50
弓矢を用いるジゼルは、戦場にいても血で染まることはなかった。たとえ敵陣の真ん中を突っ切っても、襲いかかる凶刃は盾によって防がれた。ゆえに彼女は、戦場でも汚れぬ白百合だと称えられてきたのである。
しかし今のジゼルに、美しい白百合の面影は無い。白銀の髪には土埃が付き、ぼさぼさに乱れていた。頬から流れた血で首や肩を汚し、服まで変色している。無傷のユリウスに比べて、彼女は満身創痍だった。右手は辛うじて剣を落としていないが、持っているのがやっとの様子。逃げ回っていた両足にも疲労がきたらしく、片膝をついてしまっている。
「そろそろ負けを認めたらどうだ。貴女に勝機は無い」
ジゼルはもう声が出なかった。唇から漏れるのは、早くて荒い呼吸のみ。誰の目にも勝敗は明らかだった。
ところがこれだけ追い詰められた場面でも、勝ちを諦めていない者がいた。ジゼル本人と、彼女の真後ろにいるロルフである。ジゼルが膝をついた場所が偶然、彼の目の前だったのだ。
ロルフは決闘の行方をずっと黙って見ていた。彼が唯一大切にする相手がぼろぼろになっていく様を、見ていることしかできないのは苦痛以外の何物でもなかった。
死ぬより辛い痛みを胸に感じつつも、ロルフは微動だにしなかった。ジゼルが流血した時でさえ、隣のポール達は悲鳴を上げて騒いでいたのに、ロルフは静かだった。何故なら、信じてやると彼女に約束したからだ。無言の信頼がどれだけ相手を鼓舞するか、それはロルフが身を以て知っている。
ロルフは彼女に勝てと指示した。
ジゼルはわかったと頷いていた。
彼女がああやってはっきり約束した時は、必ず守る。
片膝を折っていたジゼルが、さっと左手を背中に回した。真後ろにいるロルフはもちろん見えていたが、ユリウスもその小さな動きを見逃さなかった。
彼女が衣服の裏から引き抜いたのは、短剣だった。武器を隠し持っていたと悟られる前に、ジゼルは短剣を投げた。注視していなければ反応に遅れるほどの、敏速な動作だった。
ユリウスからしたら「あっ」と思った時には、眼前に短剣が迫っていたことだろう。だがそこは百戦錬磨のユリウスである。彼の体は危機に対して自然と反応していた。剣を顔の前に立てて、不意打ちを見事に防いだ。
(暗器か。用意がいいな)
彼女らしからぬ戦法だとユリウスは思ったが、彼は冷静だった。意外と言えば意外だけれども、たくさん暗器を仕込む時間は無かったはずだ。今の一本で終わりか、あったとしてもあともう一本か。彼の予測は正しく、ジゼルが隠し持っていたのは短剣一本だけだった。
でも、ジゼルの目的は暗器で仕留めることではなかったのだ。彼はそこを見誤っていた。
人間は突然目の前に物体が迫った際、正常な生体反応として目を瞑る。ユリウスとて例外ではない。その一秒にも満たない瞬間を、彼女は待っていたのである。
ユリウスが反射的に瞑った目を開けた時───ジゼルの姿が視界から忽然と消えていた。
ユリウス本人も、周囲で見守っていた兵士達やロルフでさえ、何が起きているのか把握できていなかった。
ユリウスが消えたと思ったジゼルは実際のところ、姿勢を低くして彼の左側へと飛び込んだだけなのだ。たったそれだけの事なのに、ユリウスは束の間、まったく無防備になっていた。
この一瞬が、勝敗を決めることになる。
姿を見失っても、気配は感じていたユリウスが剣を振り下ろそうとした。しかしジゼルの方が速い。彼女は無防備になった脇腹に向けて、蹴りを叩き込んでいた。
人を蹴る行為とジゼルとが、どうやっても結びつかなかったユリウスは動揺させられる。
(け、蹴られた!?)
剣術の合間に蹴りを入れるのは邪道である。それも行儀の良いジゼルから足が飛んでくるなど、夢にも思うまい。
機動性を重視して防具は軽装に留めていたため、急所を思い切り蹴られれば、さすがのユリウスも蹌踉めく。そこへ間髪入れず、ジゼルはまたしても彼を蹴りつけた。一発目の勢いを殺さないよう体を回転させ、今度はユリウスの膝裏を蹴り上げたのだ。立つのも苦しいほど消耗していたはずなのに、彼女の素早い動きは予想外であった。
体勢を崩しているところに、足を払われたユリウスだったが、驚くべきことにそれでも倒れなかった。大きくふらついたのに、尚も剣を振ってくる気迫は凄まじいものがある。
ところが彼の執念の一振りは、呆気なくいなされる。踏ん張りが効かない状態で振るった剣に、威力は乗らなかったのだ。
(彼女は腕を痛めているはずでは…)
剣を持つのがやっとの彼女になら通用すると思ったユリウスは、驚愕に目を見開く。
ジゼルはいつの間にか左手に剣を持ち替えていた。先ほどの的確な投擲といい、この力強いいなし方といい、考えられる可能性は一つ。
(左利き…っ!!)
