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 夜の間に雨が降ったらしく、朝日は濃い霧のせいで霞んでいた。


「しばらくアンタの出番はねぇな」

「…この霧ではちょっと無理ね」


 起床後、平時と同じように戦う支度を済ませたものの、ジゼルは白い景色を見上げて少し肩を落とす。十歩先も見えないような視界の中で矢を射るなど、危険極まりない。下手をすれば味方を傷つけてしまう。


「敵も休んでてくれりゃいいんだが。そう上手くはいかねぇわな」

「ロルフだけでも前線に行く?」


 弓だけ飛び抜けて上手いジゼルと違い、ロルフはどんな武器でも扱えるし強い。盾兵のみならず、どこの部隊に配属されても活躍できるだろう。


「やめとく。霧が晴れたらアンタも出撃だろ。そん時、持ち場にいなかったら隊長サンにどやされちまうぜ」


 五百人の兵士から成るフィンレーの小隊は、遊撃部隊としての活躍を期待されている。ゆえに多少の融通が利き、本部の命令でなくともフィンレーの許しがあれば、隊員個人の意見が通ることもあった。もっともロルフの場合は、許可があろうがなかろうが我を通している。そんな性格なのでバルビール隊以外ではやっていけないと、隊員達から散々言われていた。


「フィンレーはそんなことしないわ」

「隊長サンは紳士ってヤツだから女には優しいだけだ」

「男性にだって優しいわ」

「オレは例外なんだろ」

「ロルフは男性でも女性でもないってこと?」

「アンタはオレが何に見えてんだよ…」


 五日目の朝は気の抜ける始まり方をしたのだった。




 濃霧の中であったが、敵は攻撃を仕掛けてきた。しかしアザン国の兵士達とて霧ごときに崩れるような、やわな鍛え方はしていない。いきなり敵が出現したように見えても、取り乱すことなく応戦している。

 後方で待機するジゼルは、剣戟の音を聞いていた。視界は白一色だ。姿が見えず、戦いの音だけが聞こえる状況というのは、不安を煽るものだった。何も見えない景色の中で、幼馴染が戦っていると思うと気が気ではない。今からでも剣に持ち替えて、戦うべきかと迷いが生じる。


「焦んな。隊長サンも待機中だろ」


 口を噤み、霧の中を見据え続けていたジゼルは、ロルフの声によって我に返った。

 ロルフは彼女が戦う真の理由を知っていた。ジゼルが皆に語っていた偽りの口実は、どうしてか彼にだけは通じなかった。嘘だと指摘された際、隠し通す意地も無かったため、ジゼルは問われるがまま教えたのである。その告白に対しロルフは「ふぅん」しか言わなかったし、口外しないでほしいと頼んでも「あっそ」だなんて素っ気ない反応であった。嘘を見抜かれたのも、関心がなさそうな態度をとられたのも、ロルフが初めてだったから驚いたものだ。


「…そうね。焦りは禁物だわ」


 騒つく心を落ち着かせるべく、ジゼルは小さく息を吐いた───直後、空気を裂く独特の音が耳を掠めた。


「頭を下げろ!!」


 いち早く反応したのはロルフだった。彼は白い空に向けて盾を突き出している。ジゼルの体は大きな盾の影になる場所へ、自ずと動いていた。ほぼ同時くらいに弓矢の雨が降り注ぐ。ロルフの持っている盾に、次々と敵の矢が食い込んだ。


「なんでこんな後方まで矢が来やがる!」


 弓の戦法は二つ。標的を絞って狙撃するか。弓隊を組み、放物状に大量の矢を放って足止めを図るか。ジゼルみたいな弓の名手がいない限り、戦場では数打てば当たるという戦法が多く見られる。特にこんな視界の悪い中では効果的だ。無数の矢に振られては、隊列などあっという間にばらばらである。


「前線が押し込まれたのか!?」

「……!」


 飛び道具には射程がある。ジゼル達が待機していた場所に敵の矢が降り注いだということは、前で戦っていた者達が突破された事を示唆する。瞬く間にジゼルの顔つきが変わった。


「…前へ行くわ」

「隊長サンを探す気か?」


 放物状に降ってくる矢に対しては、後ろへ逃げるより進んだほうが良い場合もある。だがロルフには、彼女が生存率を上げるために前進を選んだとは思えなかった。


「攻撃されているなら、守らないと」


 聞き返すまでもなく幼馴染のフィンレーを、だ。これ以上の問答は無意味である。彼女の横顔からそれを悟ったロルフの決断は早かった。彼は盾を構えたまま、後方の隊員達に向かって怒鳴るのだった。


