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さっき見た出来事は夢で、決闘なんて無かった。そうあってほしい、と虚しい願いを抱きながらジゼルは横になった。けれど昨夜のことは夢などではなく、決闘の時は着実に近づいていた。
体が覚えた感覚通りにジゼルが目を開けると、丁度日が昇る前だった。睡眠はとったはずなのに体が重たく感じる。全身がというより、胸の辺りが顕著だ。
彼女はユリウスが自分に固執する理由が理解できなかった。戦いを挑んでまで欲するような魅力が、自分にあるとも思えない。
ロルフだってそうだ。
─── アンタが笑っててくれること、それが唯一大切なものなんだよ、オレは。
あんな言葉を貰えるような……ロルフの「唯一」にしてもらえる特別なことを、ジゼルがしたのだろうか。
(どうしてなの…?ロルフ…)
どれだけ思い返しても、ロルフに守られ、助けてもらった記憶しかないのに。
頭と心の調和がとれず、やり切れない気持ちのまま、ジゼルは決闘の場へと足を向ける。見届けない訳にはいかなかった。
その場にはすでにユリウスが立っていた。しかしロルフはまだ来ていないようだ。
だらしなく見えるかもしれないが、彼は寝坊するような人間ではない。今日みたいな大事な日に寝過ごすことはあり得なかった。朝日がじりじり上ってくるにつれ、ジゼルの嫌な予感は強くなる。おかしいと感じるまま、彼女は踵を返そうとした。
それとほぼ同時だったであろう。悲愴な顔をしたジャスパーが、全速力で走ってくるのが見えた。彼はユリウスのところではなく、一直線にジゼルのところへ向かって来た。
「ジゼル殿っ、大変です!ロルフ殿が毒を口にしたようで、いま先輩が……」
彼の言葉を最後まで聞かず、ジゼルは走り出していた。
ロルフが体の異変に気がついたのは、皆が寝息を立て始めてすぐのことだった。
まず、両腕に微かな痺れを感じた。次いで、微かだった痺れが波紋のように広がりだした。その瞬間にロルフは体を起こして、ひと気の無い方へと向かった。
毒を食った、と。ロルフは感覚で理解したのだ。躊躇なく口の中へ指を突っ込み、腹におさめた食べ物を吐き戻した。一度では吐ききれず、ロルフは何度も何度もえずいて毒を出そうと試みる。しかし吐いてる間にも、痺れは足先にまで広がってきていた。
(なんだ…?何を盛られた…!?)
ひもじい生活をしていた頃のロルフは、空腹を紛らわすためなら何でも口に入れていた。知識なんて無いので、毒性のある植物を食べてしまった事もある。数えていたらきりがないほどの食中毒を乗り越えてきたのだ。そうやって体を張って学んだからこそ、彼は毒物をある程度嗅ぎ分けることができた。身近にある毒草や毒キノコなら、彼の嗅覚を欺くことは困難であろう。そのロルフでも分からなかったとなれば、未知の毒かもしれない。
(くそっ…くそがっ……毒なんかで…っ!)
ロルフは夕食以降、何も口にしていない。という事は夕食に毒物が混入していた以外に考えられなかった。しかし、そうなると別の懸念が出てくる。夕食は兵士全員、同じものを食べたはず。ジゼルだって例外ではない。
(アイツは無事なのか…!?せめて…それだけでも……っ)
腹の中は空になり、もう吐く物も無くなった。けれども体の痺れは酷くなるばかりだった。毒が回り始めてから吐いても遅かったのだろう。ロルフはその場に倒れ込み、動けなくなってしまった。ジゼルの無事を確認しに行きたくても、体に力が入らなかった。
だから、必死に走ってくるジゼルを見つけたロルフは、心の底から安堵したのだ。
「ロルフ!ロルフッ!!しっかりして!!」
明け方、ポールとジャスパーが姿の見えないロルフを探しに来てくれなければ、発覚はもっと遅れたかもしれない。
ジゼルも真っ青になっていたが、地面を這う彼の顔色は比較にならないほど酷かった。
「どうしよう…っ!ポール、軍医は呼んだの?毒ってどういうこと?」
手強い敵を前にしても狼狽えなかったジゼルが、可哀想なくらいに取り乱している。捲し立てるような話し方からしても、彼女の動揺は相当なものであることが窺える。
「……おおげさ、に…騒ぐな、よ……」
「ロルフ!」
ロルフは舌と唇まで痺れているせいで、うまく喋ることができなかった。そんな状態であっても、彼は不敵に笑おうとしていた。
「…そろそろ、時間…だろ。行か、ねぇと…」
