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夜目の効くロルフは生い茂る草薮をものともせず進んでいく。ジゼルは手を引かれるまま、ついていくだけだ。握られた手首だけが、じんと熱い。
やがて視界が開けた。小川に出たらしい。ささやかなせせらぎの音がする。頭上の星と月が、揺れる水面に映っていた。ここまで来るとロルフは手を離し、手近な岩に腰を下ろした。彼は無言だったが、不自然なくらい岩の端に寄って座ったのは、隣にいっても良いという意味だろうか。ジゼルは少し逡巡してから自身の解釈に従い、彼の隣に座ることにした。
「……オレは喋ったから、アンタが言わなきゃ話し合いにならねぇよ。飯抜きだけは勘弁だぜ」
ロルフは膝に肘をついて行儀の悪い格好をしていた。それでも聞く耳は持つらしく、先程よりも声色が落ち着いている。
しかし話すよう促されても、ジゼルはなかなか口を開くことができなかった。何をどう伝えてよいか、考えが纏まらないのだ。でもずっと謝りたいとは思っていたので、彼女は真っ先に「ごめんなさい」と謝罪した。
「そりゃこの怪我のことか?それとも今日までの体たらくの話か?」
「…両方よ」
「じゃあ前者はいらね。自己責任だってさっきも言っただろうが」
「違うわ。わたしがいなかったら、することのなかった怪我だもの」
アンタがいなかったら盾兵にもなってない、という台詞はロルフの胸に仕舞っておく。
「それよりオレは、今日になって腑抜けた理由が知りたいけどな」
「それは……」
「支離滅裂でもいいから言えよ。ちゃんと聞いてやるから」
およそ人の話を聞くような姿勢ではないのに、その言葉に偽りが無い事はジゼルにも伝わっていた。彼女はおもむろに自身の胸元に左手を置く。そして消え入りそうな声で告げるのだった。
「……痛いの。あなたの声を聞くたびに。痛くて痛くて…指先が震えて、視界が歪むくらい」
それは心臓に針が刺さるといった生半可な痛みではない。鋭利な槍で体を貫かれるような激痛だった。ロルフの声が槍に変わって突き刺してくる錯覚に、ジゼルは耐えられなかった。胸のあたりから生じた痛みは、鼓動に合わせて全身へと走るのだ。外傷ならば処置のしようもあったかもしれないが、傷のない痛みではどうすることもできない。ジゼルは痛みを逃すことも叶わず、ひたすら悶えるしかなかったのである。
「……なんで、そんな事に…なってるんだよ」
ロルフは呆然と聞き返していた。まさか矢も握れなかった原因が、自分の声にあるだなんて。
「…わからないわ。でも…最初に痛いと感じたのは、あなたに…『賢い選択』だって、言われた時だった」
「は……?」
「てっきりロルフには『似合わない』とか『無理だろう』って言われるとばかり……それから急な胸の痛みに襲われたわ」
ジゼルはまだ何かもごもごと言っていたが、ロルフはそれどころではなかった。余裕を失いかけていたのだ。
だって彼女の言い方ではまるで……ユリウスを選べと勧めた事に深く傷付いた、という意味に受け取れないだろうか。
「……だったら、オレはなんて言えば…アンタは納得したんだ?」
「えっと…王太子妃なんて柄じゃない、みたいな感じのこと…かしら?」
ロルフは一瞬、閉口する。
(オレが引き止めていたら、アンタは弓が引けたのか?)
