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傷の手当てをしてもらったジゼルは軍医から「頬の傷は消えずに残る」と、悲痛な表情で告げられた。
「多少薄くなるとは思うが…」
右目の下あたりに刻まれた傷は、隠すのも難しい。薄くなってくれれば、白粉をはたいて誤魔化せるかもしれないが、それも当分難しいだろう。
言い淀む軍医に対し、ジゼルはあっけらかんとしたものだった。
「顔のことより右腕は大丈夫でしょうか」
「ああ。筋を痛めただけだね。しばらくは無理しないで、大事にしていればすぐよくなる」
傷口の消毒を済ませたジゼルは、ロルフのいるところへ向かう。彼は解毒薬を飲んで、横になっていた。ポール達は持ち場に戻ったのか、追い出されたのか定かではないが、救護所の天幕にいるのは彼だけだった。
枕元に座った彼女は容態を尋ねる。
「口は回るようになったが、手足はまだだ。アンタは?」
「しばらく休んだら、戦線復帰できるわ」
「……顔の傷は」
「残るみたいだけど…ロルフは嫌だった?」
「オレは顔に惚れたワケじゃねぇよ。けど女は世間から色々言われるだろ」
「別に気にしないわ。だってこれは、勝利の証だもの」
白いガーゼを撫でながらジゼルははにかむ。他人から見たら醜い傷痕かもしれないけれど、ジゼルにとっては勲章と同じだ。ロルフと交わした約束を守り、大一番で勝利した証である。
「…気にしてないならいい。それよりアンタ、左利きだったんだな」
「私も一杯食わされたよ」
ジゼルが頷こうとした折、天幕の中へもうひとり入ってきた。二人を見舞いにきたユリウスである。露骨に嫌そうな顔をする男を無視して、ユリウスは空いている椅子に腰かけたのだった。
「敗者が何の用だよ、失せろ」
しれっとジゼルの隣に座ったことに、ロルフはすぐさま腹を立てる。嫌味を混ぜた言葉を荒々しく投げたものの、ユリウスはどこ吹く風である。ロルフの額に青筋が浮かんだ。
「謝罪ついでに敗因の追及にきた。失敗から学ばねば成長は無い」
「お前の謝罪なんかいるか」
「ならば君と話す事はないな。ジゼル、左利きは矯正したのか?」
「はい。四歳の頃から右手を使うようになりました」
事故で亡くなった両親は、ジゼルが左利きだったことについて何も言わなかった。リドガー家に引き取られてから右利きに直したのだ。それを知っているのは、慣れない右手に苦戦する幼少期のジゼルを見ていた親友だけである。
「なんでわざわざ右利きに直すんだよ。なんか問題でもあんのか?」
「貴族社会では、左利きは敬遠されるのだ」
使えりゃどっちでもいい、という考えのロルフは疑問を呈した。ユリウスの説明を聞いても、あまりピンとこないらしい。
伯母はジゼルがリドガー家に来たその日に、左手を使うことを禁止した。「左手でスープをすくうのは、みっともないのよ」と、困り顔で指摘されたのだ。以来、ジゼルは意識して右手を使うようになり、次第に意識せずとも使えるようになった。ロルフと出会う頃には、左利きであったことを自分でも時折忘れていたくらいだ。
ここでロルフは、はたと思い出す。夜戦を仕掛けられて逃げ惑っていた最中、ジゼルは落ちていた剣を投げてロルフを援護した。あれは確か、左手だった。咄嗟の時、無意識に出るのはやはり利き手なのだろう。
「もう一つ、確認したいことがあるのだが…」
ユリウスは心なしか声をひそめる。語り口も重たかった。
「貴女は…私の左目の障害について知っていたのだろうか」
これに驚いたのはロルフである。ユリウスが片目に不自由している素振りこそ、一度たりとも目撃したことがなかった。
「は…?お前、目が悪ぃのかよ」
「視力に問題は無い。私は生まれつき、左目の視野が三分の一ほど欠けているのだ。両目で見るぶんにはさほど障りを感じないが、健常者より左側の死角が広い」
人間の目は視野が欠けても、脳が映像を補完するようにできている。ユリウスも日常生活で困ることはなかったが、戦闘中は死角からの攻撃への対処が遅れがちになる。彼の唯一の弱点を、ジゼルは知っているような動きをした。ユリウスはそのことがどうしても気になったのだ。
「貴女は迷いなく私の死角に飛び込んできた。そうできた理由があるなら、教えてくれないか」
「…左目が不自由だと確信していたわけではないです。でも、殿下が左側を苦手としているのは知っていました」
「それはいつ気付いた」
「わたしの腕に矢が刺さった時です」
