12
ロルフと共に本部を目指すジゼルだったが、にわかに彼女の耳は聞き慣れた音を拾った。間髪を入れず、足元に矢が突き刺さる。防具も盾も無いのに、昼間のような矢の雨が降ればひとたまりもなかった。
「クソが!向こうはこっちの動きが全部見えてんのかよ!」
文字通り、死に物狂いで走った。体力にあまり自信のないジゼルの呼吸は苦しそうだった。「止まるなよ」と言われても返事が出てこず、頷くことしかできない。
ジゼルは懸命に走っていたが、彼女を引っ張る力が急に弱くなった。見れば、ロルフの左肩に矢が刺さっているではないか。彼女の顔色が一気に青くなる。
「ロルフ…ッ!」
「…っ、大した怪我じゃねぇよ」
そうは言うが、矢は彼の肩を貫通している。かなりの深手だ。位置からして、肺の一部を傷つけているかもしれない。
「毒矢だったら大変だわ…!」
「普通の矢だ。第一ちょっとやそっとの毒、オレには効かねぇ。やばいヤツは体感でわかる」
しかし最悪なのはこれからであった。矢を避けるように進んでいたら、敵兵に見つかってしまったのだ。敵は一人だったとはいえ、こちらは防具も無し、あちらは騎馬だ。分が悪すぎる。しかも頼みの綱であるロルフは負傷している。けれども彼は剣を抜き、果敢に斬りかかった。馬の足からは逃げ切れない。ならば倒すしかないのだ。
騎馬相手ではいかに不利でも、普段のロルフならば勝てただろう。しかし左肩に刺さる矢が、彼の動きを鈍くさせていた。苦戦を強いられるロルフを助けようとジゼルも剣を構えるが、他でもない彼から「邪魔するな」と怒鳴られる。それは仕方のないことだった。ジゼルの剣の腕前は甘く見積もって、平均の少し上くらいだ。助けに入ったところで、足を引っ張るのが関の山である。
「いいから逃げろ!!」
「…っ」
ロルフの怒号が飛ぶ。しかしジゼルの両足は、その場に縫い止められたように動かなかった。逆に動きがあったのは、馬上の敵兵である。女の方が弱いと考えた敵兵は、標的をジゼルに切り替えたのだ。
振り上げられた槍を見て、彼女は咄嗟に防御の構えをとる。だがそれは悪手であった。
「馬っ鹿…!」
馬上からの攻撃を、彼女の細腕で受け止められるはずがない。剣ごと叩き斬られて死ぬのがオチだ。
舌打ちをしながらロルフは地面を蹴った。ジゼルと敵の間に体を滑り込ませた際、体当たりするような格好になってしまい、ジゼルは尻もちをついていた。そうやって彼女の代わりに攻撃を受けたが、安定しない体勢だったため完璧に受け流すことができなかった。槍の一閃がロルフの胸部をかすめ、血が吹き出す。
「ロルフ!!」
防具を着ていれば浅く済んだ傷だ。血をぼたぼた流しながらも戦い続ける背中に向かって、ジゼルは悲痛な声を上げていた。
(このままじゃロルフが殺される…!)
彼女は足下に転がっていた、敵か味方かわからない兵士の亡骸から剣を抜き取った。そしてそれを騎馬兵に向かって投げたのだった。右手は自分の剣を握っていたので左手での投擲となったが、剣は敵の腕に命中する。敵が怯んだ隙を見逃さず、ロルフがとどめを刺した。
「ロルフ!怪我は…っ」
「手当てなんか後でもできる!早く馬に乗れ!」
乗り手を失った馬を奪い、二人はすぐにその場から離れる。ジゼルを前に乗せ、ロルフが手綱を持った。本部に辿り着くまで何度か弓矢で攻撃されたものの、ジゼルが傷を負うことはなかった。
ようやっと司令官のひとりを発見した時、その場にいた味方の兵士は、予想より遥かに少なかった。バルビール隊の隊員も三分の一残っているかどうかだった。
「副隊長!ご無事でしたか!」
ジゼルの姿を見つけた隊員達が駆け寄ってくる。ジゼルは彼らに、ロルフを救護班のところへ連れて行くよう頼んだ。本人は自力で行けると意地を張ったが結局、隊員に両脇を抱えられていった。
「フィンレーは?ここにいないのかしら」
「はい…誰も隊長の姿は見ていません」
ロルフの怪我も心配だったが、ここまで一度も姿を見ていない幼馴染の安否が心配で仕方がなかった。
「ただ、その…将官級の方々が姿を消しているそうで……」
軍を統率する立場にいる者達が、号令も無しに撤退することは無い。臆病風に吹かれた者がいたとしても、一人か二人だろう。何人も消息不明になるなんておかしい。ジゼルは眉を顰めた。
