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里周囲の飢餓難民対策案 <C2558>

 桔梗さんと入れ替わりで事務棟に戻ってきた米さんは、鼻息も荒く言い切った。


「桔梗さんがしばらくいないだけで、目標数量を1000個も下げさせるなんて、どれだけ楽をしようとしているのよ。生産効率なんて全然減っていないのよ。皆、私以上に手早く作業しているのだから。むしろ型枠の数が足りないのに気付いたわ」


 どうやら生産数量は一向に減っていなかったようだ。

 ならば、工房としての生産数量が減っているのはなぜだ。


「それは単純に昼が短くなっているからですよ。夏の盛りの目標値をそのまま掲げているのですから、不満が出るのも当然ですけど、一回出来た実績を下げる理由がないのです。毎日ちょっとだけ昼間が短くなっているのですから、昨日できた量ができないとは誰も言えないのです。言い出した班は負けを認めるようなものですから。

 弥生さんは、何かの理由にかこつけて改める必要があって、あのように言われたのではないですか」


 春さんが義兵衛の質問に答えた。

 暗くなるのが早いのは確かで、夏至と冬至の日照時間は約5時間もの差があるのだ。

 昼間の時間が15時間と10時間だと、同じ生産効率とすると生産量で1.5倍もの差が出て当然だ。

 もし同じ日産量とすれば、冬場は最大1.5倍も効率を上げていることになる。


「なるほど、確かにそうだ。これは目標数量を時期によって変えたほうが妥当なのだろう。米さん、周囲の期待が大きい分、無理していることを言い出せない者も居るだろうから、そこを考えて季節毎、いや月毎に目標値を決め直してもらいたい。

 あと型枠は助太郎が残していった予備のものも投入して欲しい。足りない分は、助太郎に文を出して江戸で作ってもらおう。もっと必要になるのは先のことだろうし、小炭団の型枠なんか、真似されてもどうということも無い」


 義兵衛の指示を受けて、米さんと春さんが頭を突き合わせて帳面から数字を拾っている。


「義兵衛様、話を元に戻しますが、知行地を守るためにいろいろな所で余剰米を積み上げさせる策はどうなっているのでしょうか。

 今までの話だけでは具体的でないだけに、奉行所へ報告できないので困っています」


 安兵衛さんが小声で聞いてきた。


「里の四方、谷戸入り口に相当する村がある。そこで難民を足止めするよう米蔵を作ってもらうよう地道に働きかけて貰うしかない」


 義兵衛は絵図だけでなく、自分の足で歩いた場所を思い出すようにしながら名前を挙げた。


「まずは府中街道、川崎街道から山間に入る津久井往還道の入り口、登戸村だ。代官側で努力して備蓄してもらう分もあるが、椿井家が借りている蔵に積んだ米も供出する位のことはしても良いだろう。それから府中宿方面から多摩川を渡ってくる道筋には大丸村。ここも名主や寺に伝手があり、椿井家の米も別枠として備蓄できよう。

 それから、相州方面からの道筋では、一番近い場所として上麻生村が挙げられよう。王禅寺村から麻生川に向かっていく道筋にあるが、この谷戸の入り口を押さえておけば、そこから山沿いに入ってくるのは難しいと思う。確か、旗本・三井氏の知行地で、津久井往還道に沿った見晴らしの良い場所に館を構えていたはずだ。御殿様から話をして頂ければ、きっと判ってくれるに違いない。

 ただ、相州からの圧を考えるのであれば、もう少し相模川、境川寄りの場所にある村、確か図師村だったか、そこは要所と考えている。図師村は、旗本・田中氏の知行地だったかな。この辺りは爺様の方が詳しいので明日にでも聞いてみよう。しかし、こうやってみると、要所は御公儀の代官地ではなく知行地になっているというのは面白いことだ。