矢が突き刺さる直前、警告の声を発したのはニックだけだった。同じ場所にユリウスもいて、同じところを見上げていたのに、彼はジゼルが落馬するまで敵の攻撃に気が付かなかった。ただしその時点ではまだ、ジゼルもおかしいなと感じた程度だった。しかし、後ろについて援護することを繰り返すうちに、彼の反応速度には左右差があると見抜くに至った。
つまり彼女は、ユリウスがひた隠しにしてきた弱点を、ほんの数日共に戦っただけで勘付いたことになる。ユリウスは脅威を滲ませながら「そんなに早い段階で…」と呟いていた。
「しかし……そうか…私は弱点を見抜かれてるとも気付かず、力の優位にあぐらをかいていたのか」
「それだけじゃねぇだろ。なぁ?」
ロルフが同意を求めた相手はジゼルだった。彼女はこくんと頷く。
「へばってたコイツが、火事場の馬鹿力を出してきたと思ってんなら、そりゃお前の勘違いだ」
「なんだって…?」
ジゼルの能力の上限を熟知するロルフだけが、彼女の限界がまだ先であった事に気付いていた。
疲れて動きが鈍くなったように見えたのならば、ジゼルがそう"見せた"のだ。体力が削られていったのは間違いないし、腕も痛めていた。だけど実際は、立っているのも困難なほど疲れ切ってはいなかった。
それもひとえにユリウスを錯覚させるため。彼は自身の死角に対する警戒が非常に強かった。左目の障害を知っているだけでは、弱点を突くことができない。だからジゼルは追い詰められた演技をした。まともに動けないと思わせた後、彼の予想を上回る速さで飛び込めば、死角に入れると踏んだ。
そしてユリウスを最も戦慄させたのは、頬の傷さえ演出だったという事である。
「この怪我も避けようと思えば、そうできたかもしれません」
ジゼルは白い包帯を指でなぞった。少しでも加減を間違えたら大怪我を負っていたというのに、彼女は恐れず自分を犠牲にしたのだ。
「……ならば、なぜ…避けなかった…!失敗したら、命を落とす可能性もあったのだぞ!」
「…わたしが苦しめば、殿下は手心を加えると信じていました」
容赦はできない、とユリウスは宣言した。でも彼の根底にある優しさをジゼルは知っている。ヴィッキーとディーンにかけていた情、あれこそがユリウスの本質だ。
愛を告げた相手が痛みに顔を歪め、顔面から血を流す場面を目にしたら、ユリウスは必ず攻撃の手が緩めるはず。それはもはや確信に近かった。
現に彼の攻撃は、ジゼルが流した血の分だけ鋭さを失っていった。本人も知らぬ間に、ユリウスは手加減するよう誘導されていた訳だ。
「貴女は……私の愛情まで利用したということか」
どんな手を使っても勝て、とロルフに指示されたジゼルは、まさにそれを忠実に実行した。普段は勝ちに固執する姿を見せないジゼルにだって「人並みの闘争心はある」。本気で勝利を狙えば、鈍間と言われる彼女も強かになれるのだ。
「…申し訳ありません。でもこれが、わたしの知る勝ち方です。『油断は隙を生む。隙を突かれることで生じる動揺は、冷静さを失わせる』…そうですよね?ユリウス殿下」
小難しいことをあれこれ考えても駄目なことは、ジゼル本人も分かっていた。だから彼女は思考を散らさず一点に絞った。
ジゼルが集中した一点とは。ユリウスをいかに油断させるか、これに尽きる。
油断は相手の敗北を確信した時に生まれるもの。ユリウスは体の芯から震えが来た。「勝機は無い」という彼の台詞は、ジゼルに"言わされた"ものであった。そう理解した瞬間の衝撃といったらない!
見た事がない顔になるユリウスとは対照的に、ロルフは吹き出していた。彼女の健闘が痛快すぎたのだ。
「お前の敗因が分かったぜ。好きな女の前だからって、格好つけすぎたな」
「……?」
意味がわからないと語る目付きに、ロルフは教えてやった。
振り返ってみると、ジゼルは巧妙な作戦を仕掛けたように思えるが、彼女がしたのは所詮、模倣。ユリウスならどう勝つか、ロルフならどう戦うか。彼女が自分の目で見てきた事を、真似してみたに過ぎない。
「見取り稽古が得意なんだよ、コイツは」
自分のことではないのに自慢げに笑うロルフ。彼に褒められて顔を綻ばせるジゼル。そんな二人を見ていたユリウスも、やがて清々しい笑みを浮かべるのであった。
愛した人に剣で敗れた。紛う事なき完敗だ。どんな断り文句よりも効果抜群ではないか。終いにユリウスは声を立てて笑ってしまった。
「君達には負けたよ」
非の打ち所がない振られ方だった。彼は決闘の結末を、後にこう語ったそうだ。




