計に耐えがたいぞい……うえぇ」
イサク以外の俺達も、感知できた臭いに一斉に鼻をつまむ。
たしかに腐敗臭、生ものが腐ったような臭いだ。
そんな悪臭に顔をしかめながらも、我慢して森の中を歩いていけば――。
「……マジかよ。こりゃ考え得る限り“最悪の元凶”じゃねえか……」
そう呟いた、先頭をいくカミラさんの視線の先。
そこには鋭利な牙や爪……はなく、血走った獰猛そうな目……もなく、ただただ“黒ずんだ紫色の塊”が。
ドドン! となぎ倒したばかりの木々の上、深い森の中に異質なものとして存在していた。
「スラ……イム? けど何だ、あのカオスな姿は……」
横幅四メートル、高さ三メートルはあるだろうそいつ。
毒々しい色もそうだが、巨大な巾着袋のような体は土で汚れているものの……よく見ればプルプルのゼリー状だ。
その表面には無数の細かい吹き出物みたいなものが。
正直、鼻をつく酷い悪臭以上に、鳥肌レベルの気持ち悪さを覚えてしまう。
……いやいや、リアルガチで何だよアレ?
あまりのバケモノ加減に、俺がつい無意識に一歩、本能から後ずさってしまった時――。
班長のカミラさんがゴクリと唾を飲み込み、震える声で俺達に告げる。
「ありゃただのスライムじゃねえ。アンデッドよりも遥かにタチの悪い――正真正銘の“不死族”だ」




