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 アザン国では降って湧いた終戦の報せに、各地がどよめいていた。無理もない。これまで一時的な休戦はあったにしろ、隣国から永続的な不可侵を約束されたのは、歴史上初めての出来事だった。もう戦わなくて良いと喜ぶ声よりも、良いように騙されているのではという懐疑的な声が多かった。

 だが一時的だとしても、戦争から解放された暮らしが訪れるのは確かである。国民達が諸手を挙げて喜ぶのも、時間の問題だと思われた。

 長きに渡る戦いはとりあえず終わりを告げた。にも関わらず、ひどく嘆き悲しむ者がいた。


「……私を驚かすための、悪い冗談なんでしょう…?」

「……」

「そうだと言いなさいよ!フィンレーッ!!」


 社交界を走る情報は市井より速い。一人の女兵士が人質となり同盟締結と相成った、という噂はその日のうちにアリシアの耳にも届いた。女兵士と聞いて思い浮かぶ人物なんて、一人しかいなかった。

 それでもアリシアはまだ諦めていなかった。婚約者の口から事実を聞くまでは、どんな噂も認めることはできなかった。彼女は一縷の望みをフィンレーにかけていたのである。

 しかし最後の望みは粉々に砕かれることとなった。アリシアの屋敷へ姿を見せに来たフィンレーの表情が、全てを物語っていた。


「おかしいわよ…っ、ジゼルは王族でもなければ、有力貴族の夫人でもないのよ!?どうして連れて行かれないといけないの…っ、どうしてジゼルが…ジゼルだけ…っ!」


 アリシアはフィンレーに縋り付きながら嗚咽した。兵士でなくともジゼルの置かれた立場の危うさは察せられる。母国であるアザン国が、ジゼルを守ることはない。同盟の条件をのんだ時点で、彼女は国から見捨てられたのだ。


「だから言ったじゃないっ、行かなくて良いって…っ!ジゼルの馬鹿…っ」

「すまない…アリシア……すまない」


 フィンレーは泣き崩れるアリシアを抱き寄せながら、謝罪を繰り返すことしかできなかった。




 いつまでも玄関先で泣き崩れている訳にもいかず、アリシアはフィンレーに支えてもらいながら自室へ移動した。人払いを命じたので、外の廊下からも人の気配は消えていた。


「……ジゼルは、何か言ってた?」

「君に謝ってほしいと。それから幸せになって、とも…」

「あの子らしいわね」


 泣き腫らした瞳から新しい涙が伝う。アリシアはフィンレーの方を見ずに、窓の外へ視線を向けていた。


「……私、リドガー家が大嫌いだったわ」


 前後の脈略が無い切り出しだったが、フィンレーは怪訝に思わなかった。彼女がジゼルの家族を嫌っていることは、以前から知っていた。


「あの家から出たら、ジゼルは幸せになれると思っていたのに…」


 アリシアが親友の入隊を後押しした本当の理由はこれだった。結婚でもそれ以外でも、理由は何でも良いから、ジゼルをリドガー家から遠ざける機会を、アリシアはずっと窺っていたのだ。


 初めて違和感を覚えたのは、ジゼルと出会ってから二年ほど経過した頃だった。

 アリシアは家庭教師から教わったことを、得意げに親友へ語ることがあった。子供じみた自慢である。ジゼルなら素直に「すごいわ」と拍手してくれるのを、幼いながらに知っていたのだ。案の定、ジゼルはアリシアの自慢話をちっとも嫌がらず、尊敬の眼差しで見つめてくれた。

 そんなやりとりが何度かあったのだが、次第にアリシアはジゼルが家で何も教わってないのではと感じ始める。だってジゼルが「わたしに先生ができるなら、アリシアがいいわ」なんて言ったのだ。当時の二人は六歳。貴族ならばもっと早くから勉強が始まっていてもおかしくない。それなのに彼女の口ぶりでは、まるで先生が居ないかのようであった。

 アリシアもまだ幼かったため、浮かんだ疑問を突き詰めることはしなかった。しかし違和感は成長するにつれて、大きくなるばかりだった。


 ジゼルが実家でどんな生活を送っていたのか。それを知ることができた時、最初の違和感から随分年月が経ってしまっていた。

 リドガー夫妻は育児のほとんどを放棄していたのだ。だが放ったらかしにしていたのは養子のジゼルだけ。我が子達には普通に教育を受けさせており、貴族らしく贅沢もさせていた。

 たちが悪かったのは、周囲や本人に悟られない程度の放置の仕方である。食事や着るものは不足させず、暴力も働かなかった。けれど蓋を開けてみればなんてことはない。テーブルマナーも碌に教えないまま食卓につかせ、着せるものは寸法の合っていないお下がりのみ。ジゼルのことは屋敷に住まわせている"だけ"だったのだ。


 ───難しいことはお兄様達に任せておけばいいの。


 ───私達が良いようにするから心配いらないわ。


 ───あなたはお利口さんだから最後でも大丈夫よね。


 彼らが優しい顔をするのは、ジゼルに我慢を強いる時だった。全てにおいてジゼルは後回しにされ、そのまま忘れられることもしばしばあった。何も教えなかったくせに、できない事をやんわり責めてジゼルに謝罪させるのが、アリシアは忌々しくて仕方がなかった。

 リドガー夫妻がジゼルにした差別はあまりに露骨だった。だが幸か不幸か、ジゼル本人だけは分かっていなかった。素直すぎるゆえに、言葉を額面通りに受け取るジゼルは、優しい言葉に包まれた悪意に気が付くことができなかった。