無性に確かめたくなったロルフは、試してみることにした。聞いてしまえば最後、後戻りできなくなる予感はしていたけれど、欲望の芽が出てしまったら止められなかった。
「王太子妃なんてやめとけよ。あの野郎のところには行くな」
ロルフは彼女の挙動をつぶさに見ていた。ジゼルは視線を左右に彷徨わせたかと思えば、頬をほんのりと染めて目を伏せた。
「…痛みはどうなった」
続けてそう尋ねれば、彼女は不思議そうな顔になって「今は痛くないわ」と答えた。その理由が分からないほどロルフは鈍感ではなかったし、気付かないふりができるほど大人でもなかった。
ジゼルの鈍臭いところも可愛いと思っていたが、ここまでくるとちょっと恨めしくなってくる。ロルフは星空を仰いだ。どうしてくれるんだと、誰ともなしに八つ当たりしたくなった。
「……頭の理解が追いついてねぇな。アンタも…オレも」
「どういうこと?」
「そのまんまの意味だわ」
はあ、とロルフはことさら大きな溜息を吐く。体は脱力していても、心拍数だけは上がり続けているから始末に負えない。
「……いいか。今からオレが言うことは全部、独り言だ」
「?」
「だから返事はいらねぇ。忘れても構わねぇ。取り留めのないことを溢すだけだからな」
念入りに前置きしてから、ロルフは呟き始めるのだった。
「……オレが賢い選択だって言ったのは本心だ。富と権力は有って困らねぇだろ。王太子サマは面も悪くねぇし、教養ってヤツもあるしな。女の求める理想ってのは、ああいう野郎のことを差すと思ってた」
ロルフは面白くなさそうに鼻を鳴らす。非常に癪だが、王族と泥棒では比べる価値もなかろう。だから勧めたのだ。ユリウスを選ぶのが「賢い選択」だと。ロルフが持っていないものを数多く持っている男なら、ジゼルを幸せにする力だってあるはずだ。
しかし己の幸福とは何か、それを定めるのはユリウスでもロルフでもない。
「だけどオレは……アンタが幸せなら何だっていいんだ。別に賢くなくても。馬鹿な選択したって周りから言われてもな。アンタが笑っててくれること、それが唯一大切なものなんだよ、オレは」
ロルフが「好きだ」とはっきり告げることはなかった。ジゼルの心はわかったけれど、それを彼女自身が理解していなければ意味がない。ロルフは彼女の願うことは何でも叶えたかった。反面、彼女が願わない事は一つもしたくないのだ。だから彼女が自分の口で気持ちを語らない限り、ロルフも秘めた想いを明かしはしない。
「独り言はここまでだ」
ロルフがそっと様子を窺ったところ、ジゼルは暗がりでも隠せないほどに目元を紅潮させていた。それがもう答えのようなものだった。釣られてロルフも顔が熱ってくる。できることなら目の前の小川に飛び込んで、熱を冷ましたいくらいだ。
しかしまだ話を終わらせる訳にはいかなかった。ロルフは赤くなったジゼルを極力視界に入れないようにして、岩から立ち上がる。どうにかこうにか荒ぶる心臓を落ち着け、自然体を装った。
「確認しておくぞ。まだ戦えるのか、もう戦えないのか。アンタの返事がのろいことは知ってるが、これだけは今すぐ答えろ」
真正面から顔を合わせることはできず、ロルフは横目で彼女を見つめていた。彼女の返答は短く、そして明確だった。
「戦えるわ」
ジゼルはもう胸の痛みを感じなかった。手の震えも止まった。痛みで涙が滲むこともない。いつも通り、いや、いつも以上に戦える気がした。
迷いのない透き通った瞳に戻ったのを見て、ロルフはようやく笑みをみせるのだった。
「よし。今の言葉が嘘じゃなかったなら、この戦いが終わった後で、アンタの願いを一つ聞いてやるよ」
「願い?」
「ああ。約束する」
今はきょとんとするだけの彼女が、いったい何を願うのか。ロルフは楽しみで仕方がなかった。
「じゃあ戻ろうぜ。腹減った」
そうして来た道をゆっくり戻る。しかし帰り道は手首ではなく、二人は手を繋いでいた。その事についてお互い何も言及せず、人前に出るまで手を解くこともしなかった。
夕食を終え、兵士達は各々の寝床へと散っていく。ジゼルも設けられた天幕へ戻ったところだ。
ユリウスは彼女が戻るのを待っていたのか、姿を見つけるなり「調子はどうだ」と尋ねてきた。
「もう大丈夫です。今日の失態は、明日必ず挽回します」
「頑張りすぎないようにな」
ユリウスは優しく言いながら、内心では奇妙に思っていた。明らかにジゼルの様子が変わったのだ。見慣れた雰囲気に戻ったと言うべきか。軍議の前に声をかけた時はひどく疲れ切った様子だったのに、この短時間で何があったのだろう。
「おやすみなさいませ」
「ああ。ゆっくり休んでくれ」
今回の遠征から、二人が休む天幕は別々だ。ユリウスが「好いた女性と同じ天幕にいたら、理性を保てそうにない」と言い出したからである。そのためジゼルはバルビール隊にいた頃と同じく、一人用の天幕を使用することになった。そして今夜ほど、一人になれる時間をありがたく思ったことはない。
ジゼルは早々と寝床で丸くなった。体は疲れていたからか、割とすぐに眠気はやって来たものの、寝入るには至らない。
(熱い…)
熱帯夜でもないのに、顔中が熱かった。手を当てると頬から指先へ熱が移り、一向に冷める気配が無い。どうしてこんな事になっているのか、確信に触れているような気はするのに、掴みきれない。
(ロルフの言葉はまるで魔法だわ)
彼の言葉ひとつで弓が引けなくなった。だが、涙が滲むほど辛かった痛みを一瞬で消したのも彼の言葉だ。自分の調子を調整できず、他人に掌握されている。それは危険なことで、危機感を覚えなければいけないはずなのに、ジゼルが感じているのは心地よい安心感だった。
(願いって言われても……どうしたらいいのかしら…)
考えなければいけない事が沢山ある。しかしながらジゼルは黙々と考えているうちに、いつしか寝息を立て始めていたのだった。




