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頬にあった包帯が外された日。
ジゼルはロルフと結婚誓約書を提出するために出掛けていった。四人の証人ももちろん一緒だ。教会ではなく登記所での署名だったので、神秘的な雰囲気は無かったが、主役の二人はやや緊張の面持ちをしていた。手続きを行う登記官のみ、淡々としていて事務的だった。
「はい。確かに受理いたしました」
この瞬間、ロルフとジゼルの結び付きが公然と認められた。
ロルフに言わせれば、たかが紙切れ一枚。でもこの一枚が有るか無いかで、人生が大きく変わってしまうのだから、不思議なものである。
(…これじゃどっちの願いが叶ったか、わかんねぇな)
家名を持たないロルフが婿入りする形で、二人は無事に夫婦となった。見届けた四人から祝福の拍手を貰う。つむじ曲がりのロルフといえど、この日ばかりは素直に祝福を受け取っていた。
神の前で宣誓する結婚式は行わず、ささやかな披露宴だけ後日行う計画になっている。これは「堅苦しい式典が苦手なロルフに無理強いしたくない」というジゼルの意見と、「式と名の付くものは大嫌いだがジゼルの花嫁姿は絶対見たい」というロルフの意見を取り入れた結果だった。
ユリウスの計らいにより、披露宴が終わるまで召集は免除されている。とはいえ諸々の準備に追われて忙しくなると思われた。しかしロルフは免除を逆手にとり、のんびり準備してやるつもりでいた。二人きりの時間を引き延ばす魂胆である。
「新婚ってやつだから、それくらいいいだろ」
ロルフがあまりに堂々と言い張るので、ジゼルは「そうね」と笑ってしまった。
スクード男爵家の屋敷の完成はまだまだ先であるため、新婚夫婦は国王が所有する別荘の一つを借りている。
新婚の二人に配慮してなのか、別荘の使用人は大勢置かれておらず、接触も最低限だ。二人の新しい生活はとても穏やかに始まった。
ということで目下の話題は、披露宴に誰を招待するかであった。
「酒癖の悪いオッサンは呼ばなくていい」
「意地悪したら駄目。ポールも大切な仲間よ」
「チッ…じゃあアイツらと、ちっこい姉と弟で終いだ」
「待ってロルフ。アレックスさんは?ニックさんは来れないにしても、ユリウス殿下にはお声をかけないと…」
「はあ!?あの野郎が一番いらねぇだろ!」
「この別荘をお借りする交渉もしてくださったし、他にも色んな援助を受けてるのよ?」
「向こうが勝手にやってることだ。知ったこっちゃねぇ」
「そうでなくても上官には一報を入れるべきだわ」
「……」
ジゼルと結婚した今、ロルフの心に余裕が生まれたので恋敵への憎悪は薄れたが、嫌いなものは嫌いなのだ。しかも嫌いな男の名を、ジゼルの口から聞くのは余計に面白くない。
だが彼女にとことん弱いロルフは、名簿を作る真剣な横顔に向かってそれ以上、文句が言えなかった。彼女がおもむろに眉を下げたことも一因ではある。
「……アリシアにも、知らせたいわ。わたしは幸せよって」
「…そうだな」
「アリシアの花嫁姿が見たかった」
「ああ」
会話に置いてきぼりにされることが多かったジゼルが、たまに口にする話題といえば決まって親友のこと。バルビール隊のうるさい連中から少し離れた所で、ロルフは短い相槌を打ちながら耳を傾けていたものだ。自分の自慢は一切しないくせに、親友のことだけは得意げに話すジゼルを、彼はいつも横目で眺めていた。
「思いきり笑っていれば、親友サンにも届くかもしれねぇぞ」
風に乗って届くような距離ではない。だが「風の便り」、「虫の知らせ」という言葉があるように、不思議と感じとれるものがあるかもしれない。
ロルフの不器用な励ましは、ジゼルの胸をじんとさせた。優しく沁み込む温かさに、彼女は自然と微笑んでいた。
「ロルフの言う通りね。わたし、大声で笑うようにするわ」
「おう。やってやれ」
大口開けて笑う彼女の姿はちょっと想像しにくかったが、笑顔が増えるなら願ったり叶ったりである。
昼食を食べた後、ロルフは出掛けて行き、日が傾いても帰ってこなかった。行き先も聞いていなかったが、ジゼルは特に心配していない。彼が夕食を忘れて歩き回ることはないと知っているからだ。
彼女の予想通り、ロルフはきっちり夕食前に帰ってきた。
「お帰りなさい」
扉が開閉する音を聞きつけたジゼルが出迎えたところ、彼はしばし目を見張って硬直していた。
「夕食はいつでも食べれるそうよ」
「あ、ああ……」
ロルフには自分の家もなく、ましてや迎えに出てくれる人間などいなかったものだから、こういう場面でどうしたら良いのか分からかったのだ。こそばゆい感覚に慣れていない彼は、意味もなく後頭部を掻くしかない。
「お腹は空いてない?」
若干、挙動不審な彼を見たジゼルは、腹具合が気になったらしい。
「いや……倒れそうだ」
「まあ!それは大変だわ。急いで用意してもらいましょう」
誤魔化されても気が付かない彼女の鈍感さに、ロルフは救われたのだった。
さて、昼間からロルフはどこへ出掛けていたのか。それが明らかになったのは、就寝間際であった。
二人は寝台の上で向き合って座っていた。
「…これ、アンタにやる」
