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 遠征十二日目は、ここ一番の快晴であった。風もほぼ無く、視界は良好。そしてジゼルも未だかつてなく好調だ。


「右方は退避の体制。阻止しろ」

「一時に弓使い。こっちの隊長が狙いだ」

「騎馬隊が苦戦。適当に援護しながら移動する」


 今日のジゼルは簡潔な返事すら寄越さない。唇を動かすというごく些細な仕草も放棄して、集中力を高めている。彼女の双眼は標的しか見ていないし、両耳はロルフの声しか聞いていない。


「敵将が逃げるぞ!ポーとパーは足台になれ!」

「足台ってなんだ!?」

「はやくしろ!」


 ポールとジャスパーは怒鳴られながら四つん這いになった。二人の背中にジゼルは躊躇なく足をかけて立つ。まさかこんな風に即席の足台を作るとは思わなかった。ジゼルが難なく敵を撃ち抜いたようだが、ポール達は体を揺らさないようにするので必死だった。


「隠れろ!お前らも盾を出せ!チンタラすんな!」


 やれ四つん這いになれだの、やれ盾を構えろだの、忙しないことこの上ない。しかも口答えは許されず、ほんのちょっと遅れただけでも怒られる。理不尽ここに極まれりである。

 しかしポールとジャスパーの表情は妙に明るい。彼らの目に映るのは、盾兵の守護を受けて、冴え冴えと戦場を穿つ弓使いだ。


「俺はついていくのも危ういですよ」

「ははっ、我々はそれで充分じゃないか」


 二人は小声で喋っていたのだが、ロルフに聞こえてしまったらしく、またしても怒鳴られたのだった。




 終わってみればたった一日で、ジゼルは十一日分の戦績を上回る結果を叩き出してみせた。彼女がいかに絶好調であったか、よくわかるだろう。


「まぁ悪くねぇ動きだった」


 さしものロルフも捻くれた褒め言葉をかけるくらいである。そう言われたジゼルは、ややあって顔を綻ばせる。珍しい笑い方だったので、ロルフは思わず目を見張ってしまった。


「ありがとう。ロルフ」


 これも惚れた弱みだろう。彼女の笑顔がこの世で一番きれいなものに見えた。ロルフは直視することができず、顔面ごと強引に目を背けるのだった。初々しい空気が漂いかけたものの、ポールの乱入によって阻止される。


「いやぁお見事でした!ジゼル殿!これだけ手柄を上げたら、一気に昇格も夢ではないかもしれませんな!」


 後ろから大きな声が追いついてきたため、驚いたジゼルは笑顔を引っ込めたが、またすぐに小さく笑った。


「もしそうなっても、辞退するわ」

「ええっ?どうしてですか?前例はないですがジゼル殿ならきっと…」

「わたしは自分のことで手一杯だもの」


 バルビール隊で副隊長を務めていたのは、その方がフィンレーのそばで守りやすいと考えたからに過ぎない。実質、名ばかりの副隊長であった。

 彼女の言葉を補足するかのように、ジャスパーが意見を述べる。


「隊を率いて戦うのは、ロルフ殿のほうが向いていそうですね」

「頼まれてもやらねぇよ。面倒くせぇ」


 平常心を取り戻していたロルフは、盛大に顔を顰めてみせる。過去の話であるが、盾兵に転向する前は昇格の話が何度か出ていた。だが彼はそれらを全部、突っぱねていたのである。


「オレは読み書きができねぇんだ。報告書も出せない隊長なんか用無しだろ」


 立場が上がるほど書類仕事も多くなる。作成はおろか、読めもしないロルフにはどだい無理な話だったのだ。そしてジゼルの盾兵に任命されてからというもの、彼女と共に在るためには昇格なんぞますます邪魔でしかなくなった。だからロルフが隊を受け持つことは、後にも先にもない。


