18
ユリウスの父が治めるニフタ国は、東西南北を敵国に囲まれた地理となっている。
北にヤドア国、
南にヨトバ国、
東にギデル国、そして西にアザン国がある。
なかでも北のヤドア国は、少々複雑な事情を抱えていた。五年前に起きた内乱により国が分裂し、その半分をニフタ国が吸収。内乱に乗じて領土を奪った形となったため、北方は今なお混迷し、完全な平定には至っていない。
しかしアザン国と同盟を結んだことにより、状況は刻々と変わっていくだろう。今まで西側に割かれていた兵力を、他方へ回すことができるのだ。ユリウスは格子越しにジゼルへ語りかけてきた。
「貴女には私の軍に加わってもらいたいと考えている」
捕虜となったジゼルは自由を奪われ、王都へ戻るユリウスの軍と行動を共にしていた。彼女以外の捕虜は母国に帰ったため、実質独房のようであった。何をする訳でもなく、時間が過ぎるのをぼんやりと待つ生活が続いていたのだが、数日ぶりにユリウスが顔を見せたかと思えば、先の発言をしたのである。
ジゼルは眉を顰めた。相手が王太子でなければ、正気ですかと問うていただろう。ほんの半月前まで、殺すか殺されるかの戦いをしていた相手だ。今日から味方になれと言われて、快く頷ける者などいない。仮にジゼルが了承したとしても、ニフタ国の兵士達が受け入れてくれるとは思えなかった。
「…わたしはもう戦うつもりはありません」
ジゼルが戦ってきたのは、親友の幸せのためだ。アザン国から戦場が無くなった今、彼女が戦う理由も無い。これ以上、誰かの命を無闇に奪いたくはなかった。
頷こうとしない彼女を見下ろすユリウスに表情は無く、とても冷たく見えた。
「頷かない場合は貴女を生涯、牢屋に繋いでおくしかない。そこでの待遇も保証はできないぞ」
「死ぬ覚悟も、死ぬより辛い目に遭う覚悟もできています」
どんな脅しにも屈しない意思を、ジゼルははっきり表明した。王太子を前に堂々した態度をとった事は、ユリウスを感心させた。彼は少しだけ口元を和らげるのだった。
「私とて貴女を痛めつけたいなどとは思っていない。全て明かす前に返答を求めた事は謝ろう。どうにも私は結論を急ぐ節がある」
「……?」
「とりあえず場所を変えようか。協力を求める話をするのに、ここは適さない」
こうしてジゼルは一旦、牢から出された。ただし手枷は嵌ったままである。
ユリウスは自分用の天幕にジゼルを連れて行った。しかし中へは入らなかった。机と椅子が外に出してあり、そこへ腰掛けるよう促された。
ジゼルは簡素な木製の椅子に座る。見張りの兵士もおらず、近くに立っているのは補佐官と思しき青年が一人だけであった。
「さて…まずは我々が掲げる大義について語ろう」
ユリウスはそんな風に口火を切った。
「端的に言えば『始まりに戻す』という事だ」
端的すぎてジゼルは全く意味が分からなかった。首を捻る彼女の反応は、ユリウスの予想通りだった。
「そもそも何故、我々は戦争をしている?」
「領土を守るためです」
「領土とは、何を基準に決めている?」
「…国境ではないのですか?」
「では国境とは何だ?」
いきなり始まった問答に、ジゼルはたじろいだ。国境とは何かと問われても、字の通り国と国の境目のことではないのか。自分が生まれる前から戦争があったように、国を隔てる境界線は当然のようにあった。疑問に感じた事さえ無いのだから、答えだって持っていない。
「奇妙だとは思わないか?我々は話す言語も同じ、主食も同じ、肌の色も同じだ。それが国境という、目に見えない境界線によってニフタ人やアザン人に変わる。見えもしないもののために、殺し合ってきたのだ。同じはずの民族が何百年も」
「……」