 頭に浮かべた様子をそのまま口にしたのだが、絵図ではなく正確な地図があったほうが説明しやすいと思う。

 そういった図が準備できないので、多分『金吾様(椿井家嫡男)を案内しながら、知行地の周囲を一緒に歩き回れ』と殿様は指図したのだろう」


 軍事教練では参謀候補を連れた教官が視察旅行など行っていた、ということもあったようだ。

 ただ、飢餓難民を相手にするということでは、軍事行動とは異なり敵を倒して御仕舞という訳には行かず、それぞれの窮状を汲んで対処するという難しい行動が要求されている。

 江戸市中とは異なり、土地を捨てて彷徨さまよう百姓相手では『御救い米を放出する』だけでは収まらない問題がある。

 もっとも、米が無ければ『米を放出する』という切り札もなく、肝心の里の百姓が飢えて地獄を見ることになるのだ。


「救いは、不作となる年・期間が事前に判っていること位かな。勿論、それだけではないのだが……」


 翌年が豊作か不作かが判っているだけでも、備蓄をどこまで取り崩して良いかの目安となり、安心感が全然違う。

 天明2年(1782年)から天明8年(1788年)の7年間さえ凌げればなんとかなる。

 そして、その7年間も全く米の収穫ができないという訳ではない。

 東北地方は全滅に近い状況のように伝えられているが、飢饉に人災部分もあるように思えるのだ。


「それだけではない、とは何のことでしょうか」


 安兵衛さんが喰いついてきた。

 義兵衛は話すべきか少し迷ったが、この際明かすことにした。


「うむ、実際の所この国の形は細長く、主要作物がどの地域でも一斉に採れなくなるということはあまり起きない、ということをまず知っておいたほうが良い。皆が等しく生き延びるに足る米は作れている、ということだ。そうであるにもかかわらず、飢饉で飢えて死ぬ者が出るというのは、最低必要な食物がそこへ届いていないのが原因とみて間違いなかろう」


「言おうとすることは、なんとなく察しまたが、この場で口になさらないほうがいいのでは……」


 聞いてきたのは安兵衛さんなのに、今更だ。


「いや、この工房の中で言う位は問題なかろう。なにより御公儀への不満を言っている訳ではない。

 それに、ここで米さんや春さんに知られたとしても、工房の外へ漏れる心配はない。

 それで、届いていないというのは……」


 義兵衛は、値上がりした米相場を見て米を売った大名の件、米を必要不可欠な食糧と見ず投機対象として買い占めした米問屋の件など、竹森氏から聞いた内容を話し、そして意見をまとめ締めくくった。


「最低限必要となる米が、必要な者にきちんと行き渡る仕組みがあり、それが正しく運用できておれば、飢え死にする者は確実に減らすことができるはず、と考えるのはおのれの分を超えているのだろうな。

 そういったことは、御公儀が考えて対処するものとして慮外においておき、まずは村で、そして身内で飢える者が出ないようにすることを優先させた結果が今の状況なのだ。いやまだ途中、まだ何もなしていないのに等しいのだがな」


『米という作物に依存し過ぎるこの藩幕体制・経済の仕組みを変えねばならない』という知識を授かっているのだが、どこでどう切り出していくのが良いのかの判断がついていない。

『途中』という言葉の先をどこまで安兵衛さんが判っているのかは知らないが、義兵衛自身もどこまで行けば終わりにできるのか、判然としていない。

 だが、ともかく天明の大飢饉で『腹が減って動けない』という事態を防ぐことが、自分にとっての天命であることで間違いはない。


「いえ、村々に充分な食べ物が備蓄されていることを、そしてそれが飢饉となった時の蓄えであることを皆知っている、というのが重要なのでしょう。

 また、これらが御殿様の主導で行われている、ということが重要なのだと気づきました。だからこそ『領民の保護がそこを治める者の務め』ということを教えても、ここでは何の違和感もなく伝わるのでしょう。

 ただし、これがどこへ行ってもそうだ、とは言えない所が危うい所ですね。

 とりあえず、今回報告する内容はこれで大体できそうです」


 どれくらいの頻度で、どうやって報告・連絡しているのかまでは聞ける感じではないが、内容については隠し事もないので気にはしていない。

 この時代の常識から少し外れている所もあるので、義兵衛としては報告を受けた御奉行様がどう反応するのかが少し楽しみになってきていた。


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