「そういうことか…」

「そういうこった。抱える人数が増えるだけ、身軽さも失うしな」

「なるほど。我々はこのまま四人で運命共同体という事だな!」


 ポールが満足げに頷く。ところが頷き返したのはジゼルだけだった。ロルフはともかく後輩の肯定が得られなかったことを、ポールは野営地に戻った後も嘆き続けていたそうだ。




 その日の夜。ジゼルは眠らずにユリウスを待っていた。

 月下に佇む彼女を見つけたユリウスは、意外そうな様子を見せる。彼が先に休むよう伝えたら、素直に従うのがジゼルだったからだ。今夜に限って彼女が指示を破ることに、何らかの意図が感じられた。それが自分にとってあまり良くない事であると、ユリウスの直感が訴えてくる。


「殿下にお話があります」

「なんだろうか」


 戦闘中は束ねている銀色の髪も、今は夜風に遊ばれていた。


「この遠征が終わったらと仰っていましたが、今、お返事をしてもよろしいですか」


 ユリウスは表情を変えずに「構わない」と言った。彼女の瞳を見れば返答の内容は察せられたゆえ、ユリウスは直後に訪れるであろう痛みを覚悟した。


「わたしの返答は『いいえ』です」

「……そうか」


 ユリウスは悲しげに微笑む。やはり、という気持ちが少し。残りは『はい』と頷いてもらえなかった失望である。


(出会い方が違えば。或いは私が王太子でなければ、貴女の返答も違ったのだろうか……いや、止そう。そんな仮定は無意味だ)


 互いの出自も、敵として対面した事も、今さら覆らない。


「ですが、殿下に協力するという約束は、引き続き果たしていきます」

「ああ。ありがとう。今後も期待している」


 甘い雰囲気など微塵もなかった。ジゼルには用意しておいた台詞をなぞったような、淡白さがあったからだ。居心地が悪そうにするでもなく、申し訳なさそうにするのでもなく、実にあっさりした対応だった。


(あどけない顔のわりに存外、情け容赦がない)


 彼女の淡白ぶりに、ユリウスは乾いた苦笑いしか出てこない。粉をかけてくる令嬢に対して、今までユリウスがしてきた態度をそっくりそのまま返された気分である。だがすぐに彼は被りを振った。


(…ああ違うな。それが誠意か)


 その気もないのに、気がある素振りを見せるのは不実な者のやる事だ。だからユリウスも、異性の誘いや告白はきっぱり断ってきた。少々冷たく拒むのは、相手が諦めをつけやすいようにするためだった。




 彼女が去った後。考えても無駄なことをひたすら悶々と考える様子は、はたから見ると放心しているようだったらしい。異変に気付いたニックが、焦りながら教えてくれた。


「どうしたのですか?殿下。もしや凶報が届いたのですか」

「凶報か。ある意味、間違ってはいないかもな」

「それはいったい……」

「…彼女に振られてしまったよ」

「えっ……?そんなまさか……!」


 そう呟いたきり、ニックは絶句してしまった。敬愛する主人に振られる要素など無いと信じていたのだ。ニックの頭の中では、ジゼルと共に理想を叶える主人の姿が、すでに思い描かれていた。二人が結ばれるのを期待し、待ち望んでいたのに、いったい何がどうなっているのか。ニックの混乱は頂点に達していた。


「結局、私はあの男に敵わなかったということだ」

「……ジゼル殿が、そう言ったのですか?」

「聞かなくても分かるだろう。初めから、彼女の心には彼がいたことくらい……分かっていたが私も大概、往生際が悪いな」


 ニックは握った拳を震わせる。主人の心が届かなかった理由が、ニックの嫌う男のせいだなんて、こんな悔しいことが他にあるだろうか。


「仕方がない。人の心は、他人がどうこうできるものではないのだから」


 ユリウスは地面を見つめる側近の肩を叩いた。生まれて初めて本気で惚れた相手に拒まれたのは、覚悟していた以上に辛く、立ち直る見通しすらたたない。しかし、蹲ることはユリウス自身が許さなかった。ここは戦場で、戦争はこれからも続いていくからだ。




 夜が明けて、新しい朝が始まる。支度を整えて天幕から出てくるジゼルを、今度はユリウスが待っていた。


「戦場に余分なことを持ち込んで申し訳なかった。私の都合で貴女を振り回してしまった事、許せとは言わない」


 これを伝えるためだけに待っていた彼は、ジゼルが返事を考えている間に背を向けたのだった。

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