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 病院は独特な匂いがする。

 ロルフがこの匂いを覚えたのは、二年と少し前のこと。彼がまだ兵士ではなく、うす汚い泥棒をやっていた頃の話である。


 ロルフは自身の出生について、ほとんど何も知らない。親の顔も、どうして死んだのかも知らないし、産まれた場所も日付も分からない。ロルフは薄暗い路地裏に捨てられていた赤子だった。ロルフという名前すら誰がつけたのか定かではない。いつからかそう呼ばれていたので、自分の名として使うようになっただけだ。

 世界に不必要な人間は一人もいないなんて、所詮は綺麗事である。この世の中には、呼吸をしているだけで疎まれる人間が存在するのだ。ロルフは平凡な暮らしをする人々から「ドブネズミ」やら「汚物」呼ばわりされ、行く先々で羽虫のように追い払われた。そうやって世の中から弾き出されても、頑丈だった彼は野垂れ死ぬことができなかった。


 ロルフには愛情を注ぎ、庇護してくれる大人などいなかった。いたのは碌でもない大人ばかりだった。彼らから教わったことといえば、他人から奪って生きながらえる術のみ。真っ当な人間に育つはずもなく、彼自身、碌でもない大人になっていった。

 ある晩、ロルフは軍隊の兵糧を盗んだ。街のほうが美味いものは多いけれど、その時は猛烈に腹が減っていた。軍は流石にまずいと分かっていても、我慢できなかった。もう何日も川の水だけで飢えをしのいでいたのだ。

 いつものように手早く忍び込んで、さっさと退散するつもりだった。しかし空腹で動きも判断力が鈍っていた上に、駆けつけたのが精鋭の兵士達だった事で、ロルフは捕まってしまった。派手に暴れる彼を大人しくさせるため、兵士達は少々強引な方法をとらざるをえなかった。気絶させられたロルフは生まれて初めて病院に運ばれ、独特な匂いも初めて知ったのである。

 そこから、碌でもない泥棒でしかなかった彼の人生が大きく変わるのだった。




「やっとお目覚めか?お前、一週間も気を失ってたんだぞ」


 独特な匂いを嗅いだロルフは薄目を開けた。ここが病院なのは分かったが、現実か夢の中かの区別がつかなかった。何やら声が聞こえた方へ目だけを動かすと、頭に包帯を巻いた男がいた。バルビール隊の仲間だ。


「聞こえてるか?」


 軍隊の兵糧を盗んでおきながら、ロルフが罰せられることはなかった。フランシス・バルビールがロルフの荒事に慣れた様子を見て、泥棒にしておくのは惜しいと言い出したのだ。兵士として従軍するならば、今回限り特別に見逃そうと言われ、ロルフは「飯が食えるならやる」と即答した。戦場で暴れるだけで、食事が貰えて金まで手に入ると聞けば、迷うほうが馬鹿らしい。そしてそのままフランシスの部隊に入り、やがて彼の息子であるフィンレーの小隊へ移ることになる。そこで彼女と……


「……っ!!」

「あっ!急に動くなって!」


 ようやくここが現実である事に気がついたロルフは、毛布を蹴飛ばす勢いで起き上がった。体に激痛が走ったが、気にしていられなかった。慌てた仲間達が彼を押さえようとするものの、傷だらけの体のどこに力があるのか、仲間達のほうが引きずられそうになる。




 下っ端兵士をやっていたロルフが、フィンレーの小隊へ移された理由は、盾兵に転向するためだった。フランシス直々の命令であったため、拒否権は無かった。とはいえロルフは詳細も聞かずに了解していた。食いっぱぐれなきゃ何でもいい程度にしか考えていなかったのだ。

 だがしかし、盾で守る相手と出会った瞬間。ロルフは呆けてしまって息が止まるところだった。

 大袈裟な話ではなく一瞬、荒野に白い百合が咲いている風景が見えた。なんたってこんなお姫様みたいな女が、血生臭い戦場にいるんだと奇怪に思った。だから「姫サマのお守りかよ。かったりぃ」なんて言葉が、口をついて出ていた。そんな投げやりな台詞を吐いたのに、返ってきたのはおっとりとした挨拶だった。


 ───お姫様ではないけれど、これからよろしくお願いします。


 ───ハイハイよろしく。アンタは何の心配もせず守られてろよ。


 ───わかったわ。


 その場にはフィンレーもおり、粗忽な口調を咎められた。この時から「コイツは好きになれねぇな」とロルフは直感していた。




 彼の直感は正しく、今もなおフィンレーのことは気に入らないままだ。


「病院で暴れるな」


 ロルフの態度や言葉遣いについて、こんな風に口うるさく注意してくるからである。


「…隊長サン自らお見舞いとは、感動で涙が出るぜ」

「思ってもいないことを言うのはよせ。寒気がする。そして寝ていろ」


 先の夜戦で負傷したのはロルフだけではない。大勢の兵士が動けないほどの怪我を負い、方々の病院へと運ばれていた。隊長であるフィンレーは部下達が伏せっている病床を回り、容態を確認しているのだ。今日はロルフ達がいる病院を見舞い、偶然にも彼が目覚めたところに居合わせた。