ユリウスが真相に辿り着いたのは、決着がついた後であった。
彼の苦し紛れの攻撃を完璧に受け流し、初めて間合いに入ったジゼルは、彼の首筋に剣を添えていた。ユリウスには剣筋が見えなかった。薄皮が僅かに切れて血が滲む程度の見事な寸止めを、彼女は目にも止まらぬ速さでやってのけたのである。
決着の時、誰もが呼吸を忘れていた。まさに一瞬の出来事だったからだ。
「……ユリウス殿下の、負けです」
その他大勢と同じく呆然となっていたユリウスは、ジゼルの静かな宣告によって我に返った。そして、おもむろに目線を落とせば、新緑のような瞳が二つ、彼を一直線に射抜いていた。あまりにも美しく、透き通った色であった。
ユリウスは彼女と出会った霧の日に思いを馳せる。あの日もきっと、彼女は今日と同じ眼をして矢を放ったのだろう。大切な人の幸せを守る一心で……
「わたしの勝ちです」
「……ああ。そうだな」
敗北を認めたユリウスは剣をおさめる。改めてジゼルを見つめると、惨い姿だった。頬の傷は痕が残ってしまうに違いない。右腕も攻撃を受け続けていたら弓が持てなくなる危険があった。打撲と擦り傷は全身にできているだろう。それでも胸を張って自分の勝利を言い渡す彼女は、ユリウスの目に痛いほど眩しく映るのだった。
「皆、見ていた通りだ。この決闘、ジゼル・スクードの勝利である!」
ジゼルの左手は、ユリウスによって空高く掲げられた。
決闘の見届け人となった兵士達はしばし放心した後、力いっばい手を叩き、彼女の奮闘を称え始めた。「よく戦った!」「感動したぞ!」等々、彼らは口々に賞賛する。
割れんばかりの野太い声援のなかで「ジゼル殿」という呼びかけは、はっきり聞き取れた。ジゼルが首を動かすと、ポールとジャスパーに両脇を抱えられた彼が見えた。
「ロルフ」
持ち上げられていた左手が、すっと離されて自由になる。それは彼女自ら、勝ち取った自由だ。阻むものはもう何もない。ジゼルは剣を取り落としたことにも意識が向かないまま、駆け出していた。
やっとの思いで立ち上がったロルフだったが、両側を支えてもらっても姿勢を保つのは難しいようだ。感覚の戻らない両足が、くず折れそうになる。あわや倒れる寸前で、ジゼルが抱き止めた。でも、全力を出し切った後の彼女には支えきれず、二人は一緒になって地面に膝をついたのだった。
「ロルフ。勝ったわ」
ジゼルはロルフを抱きかかえたまま、勝利の報告をする。しかし彼はというと、ジゼルの肩口に顔をうずめるだけで、何も言ってくれない。
ロルフの背中に両足を回していたジゼルはやがて、彼が震えていることに気がついた。
「…泣いているの?ロルフ」
「……勝手に出てきやがるんだよ」
「……ふふっ」
「笑うな…クソッ…」
悪態をつく声も揺れている。ジゼルはぎゅっと彼を抱き締めた。右腕に力が込められないのがもどかしかった。
だが、体が言うことを聞かなくて、抱き締め返すことができないロルフは、もっと口惜しく感じている。
「…すげぇよ、アンタ」
「ロルフが応援してくれたから」
「頼まれた通り、言っただけだろ…」
「ロルフの言葉って、魔法なのよ。わたしが勝てるように、あなたが魔法をかけてくれたんだわ」
それまで小さく笑っていたジゼルであったが、不意に涙がこみあげてきた。あっという間に瞳から溢れた涙は、透明な雫となってぽたぽたと落ちていく。
「ちゃんと戦えたら、っ、願い事を聞いてくれるのよね…っ?」
「この際だ…十個でも、百個でも…聞いてやるよ」
ひどい涙声で、しゃくりあげながらジゼルが告げのは。
「愛してるわ…っ、ロルフ。わたし、あなたのものになりたい…!」
愚直なほどまっすぐな、愛の告白であった。
限界まで見開かれたロルフの眼から、ひときわ大きな涙が流れ落ちる。ロルフは痺れて力が入らない両手を、懸命に彼女のほうへ伸ばした。
「ああ…分かった…っ、愛してる。オレの、ジゼル」
ずっと伝えられずにいた言葉。それが今日ようやく、届いた。届けることを許された。
ジゼルとロルフは人目も憚らずに泣きじゃくる。二人とも子供の時分でさえ声を上げて泣いたことはなかったから、涙の止め方を知らなかった。