「…兵士になるなんて言い出した時に、もっと強く止めるべきだったのかしら」


 アリシアとフィンレーは、ジゼルの安全のために入隊を思い止まらせようとしたが、養父母は違った。一応、渋い顔は作っていたものの、恐らくそれは世間体を気にしての事だ。ジゼルの身を案じて表情を曇らせた訳では決してない。

 そんな家には居ない方がましだとアリシアは憤慨した。でもジゼルが連れて行かれてしまった今は、深い後悔だけが残る。


「…たとえ同じ時をやり直すことになっても、君はジゼルを引き留められなかったと思うよ」


 後悔に苛まれているのはフィンレーも同じだ。


「そうね…ジゼルが初めて言った我儘だったもの。馬鹿みたいなことでも、無謀なことでも、叶えてあげたいって思うわよ…っ」


 ジゼルは自分から主張することをしない子供であった。彼女の気持ちはいつも、周りの大人が決めつけ、押し付けていたからだ。聞き分けの良い子供になることを強制された彼女は、自分の欲しいものすら分からないまま大人になってしまった。

 そのことをアリシアは知っている。だから、ジゼルが初めて大人の意見を聞かず、自分の意思を貫こうとした時……たとえそれが「兵士になる」なんて突拍子のない内容でも、アリシアは手を貸さずにはいられなかった。

 顔を覆ってしまったアリシアを前にして、フィンレーは押し黙る。

 二人のことを彼はずっと見てきた。ジゼルにとってアリシアは友人であり、恩人でもあったことだろう。ジゼルは読み書きや計算の基礎、ダンスや裁縫の基本もアリシアから教わった。ジゼルが持っていた教本、文具、裁縫道具なんかはどれも、アリシアが譲ったものだった。だから幼馴染の入隊を知った時、驚きつつも頭のどこかで納得してしまう自分がいた。ジゼルは親友のためなら、どんな事でも一生懸命になるはずだと。


「ジゼル…どうなっちゃうのかしら…」


 フィンレーが返せるのは「分からない」という、情けない答えだけだった。  




 アリシアの涙が止まるまでフィンレーは横にいてくれたが、夜になる前には帰っていった。一人になりたいと、アリシアが告げたのだ。


「……私ね、あなたに謝りたいことがあったのよ」


 寝台で膝をかかえる彼女は、誰もいない薄闇に向かってぽつりと呟いた。


「……今回の戦いから戻ってきたら、伝えようと思ってたのに」


 アリシアはもう何度目か分からない涙を流す。泣きすぎたために鼻の奥も、目の縁も痛かった。

 彼女が伝えようとしていた事とは、ジゼルに対する嫉妬の気持ちだ。


 お姉さんぶっていた頃は良かった。アリシアは教える側という優越感があり、親友を可愛い妹分のように見ていた。世話好きな生来の気質と相まって、親切に接するのは少しも苦痛ではなかった。

 だが歳を重ねていくごとに、ジゼルは美しくなっていった。アリシアも容姿は整っているほうだが、ジゼルと並べば平凡に見える。とはいえ、それくらいなら羨む程度で済んだだろう。強い嫉妬を覚えたのは、フィンレーがジゼルに好意を抱いていたからだ。

 アリシアの他には誰も、フィンレーの恋心に気付いていなかった。彼は不誠実な行いを一つもしなかったし、ジゼルとの距離だって常に適切だった。だけどジゼルを見つめる彼の眼差しには、特別なものが見え隠れしていた。婚約者を見る時には無い、特別な何かが。フィンレーのことを本気で愛していたアリシアだからこそ、気付いてしまった。

 片やジゼルは、彼への恋情なんて微塵も持ち合わせていなかった。当然、フィンレーの恋心にもさっぱり気付いていなかった。そういうところもアリシアは憎らしく思えた。自分は醜い嫉妬が膨らんでいく一方なのに、親友はずっと綺麗なままだったからである。

 果てには親友に対し「あなたさえいなければ」なんて、最低な恨みを抱いてしまった。口では一番の親友を語りながら、アリシアの胸の内側は真っ黒に汚れていたのだ。


 だけど、自分自身は心底嫌いになっても、ジゼルのことは憎みきれなかった。アリシアの結婚式を誰よりも楽しみにして、アリシアの幸せを守るために命懸けで戦う親友を、どうやって嫌うと言うのか。

 友情と嫉妬の板挟みになっていたアリシアだが、近頃やっと洗いざらい白状することを決心した。けじめのつもりだった。懺悔して、たくさん謝って、今度こそ偽りなく親友となるために、必要なことだとアリシアは思ったのだ。


「なんで帰ってこないのよ…ジゼル…ッ」


 伝えたい事を、伝えられない。通い慣れた屋敷へ会いに行っても、そこに親友はいないのだ。

 アリシアは寝台に突っ伏して慟哭する。親友が可哀想でたまらない。今となっては嫉妬の気持ちなんか思い出しもしなかった。

 ジゼルは見せかけの優しさに騙され、家族から蔑ろにされ続けてきた。親友だと信じ、命を賭けて守っていた女は腹の底で酷いことを考えていた。最後は母国から見放され、敵国で独りぼっちだ。ジゼルの頑張りに対し、何一つ報われていない。

 アリシアが涙を流す時、慰めてくれる親友がいなくては、どうやって前を向けば良いかわからなかった。

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