「遺体も見つからないので、捕虜にされたのではないかと噂が立っています。それと、俺もさっき知ったのですが…フランシス中尉も姿が見えないそうです」
隊員の説明を聞いていたジゼルは、口元を手で覆うのだった。
フランシス中尉というのは、フィンレーの父である。若い頃は最前線で活躍し、現在も軍師として従軍している。バルビール隊はフランシス中尉が受け持つ小隊の一つなのだ。
「ですので恐らく隊長は……父君を守るために戦い、共に行方知れずになったのではないかと、我々は思っています…」
上官と部下という関係になるゆえ、フランシス中尉は息子に厳しかった。フィンレーの能力ならば、もっと大きな隊を任せても良かっただろうに、彼が父から預かったのは五百人だけだ。十万をゆうに超える軍隊において、五百という数字はとても小さい。期待をかけられていないのではなく、期待しているからこそ我が子を優遇せず、着実に実力をつけられる道を示したのだろう。その証拠に、屋敷に帰れば仲の良い親子に戻っていた。フィンレーの剣だって父から教わったものだった。
上官であることを差し引いても、フィンレーが危機に瀕した父親を見捨てるわけがない。だから、隊員の予想はきっと間違っていないのだろう。
「そんな……」
「ジゼル副隊長!」
ジゼルは足元が崩れていくような感覚になった。実際、彼女はへたり込んでいた。隊員達がかわるがわる声をかけてくれたが、一つも耳に入ってこない。思い浮かぶのは、涙を流す親友の姿ばかりだった。
もしフィンレーが殺されてしまったら、アリシアに顔向けできない。何とかすると約束したのに。助けると誓ったのに。彼を守れなければ、いったい何のために兵士になったのか。
途轍もない絶望感に襲われたジゼルは、項垂れたまま動けなくなってしまった。本当に目の前が真っ暗になったのだ。色のない暗闇の中に、ぽつんと座っている感覚だった。フィンレーの亡骸を見たのではないのだから、絶望するのはまだ早い。そんな事は分かっているが、感情がついてこなかった。
フィンレーを取り戻すために戦いたくても、受けた痛手が大きすぎる。バルビール隊でさえ半数以上を失ったのだから、全体の被害はもっと大きいだろう。それに加えて、指揮を取る将官達も失った。ジゼルがひとりで敵国に立ち向かっても、無駄に命を散らして終わりだ。軍隊を再編して総攻撃に出るには、かなりの時間を要する。その間、フィンレー達が無事でいるという保証は無い。
「副隊長。後退命令が出ています」
「行きましょう。立てますか?」
「……」
ジゼルは酷い顔色のまま、のろのろと立ち上がる。立場に拘りなど無いが、フィンレーから任された副隊長の責任を放棄することはできなかった。
安全地帯まで後退を余儀なくされたアザン国軍は、残った兵士達の再編を急いでいた。ジゼルを含めたバルビール隊は、別の部隊へ組み込まれることが決まった。朝が近付き、空が白んでも、消息不明の者達の安否が判明することはなかった。
ジゼルはというと、救護所の隅に座りこんでいた。手当てを受けていたロルフが高熱を出し、意識を失ってしまったのだ。熱に魘される彼の傍らに付き添うジゼルは、沈んだ顔をしている。体は休息を必要としていたが、横になっても眠れる気がしなかった。
やはりロルフは重症だった。怪我は体のあちこちにあったが、肩を貫通した矢傷と、胸の傷が特に酷かった。人相と態度は最悪だが腕は良い、とは仲間内でのロルフ評判だ。彼はその確かな力で、ジゼルを守り抜いてみせた。
「…わたしとは大違いね。あなたはすごいわ」
荒い呼吸を繰り返すロルフへ、彼女はそっと声をかけた。もちろん、返事など無い。返ってくるなんて思っていないが、何か言わずにはいられなかった。痛いほどの静寂が、ひどく息苦しかったのだ。
フィンレーは姿を消し、ロルフも減らず口を叩けないほど衰弱してしまった。うずくまっている場合ではないのに動くことのできない自分が、ジゼルは心底情けなかった。
朝が来れば、また戦いが始まる。ここで一人の兵士が絶望していようが、軍隊には関係の無いことだ。ジゼルは重たい体を引きずって、整列に加わった。知らない隊員に囲まれ、なんだかとても心細い気持ちになる。入隊したての頃でさえ、こんな弱気になったことはなかった。