雑に差し出されたのは、白金の腕輪であった。留め具がついていないのでバングルと呼ぶべきか。緻密な百合の模様が彫ってある、素晴らしい逸品だ。ジゼルが使う弓に意匠を寄せてあるように思った。
「腕輪?どうしてわたしにこれを?」
ロルフは目の下を赤くしながら、ぼそぼそと答える。
「…結婚する時、妻に指輪を渡すって聞いた。でも指にそんなモン嵌めてたら弓を引くのに邪魔かと思って、手首につけられるヤツにした」
彼に入れ知恵をしたのは恐らくポールだろう。義理を大切にする男が言いそうな事である。
ジゼルは改めて、しげしげと腕輪を眺めてみた。腕輪は重たさを感じず、手首にぴったり合う大きさだった。手を動かしてもズレたりしなさそうだ。
「…ロルフ、ありがとう。嵌めてもいいかしら」
「腕輪は嵌めるモンだろ」
ジゼルはそうっと手を通してみた。腕輪は彼女の手首にすごく馴染んだ。自分をあまり飾ることがなかったとはいえ、ジゼルも女である。装飾品を贈られて、喜ばない道理はない。それがロルフから渡されたものであれば尚更だった。
「こんなに素敵なものをありがとう」
「礼ならさっきも聞いたぞ」
「だって嬉しいんだもの。ああでも、傷付けてしまったらどうしようかしら…」
「物なんていつか壊れる。その時はその時だ。また買えば済む。オレは気にせず使ってもらいたいけどな」
「……わかったわ。壊れるまで大切に身につけておくわね」
よほど嬉しかったらしく、ジゼルは寝転がってからも飽きずに腕輪を眺めていた。本当に喜んでいることが態度で分かり、ロルフも満足だった。
ところで、二人が同じ部屋で眠るのは今夜が初めてであった。名実ともに夫婦となるまでは寝室を分けていたのである。粗野な見かけに反して、ロルフは途轍もなく辛抱強い男だ。募らせてきた想いと欲は確実にあっても、純朴な彼女の前で片鱗さえ見せない。結婚したのだから好きなだけ求めたらいいものを、彼の理性は強靭だった。
「そういえば兵士になったばかりの頃は、ロルフの隣で眠っていたわね」
「ああ……んな事もあったな」
新兵として配属された者は野宿が基本である。フィンレーは部下達を地面に転がしておくのが忍びなく、天幕を用意してくれたが、本来は滅多にない事だ。しかし、さすがに一人一つ用意するのは無理だったため、新兵達は雑魚寝をしていた。ジゼルも例外ではなく、そこに加わることになった。
当初はフィンレーもジゼルに個別の天幕を用意しようといたのだが、彼女が辞退したのである。そんな彼女を危なっかしく感じたのはロルフも同様だった。好意を自覚する前の出来事であるが、盾兵が守るべき対象との認識は持っていた。
「少しの間だったけれど、必ずあなたが隣に来てくれてホッとしていたのよ」
「…そうかよ」
あわよくば彼女の横に、と目論む男は多かった。それなのにジゼルときたら全然、危険に気が付かないものだから、ロルフが動いてやるしかなかった。うろ覚えだが多分「寝相が良さそうなヤツを横に置いておきたい」とか下手くそな理由をつけて、ジゼルを端に追いやった。だから彼女は毎回、壁とロルフに挟まれて眠っていたのである。
「でも……」
ここまで無邪気に思い出話をしていたジゼルが、急に言い淀んだ。気になって隣を見遣れば、彼女は左手の腕輪をいじりながら真っ赤になっていた。その横顔を目にした瞬間、ロルフの心臓がひときわ大きな音を立てる。
ロルフは思い違いをしていた。想いと欲があるのは、なにも片一方だけではなかったのだ。
「……あの頃と、今は違う、から」
ジゼルは言葉を探りながら、たどたどしく喋る。以前は婚約者がいた身だ。彼女とて全くの無知ではない。結婚した男女が夜を共にする意味も知っている。
「これからはロルフが望むまま…好きなように、してほしい…」
こんなにもいじらしく、まっすぐに求められて、黙っていられる男などいない。ロルフはがばりと身を起こし、彼女に覆い被さった。馬乗りにされる格好だったが、ジゼルは重さを感じなかった。彼の動きは一旦そこで止まる。
真上にある顔を見て、ジゼルは息を呑んだ。体勢がどうのと言うより、唇を真一文字に結んだロルフの表情に、目が離せなくなったのだ。普段の気怠げな顔や仏頂面から一変した、真剣そのものといった面持ちが、ジゼルの心を掻き乱す。
「ジゼル」
やはり彼の言葉は魔法のようだ。名を呼んだだけなのに「大切に守りたい」という彼の心緒まで、ジゼルに伝えてくれる。
「一つだけ約束しろよ」
ロルフは見たことのない目つきをしていた。声もそうだ。いつもと同じようにも聞こえるし、別人のようにも聞こえる。
「絶対に我慢はするな。オレに遠慮して黙るなら、願いは聞いてやらねぇぞ」
「……」
「約束できるか」
いったい何を我慢してはいけないのか、ジゼルには想像もつかなかった。でも、何でも正直に言えば良いのだと彼女は考えた。それなら難しいことはない。初めから彼に嘘は通じなかったのだから。
「わかったわ」
彼女が頷いたのを確認すると、ロルフはゆっくり頬に触れてきた。添えられた手はびっくりするほど熱いのに、傷痕をなぞる指先はとびきり優しかった。
ジゼルは控えめにだが、熱い手に擦り寄ってみた。多幸感が胸に迫り、自ずとはにかみが溢れる。
すると不意に唇を塞がれた。彼の顔が目の前にある、と気付いた時には唇が重なっていた。手のひらの何倍も熱く感じながら、ジゼルはそっと目を閉じたのだった。