「かつてこの大陸にあったのは、一人の王が治める一つの国だ。だが最初の王が死んだと同時に、戦争の歴史が幕を開けた。一つだった国が分裂し、合併し、また分裂していく。その度に大勢の命が失われる……いい加減、我々は変わらなくてはならない」
「…つまり『始まりに戻す』というのは、今ある五国を一つの国にするという事ですか」
ユリウスは「そうだ」と首肯した。国を統合する理想を説いたのは、ユリウスの祖父だという。しかし時間の猶予が無かった彼の祖父は、次の世代に希望を託した。それをユリウスの父である現ニフタ国王が引き継ぎ、実現への道を進んでいる最中なのだ。
ジゼルのいた戦場にこれほど壮大な構想が絡んでいたとは知らず、彼女は気を呑まれてしまう。
「話し合いで解決できるなら、父上も私も初めからそうしている。しかし国政は複雑に絡まりすぎて、力尽くで黙らせる以外の方法が無いのが現状だ」
だがそれも致し方ないとユリウスは言う。領土を広げるため、あるいは国境を守るために散々、血を流してきたのだ。今さら幕引きだけ綺麗にしようとは虫が良い。
「戦争を終わらせるために戦争をする。酷い矛盾だ。大義を掲げたところで、我が国が侵略者であることに変わりはない。だが、すべてを承知で私はやる。遥か昔の祖先が見ていた一つの国を、我々も見るために。そしていつの日か…戦争を知らぬ世代で、国が満ちることを願っている」
「……」
「貴女に協力を求めたのは、あれほどの腕前を朽ちさせるのが惜しいからだ。要は、我が軍の戦力強化のためだな」
「わたしより武力や知力に優れた兵士は大勢いたはずです。たとえわたしが加わったとしても、戦力の底上げになるかどうか…」
すると、ここまで滔々と語っていたユリウスが口を噤んだ。彼の目はジゼルをじっと見つめている。
やがてユリウスは徐に口を開いたものの、どこか覇気のない声色になっていた。
「…貴女の矢を受けてから、私は……貴女のことが気になって仕方がない。だから目の届くところに置いておきたいのだろうな」
その台詞を聞いて目を丸くしたのは、控えていた補佐官である。聞き方によっては、ユリウスが口説いているように捉えることができてしまう。いやむしろ、王太子をよく知る補佐官に言わせれば、口説いているとしか思えなかった。
これはまことに珍しい事だった。補佐官が見てきたユリウス王太子は、国民に心を砕く賢人であるけれど、恋愛沙汰にはこちらが不安になるくらい無関心だった。世継ぎの事は考えているだろうが、色目を使う女には毛ほどの興味も示さず、婚約者候補にさえ自ら近寄ることもしなかった。そんな王太子が「貴女が気になる」などと、直接的な表現を使うとは。
補佐官も瞠目していたが、ジゼルもまた目を瞬かせていた。ところが彼女はユリウスをも驚かせる発言をするである。
「わたし、監視がなくても殿下を害すことはしません。恨みがある訳でもありませんし…」
「……」
「……」
補佐官は危うく「そうじゃない」と訂正しそうになった。反対にユリウスのほうは言葉が見つからないらしい。
まさかユリウスの告げた「気になる」の中身が、殺意の意味にとられるとは予想していなかった。補佐官は声を飲み込む代わりに頭を抱えたくなった。そういう意味にとれないことはないが、そういう雰囲気ではなかっただろうに。
えも言われぬ微妙な空気が二人の間を漂う。しかしユリウスはすぐに気を持ち直した。
「それは良い事を聞いた。我々に恨みが無いのなら、是非とも力を貸してほしい」
「……返事はもう少し、考えさせてもらえませんか」
「王都まではまだ日数がかかる。それまでに返事を決めてくれ」
王都を目指すのは、ニフタ国王に報告へ上がるためだった。しかし行き先は急遽、変更となる。北方にて不穏な動きあり、との早馬が飛び込んできたのだ。