「ジゼル・リドガーはいるか!」
「……」
「ふ、副隊長。呼ばれていますよ」
「……」
「ジゼル・リドガー!いるなら出てこい!」
「副隊長!副隊長!呼ばれてますって!」
「…えっ?」
呼ばれているのに立ち尽くすだけだったジゼルは、後ろから軽く小突かれてやっと動いた。てっきり突撃体勢の命令がくるとばかり思っていたので、他の言葉は右から左へ流れていたのである。
「ジゼルはわたしですが…」
「ついて来い」
何も考えず上官の後をついていったが、司令部の天幕に入れと命令されたら、流石のジゼルも尻込みする。入隊してからこのかた、将軍がいるような所に呼ばれたこともなければ、近寄ったこともない。
ジゼルはひと呼吸おいてから、幕屋に足を踏み入れた。鈍い彼女でもすぐに感じ取れるほど、場の空気は重たかった。
「…この者で間違いないのか」
「フランシスの部隊で最も優れた弓使いと言えば、この者しかおりません」
自国の総大将、つまり我が軍で一番偉い将軍をこんな間近で見たのは、言うまでもなく初めてだった。けれどもジゼルは将軍の姿形より、交わされる会話のほうが気になった。
「…だそうだが?」
将軍の視線に釣られ、ジゼルも目を動かした。此処には将軍と対面するように座る人物がいたのである。
その人物は、非常に容姿端麗な青年だった。簡単に束ねただけの紫紺の髪は、女の髪より美しい。それに加えて、貫禄ある将軍とはまた違う威厳が漂っていた。椅子に座っているだけなのに気品すら感じられる。
「いかがかな、ユリウス殿下」
聞き覚えのある名にジゼルは硬直した。だってユリウスとはニフタ国の王太子で…敵国の総大将ではなかったか。どうして王太子みたいな大物が、こんなところで優雅に座っているのだ。軍の総指揮をとる者同士が机を挟んで対峙していたら、緊張で空気も重たくなるはずである。
「……貴女の名は?」
切れ長の瞳に見つめられ、ジゼルは息が詰まる心地だった。しかし、どうにか口を開いて名乗る。
「……ジゼル・リドガーと、申します」
「ではジゼル。私は昨日、危うく首を射抜かれるところだったのだが、貴女に覚えはないだろうか」
「……!!」
「その顔を見るに、あるのだな?」
確かに昨日、霧の中にいた敵に向けて矢を射った。だが敵の顔は知らない。見えていなかったのだから。
ジゼルは恐る恐る事実を伝えた。するとユリウスは僅かに目を見張ったのだった。
「…そうか」
敵国の王太子を殺しかけて、知らなかったでは済まされないだろう。ジゼルは死を覚悟した。
ところが事態は、思ってもみない方向へ転がっていくのである。
「アザン国の将軍よ。こちらの条件は全て伝えた。あとは貴公の返答次第だ」
「私の独断で決定することはできぬ。我が王に伝え、改めて返答を…」
「駄目だ。今この場で返答してもらう」
ジゼルを置いてきぼりにして、ユリウスと将軍は話を進めていく。ここへ呼ばれた理由もわからず、彼女は両手を握り締めながら立ち尽くすことしかできない。
「貴公の答えに、アザン国の命運がかかっていることを忘れるな」
ユリウスの眼光が鋭くなった。将軍は長い沈黙の後に、重たい口を開いたのだった。
「…………あい分かった。条件を受け入れよう」
内容は全くわからないが、それが苦渋の決断であったことはジゼルも察した。今この時、国を揺るがす程の重大な何かが決したらしい。固唾を飲むジゼルだが、次の台詞で更なる混乱を招くことになる。
「この娘は連れていくが、捕虜の解放はアザン王の書簡が届いてからだ」
「……」
「貴公の英断に感謝する。私もアザン王の寛大さを祈るとしよう」
「……」
将軍は黙り込んでしまったが、ジゼルは説明を求めたかった。王太子は娘を連れていくと言わなかったか。この場に娘と呼べるような人間はジゼルしかいない。どこへ連れていかれるのか。連れていかれた先でどうなるのか。そもそも何故ジゼルが選ばれたのか。
謎が謎を呼ぶばかりで言葉を失うしかなかったジゼル。彼女は自分が今日を限りにアザン国へ戻ることができなくなるとは、まだ知らなかった。




