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 ユリウスは国内でも人気の王太子である。麗しい容姿もさることながら、次々と勝利を得ていく勇ましさは、老若男女の人気を攫っていた。行軍の途中に立ち寄る街では、彼の功績を讃えるために多くの民が集まる。ついでにお礼と謳い、食べ物を差し入れてくれる事もしばしばあった。

 しかしながらこれは、あくまでも集落がある場所での話である。山中を進んでいる時に、差し入れを貰うことは殆どない。鬱蒼とした山に人間は暮らしていないからだ。出くわすこと自体が稀だった。


「なに?狩人だと?」

「獲った鹿をぜひユリウス殿下に差し上げたいと申しております」

「一人か?」

「はい。そのようです」


 太陽が頭の真上に来た頃、ユリウス達は山の中で小休憩をとっていた。昼食はこれからであるため、食糧が増えるのはありがたい事だった。だがユリウスには、いささか腑に落ちない点があった。

 この辺りで盛んなのは農耕であって、狩猟ではない。狩りに出るとしても害獣の駆除のためだろう。であれば単独で山に入ることはしない。数人がかりで仕留めに行くはずだ。


「…まあいい。せっかくの厚意だ。ありがたく受け取ろう」


 ユリウスは狩人に礼を伝えに行くために、椅子から立ち上がるのだった。


 ユリウスが来たことに気付いた兵士達は、道を空けて跪く。狩人だという男も、片膝をついていた。


「差し入れをくれたのは貴殿か」

「はい」


 低い声の持ち主だった。何日も山にこもっていたのか、靴や衣服が擦り切れている。それを隠すためにすっぽり被っている外套も薄汚れていた。だが背中にある弓だけは磨かれており、やけに目立って見えた。


「どうもありがとう。皆で頂く。ところで、なかなか良い弓を持っているな。見せてもらっても構わないか?」

「……はい」


 ユリウスは弓を借り、観察させてもらう。柔らかな白色を基調とした弓だ。ぱっと見ただけでは分からなかったが、銀の百合の彫刻がある。高価な弓にありがちな飾りは控えめで、余分な重みを加えないように配慮されているようだ。

 じっくり眺めるユリウスへ、狩人は予想だにしないことを言い出すのだった。


「オレは剣も得意です。王太子サマの軍隊に入れてください」


 驚きと共に狩人を見下ろせば、こちらを探るように睨まれていた。眼光の鋭さが普通ではなかった。これはただの狩人でない。だとすればいったい何者か。

 ユリウスが警戒を強めた時、背後から息を呑む音が聞こえた。


「…!その弓…っ」


 彼が振り向くと、そこには限界まで目を見開いたジゼルが立っていた。


「この弓がどうかしたか?」


 彼女はユリウスの問い掛けには答えず、一足飛びに駆け寄ってきた。その様子からしてユリウスを無視したのではなく、単に彼の声が聞こえていなかったのだろう。それだけで彼は弓の持ち主が誰か察した。銀の百合とは、分かってしまえば単純な話である。

 片や、ジゼルは弓を凝視したまま、瞬きもせずに硬直していた。しかしややあって、ゆっくりと顔の向きを変える。彼女の視線は、跪いている狩人に注がれた。

 伸びっぱなしになった黒髪から覗く、剣より鋭利な双眼と視線が交わる。ジゼルは自分が見ているものが信じられなかった。


「……ロ…ッ…」


 ロルフ、と。呼ぶつもりだった彼女は、咄嗟に出かかった声を喉の奥へ押し込んだ。彼の瞳は「黙ってろ」と言っている、そう感じ取ったからである。

 ジゼルの心臓はめちゃくちゃに鼓動を打っていた。こめかみに鈍い痛みを覚えるほどだった。


「…貴女の知り合いか」


 ようやく彼女の耳は、ユリウスの声を認識する。問いではなく確認のような言い方であった。

 ジゼルは彼を仰ぎ見て、そのまま頷いてしまいそうだった。頭の中が真っ白で、考えをまとめたくても、すぐに思考が散らかっていく。けれどもジゼルは辛うじて踏み止まる。

 ロルフがアザン国の兵士だと判明するのは非常にまずい。それだけは確かだった。つい最近まで敵対していた人間が潜り込んできたとなれば、真っ先に暗殺が疑われるだろう。王太子に刃向かうことは、裁定を待つまでもなく死罪である。


「……よく似た弓を、見たことがあるので…驚いてしまっただけです」


 ジゼルは必死に言い訳を捻り出した。しかし彼女はいつも話すのが遅いため、いっそう辿々しい話し方になっていた。

 当然、ユリウスにも取り繕った言葉であること看破されていた。言葉よりもまず、彼女の感情が大きく揺れたのをユリウスは見た。狩人を名乗る男と既知の間柄であることは明白だった。ただ、どこまで親しい間柄かまでは分からない。

