32
進軍から三日目にして、ユリウスは大胆な行動に出る。彼が先陣を切り、左軍の敵将を討つと宣言したのだ。
至極当然のことであるが、王太子が最前線に姿を現したと敵が知れば守りを固めてくる。そして格好の的とばかりに、狙いを王太子に絞るだろう。敵の攻撃を一手に引き受けることになるユリウスを、ジゼル達は守り抜かねばならないのだ。これは厳しい任務になる。
「ったく。生真面目な隊長サンはともかく、王太子サマも出たがりかよ」
ユリウスの突撃部隊に加わったロルフは、馬の上で独り言ちる。横には同じように騎乗するジゼルがいた。
「フィンレーって出たがりだったのかしら?」
「気にするところはそこか?」
軍の指揮官というものは大抵、後方でどっしり構えているものだ。しかし中には血気盛んな男もいて、自身が軍の先頭を走っていく場合もある。ユリウスは状況によって使い分けているらしい。突撃の好機と判断した時のみ、剣を抜いて前へ出る。
「んな事よりアンタ、もう馬の上には立つなよ。盾が届かねぇだろ」
「わかったわ。もうしない」
「ん」
こう言っておけば彼女は約束を守る。ロルフは次に、後ろを振り向いた。
「そこのポーとパー」
「……もしやと思うが我々のことか?」
人の名前をまともに呼ばないロルフであるが、あんまりな呼称にポールとジャスパーは開いた口が塞がらない。
「テメェら以外に誰がいるんだ」
「……」
「……」
「遅れずついて来いよ。離れたら置いてくぜ」
二人は非常に渋い顔つきで「…承知した」と返事をするのだった。
しかし、戦いが始まってしまえば、ふざけた呼称を気にしているどころではなくなる。何せ王太子が戦っているのだ。万一があってはならない。そして彼の守護を担うジゼルも、戦えなくなるような事があってはいけなかった。
「構えが甘ぇんだよ!パー!」
「す、すまないっ」
「おいポー!遅れんなっつっただろ!」
「も、申し訳ないっ」
ポールとジャスパーは勘違いをしていた。援護と言ってもいつものように、移動と停留を繰り返すものだとばかり思っていたのである。
ところがジゼルは馬を走らせながら矢を放ち始め、止まることがなかった。跳ねる馬の上で地上と変わらぬ腕を見せる彼女は、圧巻の一言に尽きる。
だがしかし盾を持って彼女に並走するのは容易ではない。彼女の馬と衝突するのは論外、かといって離れ過ぎても守りに穴があく。そちらに気を取られると、盾の構えが疎かになる。全てをいっぺんに行うのは困難であった。
(だというのに何故、ロルフ殿は"いつも通り"の動きができるのだ!?)
(ジゼル殿も凄まじいが、ロルフ殿も底が見えない…!)
ポールもジャスパーも持てる力を出し切って、どうにか置いていかれないようにする。それが彼らの精一杯だった。
ジゼル達の前方を駆けるユリウスは順調に、いや想定以上の進撃をしていた。何故なら、敵がユリウスを止めようと囲んでも、飛来する矢によって包囲網が崩されるからだ。時々、敵の中から「弓使いを狙え!」と怒号が飛ぶものの、ジゼルの矢が止む気配は無い。
「…ジゼル殿は大丈夫でしょうか」
ユリウスの左隣を走っているニックは、不穏な言葉が耳を掠めるたびに後ろが気になるようだった。一方のユリウスは前へ進む事に集中していた。
「彼が守っている以上、心配はないだろう」
「……殿下は随分とあの男を買っておられるのですね」
敵を難なく斬り伏せながらユリウスは言った。
「そういう君は随分と彼を嫌っているな」
「礼節を弁えない人間は、総じて疎まれるものです。あの男は殿下のご厚意で命拾いしたというのに、感謝の欠片も無い」
ニックは苦虫を噛み潰したような顔をする。無礼な態度に加え、元は卑しい盗人だったと小耳に挟み、ロルフに対する印象は最悪になっていた。
「君の言い分は分かる。しかし才能のある者を埋もれさせるのも勿体ない」
「…はい。殿下のお考えは承知しております」
「それに彼の手綱はしっかり握られているからな。暴走することはないだろう」
「やはりジゼル殿はあの男のことを…」
「さて、敵将が見えてきたぞ。無駄話は終わりだ」
言い終わるや否や、ユリウスの顔つきが変わる。これから敵を討ち取り、速やかに撤退するまで一切の気が抜けない。将を失えば、配下達が仇をとらんと血眼になって襲いかかってくる。どちらかといえば敵将を倒すより、無事に退くほうが難しいのだ。
「私はユリウス・ニフタ=カートライトである!悪いが貴殿の命、貰い受けるぞ!」
ユリウスが口上を述べるのを、ジゼルは聞いていた。それに加えて、四方から敵が走り出してユリウスを狙うのも見えていた。
