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 ジゼルが覚えている幼少期の思い出は、ほとんどがアリシアとのものだ。色んな話をしたし、二人だけの秘密もいっぱい作った。きらきらした宝石のような記憶ばかりだ。

 でもアリシアの涙を見た日のことは、胸の疼きと共に思い出す。

 あれは、戦死したジゼルの婚約者の墓へ、花を供えにいった帰りだった。付き添ってくれたアリシアが、馬車の中で突然泣き始めたのだ。十歳を過ぎる前から泣いているところを見なくなったぶん、ジゼルの衝撃と動揺は大きかった。

 おろおろするだけのジゼルに、アリシアは何度も何度も謝ってきた。「泣きたいのは婚約者を亡くしたあなたなのにごめんね」そう謝られた。故人には大変申し訳ないことだが、ジゼルは親友の涙のほうがよほど辛くて悲しかった。


 ───フィンレーも、今はまだ訓練所にいるけど…いつか戦地へ行くのよね。


 フィンレーの実家、というより彼の父は現役の軍師だし、本人も兵士を目指すことに異論は無かった。彼が戦地へ行くのは、バルビール家に生まれた宿命だ。そんな分かりきったことを尋ねてきたアリシアの声は、哀れなほどに震えていた。


 ───彼も帰ってこなかったらどうしよう…怖いわ…ジゼル。怖くてたまらないの……。


 どうしよう、と問われてもジゼルは何と返して良いか分からなかった。フィンレーに行くなと頼んでも、聞き入れてもらえる可能性は限りなく低い。優しく宥められるのが目に見えていた。無責任な慰めの言葉など掛けられない。親友の涙を止める方法が思い付かず、ジゼルも一緒になって途方に暮れるしかなかった。

 しかし次のひと言で、ジゼルの迷いは跡形もなく消し飛んだのである。


 ───誰でもいい…彼を守って……っ。


 囁き声よりも小さな音だったと思う。ジゼルに言ったというより、無意識の祈りであったのだろう。けれどジゼルは確かに聞いていた。

 その瞬間に目の前が弾けて、道筋がくっきり見えた。親友の愛する人を死なせてはならない。彼が無事に帰って来たら、きっとアリシアに笑顔が戻る。


(誰でもいいなら。アリシアの幸せを守るのは、わたしでありたい)


 何故ならアリシアは、ジゼルのことを「一番」の親友だと言ってくれたから。その言葉はジゼルにとって、非常に価値ある宝石と同じであった。




 戦場を覆っていた霧は正午までに消えた。それから援軍も来てくれたため、前線を押し返すことにも成功する。こうして五日目の戦いもどうにか勝利で終わらせることができたのだった。

 霧の中で散り散りになっていたバルビール隊の面々も、ちゃんと野営地に戻ってきた。失われた人命は思っていたより少なかったようだ。もちろん、フィンレーも無事である。


「いつも助けられているが、今日という今日は本当に命拾いしたよ。ありがとう、ジゼル」

「あなたが無事ならそれでいいの」


 ジゼルが感じていた通り、フィンレーが剣を交えていた相手は、未だかつて遭遇したことがないほどの強敵だったという。強烈な一撃で剣を弾かれてしまったフィンレーは体勢を崩し、あわや胴体を斬られる寸前であった。しかし、ぎりぎりのところでジゼルの弓矢が敵の首を掠め、形勢逆転となったそうだ。

 結果的には上手くいったので良かったものの、制止をことごとく無視されたロルフは立腹の様子だった。自分は他人の指示を聞かないくせに、他人が自分に逆らうのは認めないらしい。野営地に戻ってくるなりさっさと食事を摂って、さっさと眠りに行ってしまった。


「それにしても凄かったよ。あんな霧の中で首筋を狙えるなんて、さすがだ」

「本当は眉間を狙ったのだけど…外したせいで逃げられてしまったわ」

「敵の逃走を許したのは、僕の力量不足だ。君のせいじゃない」


 むしろ標的の姿が見えていないのに、よくもまあ急所を狙おうと思えたものだ。フィンレーは驚嘆すると同時に、ちょっとだけ肩を竦めた。


「何はともあれ助かった。ゆっくり休んでくれ」

「あら、フィンレーはまだ眠らないの?」

「この後、軍議があるんだ」

「そう。お疲れさま。また明日ね」

「うん。おやすみ。ジゼル」


 幼馴染へ小さく手を振り、ジゼルは幕屋の中へ入っていった。ころんと横になって、深く息を吐く。目を閉じると戦場での出来事が浮かんできた。

 霧の中にいる敵へ矢を射った、すぐ後のことだ。気の所為だったと思うのだが、遠く離れた敵の視線を感じた。姿も見えない敵と、目が合うなんて馬鹿げた話である。でもなんだか妙に胸が騒つくのだ。