 そこでユリウスは敢えてひと芝居打つことにした。


「なるほど。詳しい話は寝所で聞こうか…もちろん、二人きりで」


 うっとりしてしまうような笑みを浮かべたユリウスは、ジゼルの腰を抱きながら唇を重ねたのである。ほんの一瞬の出来事であったため、ジゼルは何をされたか理解できていなかった。

 ちょっとした興奮に湧いたのは、見物していた兵士達だ。


「…珍しいな。殿下がああいう事をするのは」

「ああ。俺は初めて見たぞ」

「情婦ってのは本当だったんだな」

「まあ、あれだけの美人だしな」


 遅まきながら今のは接吻だったと理解した彼女は、気まずげに顔を背けた。ユリウスの顔が見れないというより、どうしてかロルフに見られたのが困ると思ったのだ。

 だがしかし、そんな事も言っていられなくなる。なんとロルフが突如、剣を抜いてユリウスに向かってきたからだ。


「殿下をお守りするんだ!!」

「そいつを取り押さえろ!!」


 付近にいた兵士がロルフの前に立ちはだかったものの、彼は吹き飛ばすように一蹴してしまう。


「どけ!!雑魚が!!」


 並の兵士では全く歯が立たず、ニックが応戦すべく前に出た。だが補佐官を務める彼もってしても、目を血走らせたロルフは止められなかった。

 狂犬よりも凶暴な男を止めたのは、ジゼルであった。ロルフの刃が振り下ろされる寸前に、ジゼルは彼に抱きつくようにして体を張って止めたのだ。

 無論、ロルフの力ならば彼女を引き剥がすくらい簡単なことである。でも彼は、どれだけ怒り狂っていてもジゼルに手荒な真似はできなかった。できるのは精々、言葉で退くよう怒鳴るだけだ。


「邪魔するな!この野郎を叩き斬ってやる!!」

「ロルフ…ッ、やめて……」

「軍律なんて馬鹿正直に守ってんのはオレらの隊くらいだと思ったが、やっぱりそうじゃねぇか!」


 ジゼルが無抵抗のまま唇を奪われるのを直視させられ、ロルフは怒りのあまり頭がおかしくなりそうだった。だけどその時点では、まだ剣の柄を握ってはいなかった。剣を抜いたのは「情婦」という単語を耳が拾った時だ。甚だしい厭悪が、全身を炎の如く駆け巡った。

 ロルフが単身でここまで来たのは、言うまでもなくジゼルに会うためだった。とにかく無事を確認したかった。彼女を助け出す方法は後で考えれば良いと思い、勢い任せにアザン国を出てきた。正規の手続きは全部無視したので、もう帰ることもできない。だが母国に未練も忠誠も無いし、元々ロルフには帰る家なんか無かった。またジゼルの横で飯が食いたい、その一心のみで進んできた。

 王太子が連れ去った事は聞いていたので、そいつを追えば彼女が見つかると信じ、ロルフは見知らぬ国を彷徨い続けた。そうしてやっと見つけたのに、陰に日向に大切に守っていた彼女が慰み者にされていたなんて。どうして許すことができようか。相手を切り刻んでも足りないくらいだ。


「剣をおさめて…っ、殺されてしまうわ…!」


 ロルフの心を知らないジゼルは、彼がここまで怒る理由が分からなかった。ただ分かるのは、彼が途轍もなく怒っている事と、切先がユリウスを掠めようものなら処刑されるという事だ。


「どうでもいいわそんな事!!スカした野郎を八つ裂きにするほうがよっぽど、」

「どうでもいいはずないでしょう!!」


 初めてであった。彼女から絶叫じみた声を聞くのは。

 途端にロルフの動きがぴたりと止まる。彼はそろそろと銀色の頭頂部を見遣った。力の強い男を押さえるのは重労働だったようで、華奢な肩が上下していた。


「せっかく会えたのに…命を粗末にしないで…っ」

「………」


 切実に請われたロルフは大人しく剣を捨てた。

 抵抗の意思が消えたと見るや、ユリウスは部下に捕縛を命じる。


「その男を鎖で縛り、牢に入れろ」


 もうロルフは暴れなかった。互いに無言だった。だが彼が連れて行かれるまで、二人の瞳は互いを見つめていた。

 ロルフがいなくなると、ユリウスは持ったままだった弓を差し出してきた。


「貴女が持っているといい。これは貴女の物だろう」


 そう言って、彼は弓をジゼルの両手に乗せる。アリシアに貰った弓が、思いがけず手元に帰ってきた。それは喜ばしい事のはずなのに、ジゼルは引き結んだ唇を震わせるだけだった。

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