「オレが合図したら馬を二頭引いてこい!お前らも出られるようにしとけ!」


 横暴な言い方だったが、彼の命令は副隊長が出ることを意味しており、誰からも文句の声が上がることはなかった。



 弓矢の雨が止む、ほんの僅かな合間が訪れるのを待ってから、ロルフとジゼルは馬に飛び乗った。


「少しは霧が薄くなったけどよ。見つけられる気がしないぜ」

「……」


 先程より陽が高くなり、徐々に霧も晴れてきているものの、未だ十メートル先も危うい状況だ。戦場は広く、フィンレーひとりを探し出すのは至難の業だった。それでもジゼルの双眼は幼馴染の姿を捉えようと必死であった。


「おい。あんまり前に出過ぎると…」

「…見つけた」

「マジかよ!?」


 人の姿など黒い塊が動いているようにしか見えないにも関わらず、ジゼルは幼馴染を発見したらしい。これには視力に自信があるロルフでさえも驚きを隠せなかった。


「……アレか?」


 ロルフは彼女の視線の先をなぞり、ようやっと見つけることができた。微かな陽光を反射する金色が、恐らく目当ての人物なのだろう。しかしロルフには確信が持てなかった。


「間違いないわ」

「あっそ」


 金髪の兵士なんて、そこらじゅうにいる。でもジゼルがあの塊をフィンレーだと言うのならば、それは正しいのだ。不器用で、鈍くて、度々ずれた発言をするくせに、こういう時の勘の鋭さはロルフも認めるところであった。女の勘という根拠のない特殊能力が、彼女にも備わっているのだと感じたことは一度や二度ではない。特に親友や幼馴染に関する事で、ジゼルの勘が外れることはなかった。


「じゃあ狙撃の場所を確保するぞ」

「………」

「聞いてんのか?」


 ジゼルは瞬きもせず、油断したら見失いそうな金色を目で追っていた。はっきりとは見えないが、フィンレーが苦戦していると直感した。フィンレーの剣の腕前は、訓練所を主席で卒業した程である。そんな彼が苦戦を強いられる相手、となれば敵は相当強い。

 戦いに絶対の勝利など無い。でも苦戦しているなら、勝利の確率は下がり、死が近づくことになる。ジゼルはあぶみから足を外し、あろう事か馬の背に立ち上がった。ここから狙うにはかなり距離があるので、強引にでも高さを作らなければ狙えない。今は距離を詰める時間さえ惜しかった。

 これに焦ったのはロルフだった。


「さすがにマズいだろ!おい!」

「………」

「聞いてねぇなクソ!」


 馬上に立たれては、ロルフが持つ盾は意味を成さなくなる。また、霧の中であろうとこんな目立つことをすれば、敵に見つかりやすくなってしまう。

 しかしどんな言葉も、もはやジゼルに届いていなかった。いつ幼馴染が斬られてもおかしくない戦況なのに、不明瞭な視界という最悪の条件が重なっている。全神経は敵を射ることだけに集中させなければならなかった。

 今のジゼルは何の音も聞こえない、静けさの中にあった。矢筒から一本とってつがえる動作は体に染みついており、頭で意識せずともできた。


「聞こえてっかバルビール隊!敵を近づけさせるなよ!」


 ジゼルが手放した手綱は、ロルフが握って制御する。こうなってはもう彼女が矢を射るまで、敵の攻撃が飛んでこないことを祈るしかない。

 ジゼルは弦を引き絞っており、あとは矢羽から手を離すだけだった。しかし幼馴染の姿は辛うじて判るのだが、敵の姿が捉えられない。見えるのは両者の剣筋のみ。彼女のこめかみから、一粒の汗が流れた。

 ジゼルの武器は狙い澄ました必殺の一矢。命中が難しいならせめて、フィンレーが有利になるような隙を作り出さなければならない。だが標的が見えないとなると、それさえも困難である。

 緊張が極限に達した時、不意に蘇ったのは親友の泣き顔だった。


 ───怖いわ…ジゼル。怖くてたまらないの……。


 大丈夫、と。ジゼルは無意識のうちに小声で返事をしていた。


(困難だろうがなんだろうが、やるしかない。約束したもの。わたしが何とかするって)


 ジゼルの放った矢は彼女の胸の内を反映するかのように、ひたすら真っ直ぐ飛んだのであった。

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