「左はあの堅物に任せとけ。アンタは右。三時から飛び出してくる」
返事の代わりに、彼女は矢を放つ。その矢はロルフが指し示した敵の急所へ、吸い込まれていくのであった。
ユリウスが敵将を倒したことにより、左軍の戦いは決着したも同然だった。けれども戦争が終わった訳ではない。中央と右軍の戦いは続いているのだ。それらを撃破し、炭鉱山を奪取しなければ戦いに勝ったとは言えなかった。ただ、大きく一歩前進したのは確かである。兵士の中には早くも「今夜は祝杯だ」と浮かれる者までいた程だ。
ユリウスの勝利に貢献したジゼル達は、まだ日が沈まない時刻から休息をとっていた。小さな褒美として、早めの休息が与えられたのである。ロルフは夕食までひと眠りして時間を潰そうかと思っていたが、ジゼルに呼び止められた。
「ロルフ、頼みたい事があるのだけど…」
「あ?なんだよ」
彼は顔を顰めていたが、それは面倒に思ったからではなく、単に意外だっただけである。
「わたしに剣の特訓をつけてくれないかしら」
「なんでまた剣なんか…」
彼女の頼み事はますます意外であった。第一、剣を振り回している時に怪我でもしたら洒落にならない。弓を扱うのに支障が出てしまう。
しかしながらジゼルの瞳には並々ならぬ強い意思が漲っていた。
「いざという時、何もできないのは嫌だから」
「……」
彼女の言う「いざ」がいつの事を指しているのか。ロルフはすぐに分かった。二人が離れ離れになるきっかけとなった夜戦の日を、彼女はずっと後悔として引きずっているのだ。
「訓練所で練習はしたけれど、実戦で使えなければ意味がないわ」
考えてみれば、弓が使えない場面などいくらでもある。そうなった時に、守られるだけの人間に甘んじるのが、ジゼルはすごく嫌だった。いや、守ってもらうだけならまだしも、ロルフの足を引っ張り、負傷させた自分の弱さがどうしても許せない。
「…ま、いいぜ。戦う手段が多いのに越したことはねぇ」
ロルフ自身は怪我をした事なんて何とも思っていない。正直、とっくに忘れていたが、彼女が気に病んでしまうのは本意ではない。それに彼女から頼りにされて悪い気はしなかった。
「本当?疲れていたら、遠慮しないで断ってね?」
「はあ?オレを舐めんなよ。余裕で動けるわ」
「じゃあ…よろしくお願いします」
「やるからには厳しくいくぜ?」
厳しくだなんて言葉だけなのだが、額面通りに受け取ったジゼルは、表情を引き締めるのだった。
ジゼルとロルフの剣の特訓は、強風が吹き付けて矢が射てない日や、夕食前の僅かな時間など、二人になれる時を見つけてはこっそり行われた。他の人間、特にユリウスやニックに見つかると説明が面倒であったため、ロルフは秘密裏にこだわった。
「正面で受けんな。アンタの細腕じゃ一撃で手が痺れて、剣が握れなくなる」
「避ければいいの?」
「理想はな。できなきゃ受け流すのもありだ。オレがやり方を見せてやるから、斬り込んでこい」
「わかったわ」
普段の態度は不真面目なロルフであるが、特訓には同じ人物とは思えぬほど真剣に臨んでいた。ジゼルの頼みであるし、彼女が強くなればそれだけ安心材料が増えるからだ。
そしてロルフは、彼女の得手不得手をよく理解していた。言葉であれこれ説明するより、やってみせたほうがジゼルは吸収が早い。
「こうやって、攻撃の向きをズラす。そうすっと…」
「わっ…!」
言われた通りロルフに斬りかかったジゼルだったが、剣先をさばかれた拍子に、つんのめってしまう。寸でのところで彼が手を伸ばして支えてくれたので、みっともなく転ぶことはなかった。
「ものの見事に引っかかってどうすんだ」
「ご、ごめんなさい…」
「受け流された時は、すぐに体勢を戻さねぇと背中が丸出しになっちまうぞ」
「気をつけるわ。ありがとう、ロルフ」
「いいから続けるぞ。今度はアンタの番」
ジゼルは手先が不器用であるものの、不思議なことに運動神経は抜群だった。動体視力だって常人の比ではない。これらの素質が備わっているからロルフの動きを見てすぐ、完璧に真似するなんて芸当が可能なのだ。あとは基礎体力がもう少し上がれば文句無しである。
(しかしこれはこれで悪くねぇな)
一生懸命な彼女には悪いが、ロルフはこの状況を楽しんでいた。誰にも邪魔されない二人の時間、そして彼女の双眼はロルフにのみ集中している。
「ほら、全部躱すつもりでやれよ」
色気も甘さも情緒の欠片も無いけれど、このくらいの幸せは貰ってもバチは当たらないだろう。ロルフは隠れてほくそ笑みながら、ジゼルと対峙するのだった。




