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ヤドア国の決起は始まる前に潰えた。滅亡とまではならなかったが、現在の情勢が続くなら、国は緩やかに衰退していくだろう。ニフタ国が平定する日も近いと思われる。しかし今回の戦いはここまでだ。
その後の警戒にあたるのはユリウスの軍ではなく、彼の指示を受けてやってきた別の軍である。ユリウス達は引き継ぎを終え次第、前線から撤退し、ようやく帰途につくことが叶ったのだった。
しかし戦場から王都までは遠い。軍の中には負傷兵もいるので、行軍の足は遅かった。こればかりは致し方ない。兵士達が寝泊まりできるような街は近辺に無く、今夜も野営である。ジゼルは地面に座り込み、焚き火に当たっていた。彼女の周りには誰もおらず、火の爆ぜる音がだけがよく聞こえた。
「ああジゼル殿。殿下はどちらに行かれたか、ご存知ないですか?」
追加の木を焚べていたところへ、ニックが通りかかった。
「今しがた席を立たれましたよ」
「しまった…入れ違いになってしまいましたか」
「少し待ってみたらいかがですか?」
「そうですね。ではここで待たせてもらっても?」
「どうぞ」
彼もジゼルに倣って地面に座るのだった。
「ニックさんが薬を手配してくださったそうですね。おかげさまで炎症も起こさず、塞がりました」
「お役に立てて良かった。戦いはひと段落しましたので、焦らず完治させてください」
「色々とありがとうございます」
ユリウスを待ちながら、ぽつぽつと会話を続ける。ニックは気配りのできる男であるため、ジゼルのゆっくりな話し方にもさりげなく調子を合わせていた。
「…そういえばジゼル殿に聞きたいことがありました」
「何でしょう?」
「もし自分が倒した敵の家族や友人から、憎しみをぶつけられたとしたら…ジゼル殿はどうしますか」
ニックの口調は穏やかなままであった。けれども、話の毛色が変わったのは明らかで、ジゼルはいっとき口を噤んだ。彼女は頭の中で考えた事を話し出すまでに、少々時間を要する。
やがてジゼルはどこか慎重に言葉を紡いだ。
「…人殺しだと責められる時、わたしは何も言い返すべきではないと思います」
「それは謝罪もですか」
「心のこもっていない謝罪は不誠実ですから」
いかなる正義を謳おうとも、人殺しは正当化できない。だが兵士には戦う力の無い者が殺されないために、前線で立ちはだかる務めがある。そしてジゼルは、親友の幸せを守りたいという願い自体が悪だと、思ったことはない。
反省と改善が見られない人間から謝られたところで、相手の憎しみは増長するだけだ。ならばあらゆる憎悪は、逃げずに受け止めるべきだとジゼルは考える。
「では…死をもって償えと言われたら、ジゼル殿はそうすると?」
「はい。先に命を奪ったのはわたしです。言い訳ができる立場ではありません」
「…そう、ですか」
ニックは何かを言いかけたがそれは飲み込み、別の言葉を絞り出した。
「ジゼル殿のおかげで、俺も答えが見出せる気がします」
柔らかく笑いかけられたジゼルは、不思議に思いながらも小さく会釈する。そこへユリウスが戻ってきた。ジゼルは静かに立ち上がって、後ろの天幕へ入っていったのだった。だから彼女は、その後に交わされた会話の内容を知らない。
「……どこから聞いておられました?」
「離れたところで待っていたのでな。最後以外は途切れ途切れにしか聞いていない」
「殿下でも盗み聞きなさるんですね」
「大事な話をしている様子だったのに、踏み入るのは無粋だろう。私はてっきり友人の件を彼女に伝えると思ったが」
ニックには新人時代から切磋琢磨してきた友がいた。しかし先だってのアザン国との戦争で、友は戦死した。矢が右眼から頭を貫いたことによる即死だった。友を殺したのはどこの誰かニックは調べて回り、ジゼル・リドガーという弓使いに辿り着いたのである。
ところが、友の仇は唐突にニックの目の前へ現れた。あろう事か、お仕えする主人のユリウスが連れてきたのだ。調べて知った名前と姿が結びついた瞬間に、ニックは友への哀悼と復讐の念が一気に湧き上がった。それでも主人の理想のために、ニックは今日まで耐えてきた。
若くして散った友。敵とも手を取り合う未来を願う主人。復讐か容赦か。両者の間でニックは苦しんでいた。見えないところで拳を震わせながら、微笑を浮かべたりもした。政治上の事情により彼女を殺すのが難しいなら、ありったけの怨念をぶちまけようかとも思った。
「そうするつもりでいたのですが……やめました」
ジゼルはニックの友を殺した。でもニックの手だって血で汚れている。兵士ならば皆そうだ。自分の事を棚に上げて、他人を責めるのは滑稽である。
そして彼女には、友が敗れるのも無理はない程の才覚があった。その凄腕で友を苦しませることなく逝かせた。彼女は表情に出さないだけで、贖罪の気持ちを忘れた訳ではない。それが分かったから、ニックは復讐を諦める決心がついたのだ。
「君には辛い思いをさせたな。すまなかった」
「良いんです。あいつは無類の女好きでしたから、自分を倒したのがジゼル殿だと知ったら、きっとだらしない面を晒していたでしょう」
楽しいことが好きで、ふざけたことを言ったりやったりしていたニックの友。彼の茶目っ気にニックはよく振り回されたものだ。もし彼が今も生きていたら、興奮気味にジゼルを口説いていたに違いない。その光景が目に浮かび、笑みがこぼれそうになった。けれど決して叶うことがない切なさも同時に込み上げ、ニックの笑いは中途半端なまま止まってしまうのだった。
翌日。ニックは昨日までと変わらない、穏やかな調子でジゼルと挨拶を交わしていた。わだかまりは簡単に消えてくれないだろう。しかし後ろを振り返れば真っ黒な闇があるのみ。だから生きている者は、明るい光が見える前を向かなければならない。
(ジゼル殿には、殿下の理想の先駆者になってもらいたい)
亡き友はユリウスの語る理想について「国境が無くなったら、大陸中の美女と会いたい放題だなぁ!」と述べていた。女好きだった彼らしい、俗っぽい台詞だ。理想が現実になる日を見ることができなかった友のため、ニックは主人とジゼルに希望を託すことにした。
元は異なる国籍の二人が共闘し、明るい未来を切り拓いていく道程を、亡き友に代わり自分がしかと見届けよう。ジゼルと向き合うニックの胸裏には、友を喪って以来の安寧が訪れていた。




