52
いつも決まった時刻に目覚めるジゼルだが、今朝の覚醒は少し遅かった。昨日の決闘の影響だろうか。しばしの間ぼんやりしてしまい、彼女は慌てて体を起こした。
ユリウス軍は本日より前線から撤退し、帰還に向けて出発する手筈となっている。ジゼルは急いで支度を済ませて天幕を出た。この天幕も畳まなければならない。彼女が少ない荷物を纏め、片付けに取り掛かろうとした時である。どこか焦った様子のジャスパーがやってきた。彼は挨拶もそこそこに、ロルフを見かけていないかと尋ねた。
「朝食を持っていった時は居たのですが、負傷者用の荷車に連れて行こうとしたら姿が無くなっていたんです」
病院嫌いのロルフは見張っていないと大人しく寝てくれない。そのことはジゼルも知っていたが、今回は体の痺れがあるため、脱走したくてもできないだろうと、たかを括っていた。
「もしかしたらジゼル殿のところかと思いましたが…違いましたか」
「わたしも探すわ」
「では向こうのほうをお願いできますか。俺と先輩でこちら側を探します」
ジゼルは彼が指差した方角を見ながら頷いた。脱走できる程度には痺れがとれたのかもしれないが、たった一日で毒が抜けるはずもない。不安がよぎったジゼルは、一目散に森の中へと入っていった。
彼女の背中を見届けたジャスパーは、悠々とポールがいるところへ戻り「上手くいきましたよ」と報告した。ジゼルに見せていた焦りなど、綺麗さっぱり消えている。
「良い仕事をしたなぁ、私達」
「仕事したのは俺で、先輩は何もしてないじゃないですか」
「どうしてそんな冷たいことを言うんだ…」
「先輩が大きな顔をするからいけないんです」
「君は時々、私が先輩であることを忘れているな?」
仲間がそんな会話を交わしているなどつゆ知らず、ジゼルは木漏れ日が差し込む森を歩いていた。あたりを見回しながら進むこと数分。いともあっさり、目当ての人物は見つかった。
ロルフは太い木の根本に背中を預けて座っていた。目を閉じていたので眠っているかと思いきや、ジゼルの微かな足音で目を開けた。
「こんな所にいたら体が休まらないわ」
「休んでたわけじゃねぇからな」
屁理屈を返しつつも、ロルフは立ち上がらなかった。もしかしてまだ体が辛いのだろうか。
「もうすぐ出発の時間よ。立てる?」
「…ちょっと手を貸してくれねぇか」
彼が素直に頼ってくるのはとても珍しい。それほど辛いのかとジゼルは心配になって、すぐに左手を差し出した。
そうして立ち上がったロルフであるが、握った手を離そうとしない。握手したままの格好を謎に感じ、ジゼルは小首を傾げた。その直後───ぐっと手を引き寄せられ、彼女の体はロルフの腕の中におさまっていた。
「……夢じゃねぇんだな」
ロルフはしみじみと独りごちる。
前線を発つ前にジゼルと二人きりになれる時間を作ってほしい、そうポール達に頼んだのはロルフだった。気の良い仲間達は揶揄うこともせず、快く任されてくれた。
偶然を装ってロルフのもとへ導かれたなんて、知る由もない彼女は目を白黒させるばかりだった。
「…無茶ばっかしやがって。片目をやられたかと焦っただろうが」
「目は二つあるから、片方が駄目になっても何とかなるわ」
「オレのものになったからには、アンタと言えど勝手に傷つけたら怒るぞ」
優しい力加減だったロルフの腕に、少し力がこもる。
「…なあ。もうちょっと、このままいたいんだけど」
ジゼルを両腕の中に閉じ込めながら許しを求めれば、おずおずと了承の頷きが返ってきた。
自分がヘマして死んだ時くらいは、彼女に抱きしめてもらえるだろうか。そんな期待と呼ぶのも切ない問答をしてきたロルフの感慨は、およそ言葉で語れる代物ではなかった。
けれども不思議なことに、言葉にせずともジゼルにだけは伝わっていた。触れたところから感じる拍動、微かな息遣い、分け与えられる体温が、彼の無言の歓喜を訴えてくる。
ジゼルは鼻の奥がつんとなり、体が勝手に小さく震えた。
自分の半身がようやく埋まったような。今までに覚えた以上の安心感がジゼルとロルフを包む。
心が満たされる幸福を、二人とも噛み締めずにはいられなかった。
二人の静かな抱擁は、第三者の咳払いによって終了させられた。大方、お節介なポールあたりが出発の時刻が迫っていることを知らせに来たのだろう。依頼をしたのはロルフのくせに、彼は舌打ちをして苛立ちを隠そうともしない。
しかしながら、二人がいる場所は敵国の戦場である。戦いがひと段落したならば、長居するべきではない。
「…仕方ねぇ。行くか」
「そうね。置いていかれたら大変だもの」
「戻ったら結婚だな」
世間話のようにさりげなく告げられたため、ジゼルは反応に遅れた。だが、結婚という単語をしっかり耳が拾った後も、彼女はぽかんと口を開けるだけであった。その間抜けな顔を見たロルフは唇を尖らせる。鈍い反応に怒っているのではなく、照れ隠しであることは言うまでもない。
「それがアンタの願い事だろ。オレのものになりたいってのは、そういうことじゃねぇのか」
ジゼルはやっとの思いで「……そう、です、わよ」と返す。何をするにものんびりな彼女に、ロルフの求婚は唐突すぎたのだ。
「どうしたよ、その口調」
口元をもごもごさせるばかりで、ちゃんと喋れないジゼルだが、頬は薔薇みたいに上気させていた。嬉しい感情に、頭がついてきていないようだ。
彼女らしい鈍さがロルフは愛おしかった。少しの皮肉さを残して、ロルフはくしゃりと笑う。
「はやく帰りてぇなんて思ったのは初めてだ。アンタと一緒にいられるのは戦場にいる時だけだったからな」
彼の笑顔に誘われて、ジゼルも相好を崩す。
「…でも、これからは一緒の場所に帰れるのね」
言葉尻が跳ねたことは、それだけ彼女もはしゃいでいることを意味している。
「おう。ずっと一緒だ」
「実はわたしも…別れるたびに思っていたのよ。あなたと一緒に酒場へ行けたらって」
「酒場はやめとけ。治安が悪い」
「ふふっ、大丈夫よ。ロルフが一緒なら」
輪の外で静かに笑っているのではなく、顔いっぱいに笑顔を浮かべるジゼルを、ロルフは今日初めて目にした。
空気を読まない咳払いが再び聞こえた。やむなくロルフは歩き始めるが、悪態をつくのも忘れない。せめてもの反抗で殊更ゆっくり歩を進める彼は、ジゼルの手に自身の指を絡めて離さなかった。