ロルフは足に力を込めようとする。だが、膝を立てるのが彼の限界だった。傍らに転がっている剣へ手を伸ばしても、握ることができない。少し動いただけで呼吸を激しく乱し、脂汗を落としていた。
彼らの周囲が次第に騒がしくなる。いきなり走り出したジゼルに、ユリウスが追いついたのだ。彼の部下達も後に続き、ぐるりと人の輪ができていた。
「……これはどういう事だ。誰か事情を説明できる者はいるか」
険しい表情をしたユリウスが問えば、ポールが代表して口を開いた。姿が見えないロルフを探しに行ったら、体が痺れて動けなくなった彼を発見。状況から察するに毒を盛られた様子だった。という旨を聞かされたユリウスは、眉間の皺をより深くする。
「同じものを食べて何故、彼にしか症状が現れていない」
確かにロルフは他の兵士より沢山食べていた。だが全員の食事に毒が入っていたなら必ず、ロルフ以外にも被害が出ているだろう。毒への耐性は個人差がある。少量の毒でも反応する人間はいるはずだ。ロルフを故意に狙った仕業でなければ辻褄が合わない。
しかしジゼルは別のことも引っ掛かっていた。彼女はロルフから毒を食べた経験談を聞いたことがある。その辺の毒は効かないと豪語していた彼が、こんな状態になるまで気が付けないなんて。そこまで考えたジゼルは、不意に背後を振り返った。
疑惑の視線の先にいたのはユリウス……ではなく、彼の隣にいる人物だった。
前にヴィッキーとディーンが言っていた。彼の実家は薬学に精通しており、彼の調合する薬は劇的に効くのだと。
「……ニック?」
彼女の視線を辿ったユリウスは、補佐官の名を呼んだ。呼ばれたものの、彼はうんともすんとも言わない。顔を土気色にして、棒立ちになっていた。
「まさか…君……!」
「……」
弁解もしない沈黙こそが、答えだった。
人一倍食べるロルフの食事は、配られる前に予め取り分けられていた。ニックはその見るからに山盛りの器へ密かに、毒薬を垂らしたのだ。彼が隠し持っていたのは、匂いのしない遅効性の毒薬。実家で調合されたものを、彼が更に改良した代物だった。
「何故だ…!私を勝たせるためだと言うなら、私は君に幻滅しなければならない。答えろ!ニック!」
ユリウスは怒りを露わにして、ニックを責め立てる。愚者の小芝居までして決闘という舞台を用意したのは、ロルフと真正面からぶつかり合える口実が欲しかったからだ。毒で弱らせた相手を倒しても意味がない。
「……」
「ニック……君が一番、私の思考を理解してくれていると思っていた」
傷付いた顔をする主人を前にして、ニックは項垂れるしかなかった。言い訳など無い。だってニックにも、自分がどうしてあんな蛮行に出たのか、分かっていなかったのだ。彼は何かに取り憑かれたように、無心で毒を垂らしていた。
ロルフのことは最初から好きになれなかった。でも、性格が合わないから毒を盛るなど、犯罪者の行いである。第一、卑怯な手を使って得る勝利なんて主人は望んでいない。ニックはそう正しく理解していたはずなのに、蓋を開けてみればこの有り様であった。
「あっ…!ロルフ…ッ」
ジゼルが声を上げたことで、ユリウス達の視線が戻される。
「…クッ……心配すんな…って、言った、だろ…」
見れば、ロルフが息も絶え絶えに剣を握っていた。けれども立ち上がることができない。歯を食いしばろうにも、顎にさえ力が入らないのだ。
剣で斬り合うなんて到底不可能である。だというのに、ロルフは尚も戦う意思を折ろうとしない。耐え切れなくなったのはジゼルのほうであった。
「……もういいわ、ロルフ。ありがとう」
「…よくねぇ……ひとっつも、よくねぇよ…!」
こんな負け方は受け入れられない。あんまりだ。ロルフを怒らせて挑発に乗せておきながら、毒で不戦敗にさせるなど認めてたまるものか。戦ってもいないのに、ジゼルをおめおめと差し出すなんて死んでもできない。いや、死んでいたほうがマシだったかもしれない。命は奪わないという決め事があるため、ロルフが死ねば必然的にユリウスの負けであった。
心臓が動いているからには戦う以外の道は無い。そうやって意地でも立ち上がろうとするロルフを、ジゼルは優しく諌めるのだった。
「毒が回っているのに、動いたらだめよ。きちんと治療を受けて、体を休めて」
「……断る」
「ロルフ。もういいのよ」
剣を握って離そうとしない大きな手に、ジゼルは自身の手を重ねた。
「わたしがやるから。この決闘は、わたしが受ける」




