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救護所を脱走したロルフと、その手引きをしたポール達は、軍医から小言をもらう羽目になった。微塵も悪びれないロルフの後頭部を押さえつけ、謝罪させたジャスパーは苦労人である。
ニックが調合した毒薬は残留性が低いため、成分が体外に出てしまえば終わりらしい。ロルフは「上と下から散々出した」と主張したものの、昨日の今日であるために騎馬の許可は下りなかった。負傷者用の馬車に乗れと勧められたが、彼は不満を全面に出した。
「オレ、怪我人じゃねぇし」
そう言い張って動こうとしないため、ポール達は最終手段を使うことにした。その手段とは、ジゼルの名を出すことである。兵糧を運んでいた荷車に、ジゼルと乗るよう告げたら、文句はぴたりと止んだのだった。
人が乗るための馬車ではないのでお世辞にも乗り心地が良いとは言えないが、戦場でそんな事を気にする兵士はいない。ジゼルは荷台の端に座り、大人しく揺られていた。隣にはロルフがいて、退屈そうに空を見上げている。ジゼルも何の気なしに彼を真似して空を見ていたが、声を掛けられたことで視線を横に移すのだった。
「アンタはこの軍に残るのか?」
「どうして?」
「せっかく自由になったんだから、故郷に帰っても良いんじゃねぇの」
決闘でロルフが賭けたものは「ジゼルの自由」である。兵士を辞めてアザン国に戻っても文句を言われる筋合いは無い。しかしながら彼女は首を横に振った。
「帰れないわ」
「別にいいだろ」
「この国の人達が賛同してくれるだけじゃ駄目なのよ」
ジゼルの身柄はニフタ国とアザン国の協定の一部に含まれている。要するに、彼女の存在がニフタ国にある事が、不可侵の証となっているのだ。ジゼルの独断で帰ることは、両国の均衡を崩すことに繋がりかねない。
「親友サンに会うのも駄目なのかよ」
「……会いたいわ。とっても」
全く予期せぬ別れになってしまい、ふとした折に悲しみが蘇ってくる。再会を果たすまで、この胸の疼きが治ることはないのだろう。複雑すぎる立場ゆえに手紙を送る許可さえも得るのが難しく、近況を伝えることもままならない。でもジゼルは再会を諦めてはいなかった。
「だから戦うわ。国境がなくなって国が一つになったら、何にも気兼ねせず会いに行けるもの」
「ふぅん。ま、アンタのやりたいようにしたらいい。オレはとことん付き合ってやるよ」
「ありがとう。ロルフ」
「ところで話は変わるが、結婚ってどうやったらできるんだ?」
とんでもない話題の転換に手綱を落としかけたのは、ポールとジャスパーだった。二人は荷車の馬を引いており、聞くつもりがなくても会話は耳に入ってきた。しかし横槍を入れるような野暮なことはしまいと、親切にも聞こえていないフリをしてくれていたのだ。とはいえこれは口を挟まずにはいられなかった。
「なに!?ロルフ殿は知らなかったのか!?」
「知らねぇよ。常識を教えてくれる大人なんか、いなかったからな」
彼の過酷な生い立ちに、たちまち同情したのは感受性豊かなポールである。彼は鼻を啜りながら説明してくれた。
「いいか?ロルフ殿。結婚するには誓約書に二人で署名して、それを登記官に提出しなければいけない。署名の際には証人を立てる必要もあるので、大抵の人が挙式の日に署名を行うんだ」
「へぇ」
書類に名前を書いて、然るべき機関に出す、そう解釈したロルフは「じゃあ帰り道のどこかで済ませていこうぜ」と言い出した。
「ちょ、ちょっと待てっ!結婚の誓いは神聖で、厳粛なものだ。そんな寄り道がてらに済ませることじゃない!きちんとした手順を踏んでだな…」
「あ?手順は踏むだろ。オレはすぐにでも、コイツを自分のものにしたいんだ。チンタラしててまた余計な邪魔が入ったらお前を消すぞパー」
「私はポーだ!パーはこっちだぞ!」
「俺はジャスパーですし、貴方はポールでしょうが」
ジャスパーは疲れた様子でため息を吐く。ちらりとジゼルを見たが、頼みの綱である彼女はにこにこするばかりで、ロルフを止めてくれそうにない。先輩ではロルフに口で敵いそうにないし、ジャスパーが場をおさめなくてはならないようだ。彼の唇からもう一つ、大きなため息が漏れた。
「…貴族はそういうところに煩いぞ。ロルフ殿は構わなくても、ジゼル殿まで悪く言われてもいいのかい?」
「……」
「奪われたくない気持ちは分かるが、せめて二人とも全快してから色々進めるべきだと思う」
そう諭されて、ロルフは少し想像してみる。ジゼルが包帯を巻いたまま、花嫁衣装を着ることになったら……流石に不憫である。
ポールがうんうん頷いているのは腹立たしいが、ここはロルフが譲歩すべきだろう。
「というかロルフ殿は字が書けないんじゃなかったか?署名は本人でなければ受理されないぞ」
「ああ…それなら教えてもらった」
誰に、と聞き返す必要はなかった。彼の優しげな眼差しを見れば、自ずと答えは導き出される。
因みに、ロルフには自分の名前以外に書ける文字があるのだが、わざわざ口に出すことはしなかった。「ジゼル」は書ける、なんて教えた日には涙脆いオッサンあたりが鬱陶しそうだったからである。
数日かけて王都へ戻ったジゼルは、出迎えに来てくれたヴィッキーとディーンに早速、結婚することを伝えた。
姉弟は仰天するやら、顔の傷を心配するやら、やっぱり興奮するやらで大変忙しかった。しかし最後には笑顔で祝福してくれた。そして自分達も署名の証人になりたいと立候補してきた。未成年は正式な証人になれないので、単なる見物になるのだが、それでも立ち会いたいと熱望された。姉弟の主張に快諾したのは、何故か横で聞いていただけのポールだった。
「それは良い!ならばお二人がジゼル殿の証人で、私とジャスパーでロルフ殿の証人ということにしよう!」
ロルフとジャスパーの微妙な面持ちなど、視界に入っていない様子であった。
ところが姉弟の驚きはまだ続く。王太子の補佐官を務めていたニックが、職を辞する話を聞いたのだ。
ニックは自分から補佐官を退く旨を、ユリウスに告げたという。今回の件は人としてあるまじき蛮行であった上に、薬を扱う家に生まれながら人を救うどころか害してしまった。被害者であるロルフが法による処罰を面倒くさがったため、事件は不問とされたものの、ニックは自分を許せなかった。それで退役する決断をしたのである。
ニックはジゼル達のところへ頭を下げに来た際、自分の選択について説明した。
───未熟な俺は補佐官に相応しくありません。もう一度、訓練兵から始めて……お二人のように強くなります。
ユリウスを支えるに足る人間となるため、自分を鍛え直してくる。そう言い残して、ニックは軍を去っていった。去る前にロルフとジゼルからけじめとして、頬に一発ずつ貰ったのは余談である。
ジゼルは姉弟から詳細を尋ねられたが、曖昧に濁すに留めた。ここで誤魔化したところで、いずれは耳に入るかもしれない。けれども姉弟が尊敬してやまない、王太子像を壊すのはどうにも憚られた。男と女のいざこざが拗れ、決闘に至った経緯は結局、ジゼルの口から語られることはなかった。




