29
牢屋で過ごす事を強制されていたロルフは、数日ぶりに外へ出され、太陽の眩しさに舌打ちする。肩と首を回せば、ばきばきと音が鳴った。今から戦場まで歩かされ、戦わされるのだ。しかし、これもジゼルの盾兵に戻るためである。人使いが荒くてもやるしかない。
隊列なんか全く気にすることなく、ロルフは欠伸をしながら歩いていた。沿道は兵士を見送る人々で溢れ返っている。激励の言葉が絶えず飛び交って、たいそう騒がしい。
「あっ、ロルフ!」
「は?」
喧騒の中であったのに、彼の耳は自分を呼ぶ声を拾っていた。ロルフは弾かれたように振り返る。
「…何してんだ、アンタ」
群衆に埋もれかけている銀髪を見つけたロルフは、隊列を外れて近付いていった。
「この剣を渡しにきたの」
「剣?」
「刃こぼれした剣だと危ないわ」
なぜ彼女が剣をくれたのか合点はいった。そして、とてもこそばゆい心地になった。戦いの前にジゼルの顔を見れただけでも嬉しかったのに、更に贈り物まであるとは。ロルフの心は喜び一色に染まる。盗む事だけが物を手に入れる手段だった彼には、善意の贈り物を貰う経験なんて無かったのだ。
だがしかし、そこはつむじ曲がりのロルフである。素直に感謝は伝えられなかった。
「…ま、貰えるモンは貰っとくに限るからな」
そんな台詞と共に、剣はジゼルの手から離れていった。何はともあれ受け取ってもらえた事を喜ぶ彼女を、ロルフはじっと眺めていた。
「アンタが普通の格好してるの初めて見た」
「そうだったかしら?」
いつも二人は戦場で会い、そこで別れていた。だからロルフはドレス姿の彼女を見たことがなかったのだ。
(…やっぱ、こういうのが似合うよな)
綺麗な服を着て、髪も綺麗に結って、お嬢様らしくしてるのが然るべき姿なのだろう。彼女はロルフが生きてきた場所とは真逆の場所で、不自由のない平穏な生活をしているはずの人間だった。改めてジゼルと自分は、住む世界の違う人間だと実感する。
ただし素直なのは心の中だけで、頑なに言葉にはしないのが彼らしさだ。
「動きにくそうだな」
「そうね。隊服に慣れてしまうと、足元にまとわりつくのが気になるわ」
ロルフの分かりにくい照れ隠しが、鈍いジゼルに通じることはない。彼女は皮肉とも思わず、単なる所感を述べただけだった。
「帰り道で転けんなよ」
再び隊列に戻ろうとする彼へ、ジゼルは「武運を」と声を送った。ロルフは背中を向けたまま、貰ったばかりの剣を軽く上げるのだった。
ロルフが出発した翌日から、ジゼルの鍛錬が再開された。腕の傷はもう気にならず、弓を引くのに支障も無い。屋敷の庭の一画を借り、簡易的な修練場にさせてもらった。
しばらく触っていなかったぶん、腕が疲れやすくなってしまったが、精度は落ちていない。愛用の弓が戻ってきただけでも、心持ちが全然違った。放っておくと休憩も忘れて黙々と体を動かす彼女を止めるのは、ヴィッキーとディーンの役目だった。
ジゼルとしては体を酷使しているつもりはないのだが、はたから見ると違うらしい。ヴィッキー曰く「なんだか焦っているように見える」そうだ。しかし休めと言われれば素直に休むので、そこまでひどく心配はされなかった。
「どうぞ、ジゼルさん。熱いので気をつけてくださいね」
「ありがとう。良い香りのお茶ね」
「本当ですか?姉さん『しまった!』って慌ててたのに」
「ちょっとディーン!それは言わないでよ!」
「仲良しね」とジゼルは呟いたものの、ヴィッキーの元気な声に掻き消されていた。
「ビスケットの焼き目に気を取られてたんです…お茶はちょっと蒸らしすぎましたが、ビスケットは大成功ですよ!」
期待に満ちた瞳に見つめられ、ジゼルはビスケットを一つ摘んで齧った。飲み込むと同時に「美味しい…!」と、口をついて出ていたのだった。
「ここにいる時は料理の特訓してるんです」
「ヴィッキーは料理人を目指しているの?」
「いえいえ。あたし達、戦争で住む場所や家族を失った人たちを助ける場所を作りたいんです。まだ目標だけで他は何にも考えてないんですけどね。でも炊事と洗濯はできて損はないと思って」
ヴィッキーとディーンは自分達がユリウスに救われたように、今度は誰かを救う側になりたいと語った。目標だけと謙遜しているが、具体的な未来を思い描いているだけでも、ジゼルはいたく感動した。
「なんて素晴らしい目標かしら!わたしも是非、二人に協力させてね」
しかし炊事や洗濯では戦力外なジゼルである。それでも何か力になれる事はないか、思案を巡らせる。
「そうだわ…!お給金をヴィッキー達に寄付するわ。お金は何かと入り用でしょう?」
