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時は少し遡り、兵士達の酒盛りが始まる前。
ユリウスは人集りから離れた場所で、ニックと話をしていた。会話というより、ユリウスが己の決意を語っていただけである。ジゼルを王太子妃にする、と聞かされたニックは特に反対せず、止めることもしなかった。ただ、「憎まれることになってもですか」と主人を案ずる質問だけを口にした。
「最後の悪足掻き、だな」
それはあまりに身勝手で、独りよがりで浅ましく、卑怯な行動であった。ユリウスは自身の醜悪さを十二分に理解している。理解した上で、最低な選択をしたのだ。
「まったく…我ながら仕様も無い男になったものだ」
そう自嘲する主人から、ニックは顔を背けてしまうのだった。
恋に溺れた成れの果てだという自覚を持ちながら、ユリウスは件の宣言をした。これが暴挙である事を知る者は、ほんのひと握りだ。兵士の殆どはジゼルが王太子の情婦だと未だに思っている。だとしても、いきなり結婚の宣言を聞かされた彼らは、ただ茫然とするしかなかった。
「彼女を妃に迎えるとなれば、様々な反発が生じるだろう。しかし、戦場を共にした君たちが、私とジゼルの味方になってくれれば心強い」
兵士達の反応は予想のうちであり、ユリウスは言葉巧みに同情を誘った。彼の目論見は外れることなく、王太子を敬う兵士達は次第に激励の声を上げ始める。突然の宣言に驚きはしたものの、皆の心は一つだった。主人がそう望むのならば全力で支持する、それ以外になかった。
「情婦になさるくらいだ。最初から見初めておられたのだろう」
「それに今や彼女は我が国の貴族だからな」
「あれほどの強さがあれば、殿下のおそばでお守りできましょう」
歓迎の勢いは強まっていく。しかしながら、ポールとジャスパーだけは全く喜べなかった。二人とも求婚の行方については知らなかったが、ロルフの想いの丈は知っている。だから二人は恐ろしさのあまり、ロルフがいる方へ視線を向けらなかったのだ。
そしてジゼルもまた、言葉を失っていた。訳がわからなかったのだ。ジゼルは確かに求婚を断ったはず。ユリウスは他者の心を軽視するような人ではない。それなのにどうして、彼の妃になる流れになっているのか。嫌な汗が出てくるばかりで、ジゼルは何もできなかった。
彼女に代わり、激しい怒りに震えているのはロルフであった。彼は持っていた杯を地面に叩きつけると、猛然とユリウスに食ってかかった。
「なに舐めたこと抜かしてやがる…っ!!コイツの気持ちはどうでもいいのか!!」
獣の咆哮のような怒声に、木の上で眠っていた鳥達が一斉に飛び立つ。兵士達はしんと静まり返るだけで、王太子が襟首を掴まれているのに、助けに行こうとする者は一人もいなかった。ロルフからほとばしる明確な殺気に皆、恐れ慄いてしまったのである。
相当きつく締められていたにも関わらず、ユリウスは顔色ひとつ変えなかった。
「なぜ君がそこまで怒る。もしやジゼルに気があるのか?」
その余裕綽々といった微笑を見たロルフは憎悪で血が煮えた。全部分かっているくせに、ロルフが頑なに秘めてきた想いを軽々しく語られては憎しみも湧く。
「私の妃となる娘を誘惑したのであれば、姦通罪に問われるぞ」
「ハッ!ほざいてろ。まだ妃じゃねぇだろうが!無様にフラれた分際で、罪に問えるもんならやってみやがれ!!」
振られた、という言葉にユリウスは僅かに眉を顰める。だがそれも束の間のことで、すぐに元の表情に戻った。
「彼女の返答が如何なるものでも、私が妃にすると言えばそれは可能だ」
「ふざっけんな!オレは認めねぇ!!」
「元より君の承認など要らない。国王の許しさえあれば事足りる」
ロルフの頭の血管はとっくに限界を超えている。最早いつ切れてもおかしくなかった。対するユリウスは煽るように口の端を持ち上げるのだった。
「不満があるなら決闘でもするか?幸いにして、ここはまだ戦いの地だ。私が負ければ君の主張を認め、先ほどの宣言は撤回しよう」
固唾を呑むばかりの兵士達に混じり、成り行きを見守っていたニックのみ、これこそがユリウスの真の狙いである事を知っていた。王太子妃にする云々は、建前でしかなかったのだ。
