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ロルフは落馬の件以降、ジゼルに対して一言も言葉を発しなかった。怖い顔をするだけで、何も言わなかったのだ。そして野営地に戻るや否や、傷の手当てをするために去っていってしまった。
「我々も戻りましょう」
ユリウスとの会話が終わったのを見計らい、アレックスがそう促してくる。ジゼルは小さく頷くのが精一杯だった。
(……わたしのせいで…)
とぼとぼ歩くジゼルは、激しい自責の念に駆られていた。
(わたしがいつも通り戦えていたら、ロルフが代わりに戦うことはなかった…怪我をすることもなかった…っ!)
ロルフの馬に矢が刺さり、彼が倒れていく様子は不気味なくらいにゆっくり見えた。敵兵の中に転げ落ちた彼を見た瞬間は、すべてのものが凍りついた。体も、心音も、時間の流れも、何もかもが止まったように感じた。彼が何か叫んでいるのは分かったけれど、ジゼルの耳はそれを言葉ではなく、単なる音として拾うだけだった。
(わたしがロルフを傷つけているようなものだわ…)
盾兵と弓使いは、守り守られる関係にある。でも今日の彼の怪我は違う。まともに戦えない足手纏いを守ったために、ロルフは怪我をしたのだ。
彼だけではない。制止を振り切って逆走したジゼルを守るために、ポールとジャスパーも傷を負うことになった。
敵陣を抜けるまでは無我夢中だったが、抜けた後でジゼルが見たのは、血だらけの仲間達であった。彼らをそんな姿にしたのは自分だと遅れて理解したジゼルは、顔を覆いたくなった。取り返しのつかないことをしてしまったと思った。
憂いに沈みながらもジゼルの足は、負傷兵のいる天幕へと向いていた。ポールとジャスパーの姿はすぐに見つかった。
「ポール…ジャスパー…本当にごめんなさい。わたしの勝手な行動でひどい怪我を…」
「おおジゼル殿。我々は五体満足、元気いっぱいですよ。それに、時には感情に任せて動くのも悪くない。なあ?ジャスパー」
「ええ。このくらいの怪我はよくある事です。気にしないでください」
「訓練兵時代のほうが無茶をして大怪我をこさえたものですよ」
「それは先輩だけですけどね」
「えっ。ここで裏切るのか?君…」
冗談混じりに喋ってみるものの、ジゼルは肩を縮めたままである。しかし彼女は不意に顔を上げた。
「あっ…」
彼女の視線を辿れば、手当てを終えたロルフが天幕から出てくるところだった。
彼は包帯を巻いてない箇所のほうが少ない様相であった。顔も内出血を起こして腫れてきている。服の下はもっと酷いことになっているだろう。
とにかく謝ろうと思っていたはずなのに、いざぼろぼろのロルフを前にすると、ジゼルは声が出なくなってしまった。
「勲章が増えたな、ロルフ殿」
「うるせぇな。大袈裟なんだよ。こんなにグルグル巻きやがって…」
「戦えそうか?」
「当たり前だ。ただの打撲だぞ」
彼女が話しあぐねていたら、ロルフがじろりと睨んできた。見たことのない目つきだった。
「アンタはこんな所にいないで帰れよ」
萎縮していたジゼルの肩が小さく跳ねる。
「怪我のことならどうでもいい。これはオレの自己責任だからな。オレが言いたいのは、盾兵は弓使いを守るのであって、お姫サマのおもりをする護衛じゃねぇって事だ」
「っ……」
彼の意見はもっともで、ジゼルは返す言葉もない。たとえ声を出すことができたとしても、反論の余地はなかっただろう。
「戦えないヤツに兵士を名乗る資格は無い。ましてや指示も聞けねぇヤツはお荷物だ」
これ以上なくはっきりとした拒絶にジゼルは項垂れてしまう。淡々と説かれるより、思い切り怒鳴ってくれたほうがましだったかもしれない。挽回の機会も要らぬと、完全に見限られたも同然に思えた。
しかしロルフもまた、心の中がぐちゃぐちゃになっていた。他の男のことで悩むあまり、ジゼルが実力を発揮できなかった事に苛々した。ロルフの声に怯える姿を見るのが途方もなく苦しかった。ロルフの指示を無視して引き返してきた彼女に心底腹が立った。でも、ユリウスの援護は遂行できなくなっていたのに、ロルフの危機にはいち早く復活して助けに来た事に、どうしようもない歓喜を覚えてしまった。
お互いにこんな状態ではまともに戦えないだろう。だが、せめてジゼルだけでも戦場から遠ざかってくれれば、ロルフの心も多少は平静を取り戻すはずだ。
「…戦力にならないなら、戦場になんか来るんじゃねぇよ」
突き放すことが互いのためになる、ロルフはそう考えた。俯いて小さくなる彼女に良心が痛むが、あえて無視して立ち去ろうとした。ところが、そこへ待ったをかけた人物がいたのである。
「待ちたまえ、ロルフ殿」
「あ゛?酔っ払いは引っ込め」
それは、四人の中で一番年長のポールだった。
「今の私は素面だぞ」
「知るか。テメェは部外者だろ」
「それも違うな。我々は戦場を共にする仲間。同胞であり、戦友だ」
最高に機嫌の悪いロルフがまた何か言う前に、ポールは「いいから聞くんだ」と先手を打つ。
「まずロルフ殿は主観を押し通すべきでないし、ジゼル殿に帰還を命令する権限も無い。それからジゼル殿は、もっと自身の意見を述べるべきだ。もしも不調を抱えているのなら、彼の言う通り退くことも検討しなければならない」
「オッサンが偉そうに…」
「オッサンという事は、君たちより経験豊富だという事でもある」
仲裁を見ているだけだったジャスパーは、先輩の後ろで苦笑していた。悪酔いすると面倒極まりないオッサンに成り下がるが、ひとたび先輩の顔になったポールは頼りになる。その事を後輩はちゃんと知っているのだ。
「二人とも納得いくまで話し合いなさい。ロルフ殿もジゼル殿も、相手の話に真剣に耳を傾けることができる人間のはずだ」
「……」
ポールは知らなかったが彼の諭し方は、ロルフの恩人でもあるフランシスに通ずるものがあった。ロルフの人生において、懇々と諦めずに指導してくれる人間に出会うことは稀で、だからこそ彼はそういう相手にちょっと弱かった。
「おおそうだ。話し合いを拒むなら、ロルフ殿の晩飯は無しにしよう」
「…はあ!?飯抜きとかふざけんな!」
なけなしの抵抗とばかりに憎まれ口を叩いたロルフは、許可も取らずにジゼルの手首を掴んだ。しかし雑な仕草に反して握る力は優しく、無理に引っ張ることもなかった。やはり彼は自分の心境がどうであれ、ジゼルを乱暴に扱うことができないのだ。
暗い草薮へと消えていく二人を見送ったポールは「若いって素晴らしいなぁ」と頷く。
「先輩もまだまだお若いでしょうに」
「君、ロルフ殿に便乗してオッサンと言っていなかったか?」
「さあ?忘れました」
「まったく…仕様のない後輩だな」
「可愛げのある後輩達、でしょう?」
「こいつめ」
ポールは後輩の肩を叩きながら夕食を貰いに向かう。戻ってきた二人の分も、確保しておかなくてはいけない。「量が少ないと怒られるだろうな」とポールがぼやけば、ジャスパーから「怒られるのは先輩の役目ですからね」と返ってきたのだった。