名案だと思ったのだが、二人から即座に断られてしまう。
「それは申し訳なさすぎます!」
「ジゼルさんが自分のために使ってくださいよ!」
「いいのよ。欲しい物もないし、二人の役に立つなら嬉しいわ」
「いや…でも…」
「うん…」
ジゼルの口ぶりだと本当に、貰った給金を丸々渡してきそうだ。頷けないヴィッキー達と、金にまるで執着のないジゼルとで、しばし攻防が続いた。話し合いの末、給金の管理をヴィッキーに任せるという折衷案で落ち着いたのだった。
ユリウスが所有する屋敷のはずだが、肝心の家主はあまり帰ってこない。ゆえに、主人が帰ってくるという先触れが届くと、使用人は競うように歓迎の準備を開始する。変わらず過ごしていたのはジゼルくらいである。
ところが、午後の鍛錬を始めようとしたジゼルは、使用人達に捕まってしまった。彼女が呆けている間に、上等なドレスに着替えさせられ、髪を梳かれ、舞踏会に参加するような格好にさせられた。どこから出てきたドレスかと思えば、ユリウスの亡き母のものらしい。それを聞いた彼女はぎくりと身を固くした。
「…えっ?王妃様の形見なの?」
「大丈夫です、大丈夫です。よくお似合いですから!」
「ユリウス殿下から、この屋敷にあるものは自由に使って良いと言われておりますので!」
恐縮しきりなジゼルに、使用人達はぐいぐい迫ってくる。
「紅茶はわたくし達がお淹れして、お持ちします。ジゼル様にはポットからカップにお注ぎする役目をお願いいたします」
「ポットの持ち方はこうです。ここを持つと火傷しますので、お気をつけください」
「難しければ、レモンを浮かべるだけでも構いませんからね」
相槌を打ちながら聞いているジゼルだが、内心では優秀な使用人達が給仕する方が良いのではと不思議に思っていた。
鈍い彼女はさておき、使用人達はユリウスの言動に興味津々だった。未だかつて、彼が妙齢の女性を屋敷に招き入れた事はなかったため、使用人達があれこれと深読みするのも自然な流れである。彼らは飽きる事なく、毎日同じ話題で盛り上がっていた。
そういう訳で、ユリウスが屋敷に帰ってくると聞き、ジゼルを身綺麗にして二人きりにさせようと気を回しているのだ。
無論、周囲の思惑など知りもしないジゼルは、受けた指示をその通りこなす事だけに集中していた。丁寧に教えてくれた彼らが、恥をかくことがあってはいけないからである。
「手際が悪くて申し訳ありません」
「いいや。ありがとう」
「このドレス、王妃様の形見とお聞きしました。お借りしてしまって大丈夫でしたか?」
「せっかく仕立てたのだから仕舞われているより、着てもらえたほうが母上も喜ぶだろう」
使用人達のお節介は、ユリウスに全て見抜かれていた。その上で彼は素知らぬ顔をしてカップを傾けるのだった。
「冷めてしまう前に、貴女も飲むといい」
「ではありがたく、いただきます」
紅茶を飲んでいるだけで、これほど様になる男はいないだろう。彼の目に止まろうと必死な令嬢達がいたならば、うっとり見惚れていてもおかしくない。だというのにジゼルときたら、紅茶の湯気を眺めるばかりだ。
「そういえば剣を…彼に渡したそうだな」
「あ、はい」
ユリウスは一瞬、黙り込んだ後で小さな咳払いをした。
「……私も、貴女から何か贈られてみたいな」
「え?」
目を凝らせば、彼がほのかに赤面しているのが分かっただろう。しかしジゼルの方向からでは逆光になっており、彼の顔色が変化しても気付きにくかった。
「殿下に差し上げられるような物は、持ち合わせていないですよ」
ジゼルは小首を傾げる。彼女の手持ちで高価な物と言えば弓しかないし、はいどうぞと渡すこともできない。第一、王太子が欲したものならジゼルに頼まなくても、苦労せず手に入るだろう。
「…重要なのは物ではないのだが」
今まで女といえば、勝手に擦り寄ってくるだけだったユリウスは、ジゼルが相手となると奥手になってしまうらしい。今し方の台詞も、声量が足りなくて彼女まで届いていなかった。
「機会があれば今度は私に、我が国を案内させてほしい」
それは彼なりに精一杯のお誘いであったのだが、ジゼルは驚きで目を丸くするだけだった。
「お忍びで散策するということですか?護衛役としてお供できるよう、対人戦闘も復習しておきます」
優美なドレス姿でつい忘れてしまいがちだが、彼女も手練の兵士である。思考をすぐに戦いの方面へ持っていけるのも、ある種の才能かもしれない。ユリウスは遠い目をしながら、これは成功なのか失敗なのか、考え込んでしまうのだった。