(それだけ強い相手だったということかしら…)


 だとすれば、今日以上の全力でもって幼馴染を守らなくては。ジゼルは決意を新たにして、枕に顔をうずめるのだった。




 その晩、久しぶりに夢を見た。

 ジゼルは戦場で眠る時、全くと言っていいほど夢を見ない。平気そうな顔をしていても、細身の体にかかる負担や疲労は大きいのだろう。横になるとすぐ眠気がやってきて、深い眠りに落ちてしまう。

 これは夢だと識別できたのは、ジゼルが見ている情景が過去に体験したものではなく、彼女が何度も思い描いてきた空想だったからだ。夢の中ではアリシアがフィンレーと結婚式を挙げて、二人とも幸せそうに笑っていた。眩い光に負けないような、輝かしい笑顔だった。自分の顔を見ることはできないが、きっとジゼルも笑っている。

 幸せな光景を眺めている、そんな夢だった。しかし彼女はふと、自分の隣に誰がいることに気がつく。

 

 隣の人物はいったい誰……?


 ジゼルはそこで目を覚ました。そして瞬時に飛び起きた。掛布を蹴り、着衣も整えないまま幕屋の外に出るなど、普段の彼女なら絶対にしない行いである。


「……何が…起きたの…」


 ジゼルは呆然と尋ねずにはいられなかった。幸せな夢は、夜襲の音によって儚く消えたのだ。

 彼女が目覚めた時には既に、野営地の中心部あたりから火柱が昇っていた。あちらこちらから、休んでいた兵士達の逃げ惑う声も聞こえる。まだ空は真っ暗で、寝入ってから大して時間は経っていない。敵が夜戦を仕掛けてきたのだ。

 だが夜戦は、仕掛ける側が不利とされる。ただでさえ暗闇という不都合のなか、敵の陣地で戦うことになるからだ。地形を知り尽くしている側が有利になるため、夜戦が起こることはごく稀であった。見張りの兵士は配置しても、誰もが「夜戦はあり得ない」と考えている。

 しかしその稀なことが現に起きてしまった。そして最も不可解なのは、軍の中心へ侵入されるまで「敵襲」の急報が轟かなかった事である。


「なにぼんやりしてやがる!」

「…!ロルフ…」


 状況についていけず立ち尽くしていたジゼルは、急に手を引かれてよろめいた。転ばないよう踏ん張って体勢を整えている間も、ロルフは足を止めてくれなかった。


「敵の攻撃がどこから来るのか分からねぇ。散って逃げたほうが見つかりにくい。隊の連中も本部を目指してる」


 中心まで入り込まれたら、ジゼル達がいる場所は敵に挟み撃ちされる格好になる。戦場のすべてが見えている訳ではないので仮定でしかないが、かなり不利な状況に追い込まれているのは間違いない。


「どうして緊急の伝令が来なかったのかしら」

「伝令どころか、見張りと争った形跡すら無かったらしいぜ」

「どういうこと?」

「手口は分からねぇが、どっかの時点で侵入されてたんだろうな。そんで、内側からやられたんだ」


 いったいいつから敵の潜伏を許していたのか。それを考え始めると背筋が寒くなった。


「過ぎた事をぐちぐち考えても仕方がねぇ。大将が倒されたら終わり。街に入られても終わりだ。ほら、アンタの剣。弓は無理だ。諦めろ」


 走りながらジゼルは剣を受け取った。アリシアが持たせてくれた弓を置いていくのは残念でならないが、取りに戻っては親友にこっぴどく叱られてしまうだろう。


「ありがとう。ロルフ」

「なにが」

「一目散に逃げないで、わたしのところへ来てくれて。あなたがいるから心強いわ」

「ぼけっと突っ立ってるのがウチの副隊長なんて、敵に知られたら恥ずかしいだろ」


 二人は己の直感を頼りに、敵の気配を避けながら走った。包囲されてしまうと逃走が困難になる。一刻も早く、散り散りに逃げている隊員と本部で合流して、立て直しを図りたいところだ。


「…フィンレーは軍議から戻ってなかったのね」

「生真面目な隊長サンの声が聞こえねぇってことは、そうなんじゃねぇか」


 フィンレーの性格上、自分の命惜しさに逃走する事はあり得ない。きっと冷静な声で、混乱する隊員達を鼓舞しているはずだ。そうでないならロルフの言う通り、この近くにはいないのだろう。軍議に出席している最中に攻撃を受けたとすれば、そこは今まさしく火の手が上がっている場所だ。


「敵の勝ち鬨は聞こえてねぇ。大将はまだやられてないってことだ」

「本部へ急がないと」

「分かってるっての」


 大した距離ではないはずなのに、走っても走っても本部に辿りつけないのが、ジゼルはとてももどかしかった。

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