ジゼルの幸せを思うなら黙って身を引くのが最善。そうするべきとは知りつつも、ユリウスは己の欲を抑えられなかった。彼女の心を奪った男と真っ向から勝負したい、という欲だ。自分がロルフに及ばない現実を力尽くで叩き付けられでもしないと、彼女に抱いた真剣な愛の持って行き場が見つからない。
ユリウスはロルフの全力を引き出すため、あからさまな挑発を使った。そして彼の回答は明解かつ速断であった。
「受けて立ってやる」
頭に血が上っていたとはいえ、ユリウスからの挑戦状の意図にロルフは気が付いた。だからこそだ。悩む必要は欠片も無かった。
向こうが正々堂々、勝負をしたいと言うならば逃げたりはしない。こちらも堂々と返り討ちにし、公衆の面前で負けを認めさせてやるとロルフは息巻いた。
「オレが勝ったら、コイツを自由にしろ」
交渉の道具として利用され、情婦などという屈辱を受け、意思さえも踏み躙られたジゼルが解放されるなら、ロルフは誰が相手でも戦う。刺し違えても勝利をもぎ取る。彼女の願う事が、何にも邪魔されず叶えられるために。
想定通りの返答に、ユリウスはすっと目を細めた。
「良いだろう。決闘は明日の朝、日時の変更は無しだ。決め事は一つだけ、命を奪うことはしない。これでどうだ?」
「好きにしろよ。トドメを刺せねぇのは残念だがな」
ジゼルを置き去りにしたまま、決闘の舞台だけが整っていく。彼女の足がようやく力が入ったのは、殺人鬼より恐ろしい顔をしたロルフが立ち去った直後であった。
「……ロルフ…ッ」
放心から立ち直ったジゼルは急いで、消えていった背中を追おうとした。しかし冷たい手が彼女を掴んで引き止める。
ユリウスは何も言わず、じっと見据えてくるだけだった。ジゼルがか細い声で「離してください」と頼めば、掴まれていた手は呆気なく解放される。
(…信じられないものを見るような瞳だったな)
彼女が振り向いた際の眼差しは、ユリウスの胸を疼かせた。彼女に苦しみを与えたユリウスに傷付く資格は無いのだが、それでも寂寥を感じずにはいられなかった。
それから間もなく、ジゼルはロルフに追いついていた。
「……どうして、決闘なんて受けたの」
「腹が立ったからに決まってる。正当な理由をつけて、あの野郎をボコボコにできるなら丁度いい」
一応、彼女の質問には答えてくれるものの、ロルフは強情に背を向け続けた。
「殿下は剣の達人よ。フィンレーが負けそうになるくらいだもの…あなただってきっと、厳しい戦いになるわ」
ニフタ国を含めた五国には「決闘」の伝統が根付いている。その昔、裁判として行われていたものの名残だ。変わらず受け継がれてきたのは、一対一で戦う事と、勝者の主張が通る事。つまり正義が勝つのではなく、勝った方が正義なのである。
「なんだよ。アンタはオレが負けると思ってんのか?」
「違うわっ。ロルフが傷付くのが、嫌なの」
ロルフがどれだけ強くても、ユリウスを相手にして無傷とはいかないだろう。幼馴染の時みたいに、弓で助けに入ることもできない。ロルフの傷が一つまた一つと増えていく様を、ジゼルは見ていることしかできないのだ。それは想像しただけでも胸が引き絞られた。
「今さら傷が増えようがどうってことねぇよ」
「傷痕の話じゃないわ。怪我をしたら誰だって痛いでしょう」
傷を受けた本人が辛いのは当たり前だが、痛々しい傷を見る方も切ない思いをするのだ。
「わたしのせいで、あなたが痛い思いをするのは嫌よ…っ」
幾度となくロルフに怪我を負わせてきたジゼルは、声を震わせながら訴えた。
彼女の気持ちは嬉しく思うし、辛そうな顔はさせたくないが、ロルフだってこれだけは譲れない。
「戦わなきゃアンタが真剣に考えた選択は、知らん顔されて終わりだろ」
本当に酷い話である。ロルフは再びはらわたが煮えくりかえってきた。ジゼルが真剣に悩み、誠意をもって答えた決定は、あっさり覆されそうになったのだ。これを許しては、彼女の幸せはあり得ないものとなる。だからロルフは、ありったけの怒りを剣にのせて、ユリウスの戯言を叩っ斬るつもりだ。
「だとしても、ロルフが戦う必要は…っ」
「いいからアンタはいつも通り、何の心配もするな。そうしたら、明日から自由の身だ」
ロルフは強引に話を終わらせ、今度こそ闇の中へ姿を消してしまった。先ほどはジゼルが追いかけてくる気配を察し、歩調を緩めていたようだが、彼が本気で相手を撒きにかかったら足跡を辿ることは困難である。元泥棒の逃足は伊達ではない。
ジゼルは追うのを諦めて踵を返した。しかし彼女の足取りは非常に重たいものだった。