「元気そうで何よりだ。姫サマもさぞ喜ぶだろうよ」


 正真正銘のお嬢様が何故、武器を持って戦うのか。当然のごとく謎に思ったロルフは、顔を合わせたその日に質問していた。ジゼルは婚約者の無念を晴らすと語ったが、不思議なことにロルフには嘘にしか聞こえなかった。本当の理由を追及すれば、彼女は驚きつつもすんなり吐露した。

 親友の幸せを守りたいのだと知った時、ロルフは「ふぅん」とだけ返した。それも彼女には意外だったようだ。目をまん丸にした表情が面白かった。


 ───無謀だって言わないのね。


 ───守りたいものがあるから戦うのは普通だろうが。ただまあ、守ることが武器持って戦うのに直結するってのは、馬鹿みたいに単純だとは思うぜ?


 家族も友人も持っていなかったロルフには、縁遠い話である。だからこそ、きらきらした瞳で親友について語るジゼルのことが、一等輝いて見えたのかもしれない。


「………」

「なに黙ってやがる。隊長サンよ」

「…ジゼルは……いない」


 直後、ロルフの口から恐ろしくドスの効いた声が漏れた。


「……は?もういっぺん言ってみやがれ」

「彼女はもう戻らない。ニフタ国へ、連れて行かれたんだ…」


 フィンレーとて心中穏やかではなかった。幼馴染を置き去りにし、婚約者を泣かせてしまった。込み上げてくる思いを抑えるのに必死で、抑揚のない淡々とした喋り方になるのも、自分ではどうすることもできなかった。けれど彼の冷淡にもとれる態度が、ロルフを激昂させたのである。


「……ざっけんなよテメェッ!!!」

「やめろロルフ!!」

「隊長になんてことを!!」


 怒号と同時にフィンレーは頬を殴り飛ばされた。相手が昏睡から目覚めたばかりでなかったなら、頬骨が砕けていたに違いない。

 一切の手加減もせず殴りかかってきたロルフだが、一発では足りないらしく追撃の構えに入っていた。仲間達が四人がかりで彼を押さえ、隊長を守ろうと奮闘する。しかし大人の男が全力で押さえ込んでいるのに、気を抜いたら弾き飛ばされそうだった。


「もう戻らないだと!?じゃあなんでテメェだけのこのこ帰ってきてんだ!!」

「よせ!そんな言い方はあんまりだろう!?」

「ジゼル副隊長が連れて行かれたのは、隊長のせいじゃない!」


 仲間達が説き伏せるものの、ロルフは一つも聞いていなかった。彼は怒りの矛先をフィンレーに向け続けていた。


「テメェがどれだけアイツに命を救われてきたか、分かってんのか!?守られておきながら、用が済んだらあっさり捨てんのかよ!!」

「誰がそんな事をするか!!」


 隊員達は号令以外でフィンレーが声を張り上げるところを初めて聞いた。加えて、仮にも怪我人であるロルフに殴り返すなんて思わなかったのである。隊長達は息を呑み、恐々と二人を見つめていた。


「お前に何がわかるというんだ!僕が戻らねば、彼女の努力は全て無に帰す。僕が去る事を、彼女は望んでいたっ!」


 フィンレーの無事を泣いて喜んでいた彼女を前にして、ああする以外にできる事は思い浮かばなかった。

 フィンレーだって本当は……ひとりの男として、彼女の信念ごと守ってあげたかった。粗暴な泥棒には大人しく守られていたのに、フィンレーには守らせてくれなかった。盾兵が弓使いを守るのは当たり前なのだが、いつも不満に思っていたのだ。ロルフを毛嫌いしていたのは彼が礼儀知らずだからではなく、羨望せずにはいられなかったからかもしれない。

 押し隠していた鬱憤が爆発したフィンレーは、再び拳を振り上げる。しかし二人の衝突はここで終わった。反撃を喰らった時に、ロルフは昏倒していたのである。まだ動ける状態ではなかったのに、怒鳴って暴れたせいで限界を超えたらしかった。意識の無い相手に手を上げるほどフィンレーは非道になりきれず、息を吐いた後に医者を呼びに行くのだった。




 薄れゆく意識のなかでも、ロルフは苛立っていた。


(なんで体が動かねぇ…)


 肝心な時に寝こけていた自分に、ひらすら憤りが湧く。目覚めてさえいれば絶対に……たとえ命を落とすことになったとしても、彼女を独りで行かせはしなかったのに。

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