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いつものように戦場を駆け巡りながら、ロルフはもう何度目か分からない違和感を覚える。やはりジゼルの様子がおかしい。矢の精度は変わらず驚異の的中率を誇っているが、ロルフは「物足りない」と感じていた。でもそう感じているのは彼だけで、ポールとジャスパーは何ら疑問を抱いていないらしい。
ロルフは舌打ちしたい気持ちを堪える。とことん問い詰めたいところだが、もしかしたら女ならではの不調かもしれない。ふと、そんな考えが頭をよぎったのだ。性差の不利を隠して戦いたいのが彼女の望みなら、無理に暴かず、黙って支えてやらなければ。
ロルフは盾を構え直した。後ろにいるジゼルの挙動を、いつも以上に意識する。どれだけ些細な異変でも、見逃さないためだった。
しかし、ロルフの辛抱の糸は十日目に切れた。彼女の調子は悪化もしなければ、改善もしていなかった。要するにずっと本調子ではなかったのだ。原因についてロルフは知らないが、このままの状態で戦場に出すのは危ういと判断し、とうとう本人を問い詰めることにした。
今日は朝から風が強く、時間が経つにつれてますます荒れてきたため、弓兵は待機を余儀なくされている。待機命令は出ているものの、曇天の空模様からして恐らく出番は無い。ロルフはこの機会を使って、ジゼルに「調子が悪いなら、治るまで出てくんな」と強めに諭した。
これに驚きの表情を浮かべたのは、ポールとジャスパーだった。二人はジゼルが本調子でない事を、今日まで知らずに戦っていたからだ。
「ジゼル殿、どこか不調を…まさか我々が気が付かなかっただけで、負傷されたのですか!?」
ジゼルはすぐに否定する。
「体調も良いし、怪我もしていないわ」
ロルフの気の所為だとまで言われたが、彼は険しい面持ちを崩さなかった。
「いや。アンタはいまいち集中しきれてない。体に問題がないなら何だ?」
「本当に何もないわ。いつも通りよ」
「いつも通りじゃねぇって言ってるだろ」
責めるような態度を見かねてジャスパーが咎めるも、ロルフは聞く耳を持とうとしない。
ロルフは焦って苛々してしまうほど、彼女のことが心配だったのだ。自分の命なんか、とうに彼女にくれてやっている。彼女を守って死ねるなら御の字であるが、ロルフが恐れているのは守れなかった場合だ。もし、ジゼルがいつもと違う思考で、ロルフの予測から外れた行動をしたら、守れるものも守れないかもしれない。間に合わなかったなどという言い訳は、口にもしたくない。だからこそ厳しい口調になってしまう。
「下手に誤魔化すのはアンタの勝手だが、今の調子を持ち越すなら弓は取り上げるぞ」
「……」
俯いてしまったジゼルを哀れに思い、ポールとジャスパーが仲裁に入る。
「ロルフ殿。もう少し言葉を選ぶべきだ」
「ジゼル殿…何か心配事でもあるのですか?我々に解決のお手伝いはできませんか?」
「それは……」
「吐き出すだけでも、気持ちが軽くなるかもしれませんよ」
「さすが、ゲロ吐いてスッキリしてた奴の言葉は重みがちげぇわ」
追い詰めるような言い方をした自覚があるロルフは、彼なりに場を和ませようとしたようだ。その結果、ポールの醜態が晒される羽目になってしまった。
「なにっ…!?私がいつゲロを吐いたというのだ!?」
「…ついこの間ですよ、先輩」
「酒場の帰り道で盛大にやっちまってたぞ」
「手を貸してくれと頼んだのに無視して置き去りにした事、俺は死ぬまで忘れないからな」
「汚物まみれのオッサンの介抱なんか御免だね」
「汚物まみれのオッサンでも、俺たちの先輩だぞ!」
「全面的に私が悪かったのは謝るから、婦人の前で汚物まみれのオッサンと連呼するのはやめてくれ!」
大の男が三人、揃いも揃って下らない言い合いをする光景は、ジゼルの肩から力を抜くのに役立った。ロルフがそこまで計算できた訳ではないが、最終的に彼女の硬い口を開かせたのだから、功を奏したのだろう。
しかし聞かされた内容は彼の思考を停止させるものであり、白状を促した事がはたして正解だったのか、ロルフは分からなくなった。
「……ユ、ユリウス殿下に…」
「……き、求婚された…?」
ジゼルが周囲に拡まらぬよう声量を控えたため、ポールとジャスパーも釣られたように囁き声を漏らす。一歩間違えれば、叫び声が喉から飛び出ててくるところだった。
二人は目の玉をひん剥いて仰天していた。だが大層たまげたものの、そうなっても不思議ではないとも思った。ユリウスは初めからジゼルに執心の様子だったし、数々の好待遇も恋心が理由なら納得がいく。
「…そ、それでジゼル殿は、なんとお返事を…?」
「返事は今回の遠征が終わってからで良いと…」
「…さ、左様で…」
ポールは夜道で嘔吐した記憶こそ無かったが、酒場で交わした会話の内容はしっかり覚えていた。酒癖は悪くても、飲んだら全ての記憶を失う人間ではないのだ。ゆえにロルフが今、複雑という言葉で片付けるには生ぬるい程の心境でいるのは分かっていた。ポールとジャスパーは、彼のほうを見るのが怖かった。
ところがロルフの返事は「ふぅん」という、気の抜けるようなものであった。その言い方に聞き覚えがあるのはジゼルだけだった。
「良かったじゃねぇか」
「……えっ…?」
ジゼルは彼に何を言われたか、理解が一瞬遅れた。難しいことは言われていないのに、理解できなかったのは初めての出来事だった。
「王太子サマの妻になるってことは、ゆくゆくは女王サマだろ?国で一番偉い女になれるなんて、前代未聞の出世だな」
「…ぁ、…」
一番偉いとか、出世とか、ジゼルは興味も無い。欲しいと願ったことだってない。なのに、声が上手く出せない。
「普通に考えて、頷いとくのが賢い選択じゃねぇの」
ロルフの態度は「そんなことで悩んでたのかよ」とでも言いたげであった。実際、彼は意図的にそう演じた。心中は穏やかでなかったし、少なからず傷を負って胸が疼いていた。
彼にとって意外な展開というわけでもない。いずれジゼルは同じ貴族の男と結婚するのだろうと、ロルフは考えてきたから。むしろ相手があの王太子なら、予定調和とさえ思えてくる。
「そういう事ならとっとと腹括って、明日には調子を戻しとけよ」
「え、ちょっとロルフ殿!どこへ行くんだ!?」
「こんな天気じゃ今日の出番は無ぇよ。その辺で寝てくる。体力の温存だ」
「勝手な行動はだめだぞ!」
身を翻したロルフをポールは引き止めようとするが無駄だった。ずんずん歩いていくロルフは、この荒んだ気持ちをはやく鎮めたいという焦燥に苛まれていた。予期していた展開とはいえ、いざその場面がやってくると、思っていた以上に堪えたのだ。
けれど振り返りもしなかったがゆえに、ロルフは彼女の顔から表情がごっそり抜け落ちた瞬間を見逃してしまうことになる。




