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里の教え <C2556>

 義兵衛が描いた絵図を爺様と安兵衛さんがじっと見入って声も出さない。

 いや、出せそうな雰囲気ではない。


「ええと……」


 義兵衛が描きながら発していた説明を打ち切り、沈んだうめき声を発すると、爺様が問いただしてきた。


「なぜこんな図が書ける。

 それとも何か、神がかりとなった時に得た知恵か。そうであろう、そうでなければこのような地形なぞ判るはずもない」


 そう言いながらも、入り口近くの棚を探りはじめ、やがて1枚の大きな紙を取り出し、机の空いている所へ広げた。


「これはな、武蔵国全図という地図じゃ。左側の橙色の所が江戸で、海に沿って上に行った所に多摩川の河口がある。

 その上流、橘樹郡と都築郡、そして多摩郡の交点近くの橘樹郡側に『金程』『細山』『下菅』、都築郡に『万福寺』と書かれている所が我が知行地という認識じゃ。

 都築郡より先の空白となっている場所は相模国だが、こちらの地図は持っておらぬ。ただ、武蔵国と相模国の境は、豊臣秀吉公が『境川をもって境と成す』と言われてから変わっておらぬ故、お前の書いた円弧と似てはいる部分はあるが、海とはつながっておらず、そこが不可解だが、まあそれは良い。多分、武蔵・相模の国境の基準が川というのが途中から変わっているのだろう。鎌倉が近いこともある故、何か特別な扱いでもあるのだろう。

 それで見ての通り、武蔵国全図では村の並びが実際とは随分違っておろう。机の真ん中にある知行地の模型とは位置が合致せぬ」


 義兵衛は初めて見せられた武蔵国全図を子細に調べ始めた。

 安兵衛さんは義兵衛から矢立を取り返すと、手元の帳面に何やら猛烈な勢いで筆を走らせている。


「義兵衛の要求は相模国の国境より下側、多摩川・日野川の左上側の所についても、机の上の模型をこの全図並みの規模でこさえよ、という理解で良いのか」


 爺様の問いに義兵衛は武蔵国全図から目を離さずに浮ついた声で応えた。


「いや、そこまでは無理でしょうが、せめてこの全図の村々を正しい場所に並べ直す位のことはして良いのかもと考えました」


 全図には主要河川と主要街道の記載はあるが、津久井往還道など知行地にかかわる主要道や近隣と連携する道は書き込まれていない。

 くねくね道が直線で描き込まれていたり、その逆に直線的な場所が曲がっている道で結ばれていたりする。

 これも、村の位置が正しく配置されていないことの弊害に違いない。

 特に山間部がひどいのは、高低差で坂道となった時の村間の距離が正確に測れていないからではないかと推測される。

 歩測だけで補正しないと、どうしてもこうなってしまう。

 もっとも、進軍や運搬では、歩測した結果のほうが正しいのだから、用途によってはあながち間違いとも言えない。


「それはまた難儀なことを。

 全図全体の形はともかく、河川や街道の位置がずれておるのがそもそもの原因であろう。改めての測量など、御公儀の仕事だが、どこをどう押してもそんな金は無いに違いない。下手をすると、それぞれの旗本・代官に『一定基準に基づいた精密な絵図を出せ』という通達を出して負担を押し付けるのが見えておる。

 だからこそ、当家では周囲の村まで判れば良いとして、この模型を大事にしておる」


 爺様の言い分は判った。


「理解しました。『旗本知行地としてできる範囲で』というのは当然です。

 それで、この模型ですが、土地の高さは少し誇張されていませんか」


「傾きを実際に近づけると感覚と合わぬゆえ、模型では高さの縮尺を変えるのが当たり前であろう。

 川沿いで壁のように見える崖が続いているはずのものが、縦横と同じ縮尺では全く判らぬ。おおよそ100倍程にも誇張しておる。 実体と照らして点検する時は、道具を使うのだが、その時は高さが違うということを意識している。

 それで、ほれ。これが模型の点検道具じゃ」


 爺様は太い煙管のような筒を差し出してきた。

 筒の先には小さな鏡が付いていて、鏡を地面近くまで差し込んで覗くという使い方をするらしい。


「手前の山影の特定の場所から向こう側の山の特徴的な部分が見え始める場所、という点を揃えることで高さを合わせている。問題は無かろう」


 上手い方法を考え出したものだ。

 特徴となる場所を起点に手前の山の形・高さが地図上に反映させられるし、逆に手前の山の特定の場所を起点に向こう側の山の形・高さが反映させることが出来る。

 こういった複数の条件を満足する点を沢山重ね合わせ、随分の時間と手間をかけて模型を作り上げたことが見て取れた。


「椿井家の知行地であればこそできた模型ということが良く判りました」


「うむ、お前の言う所の地図はこれで良かろう。ただ、これは原型であり、安易に扱ってはならぬ。何か加工する場合には、まずこの模型を写し、写した模型を使うようにせねばならぬ。」


 オリジナルを変えるような加工は避けるという原則は良く判る。

 それほど貴重なものなのだ。


「一介の旗本・椿井家がこのようなものを持っていたというのは驚きです。

 先ほど『どこでも似たようなものを持っているはず』と言われましたが、とてもそうとは思えません」


「確かに、模型までこさえている所は椿井家だけかも知れぬが、正確な絵図は持っていて当然であろう。それが無ければ、新田開発も何も、手の付けようもなかろうに。

 今では蔵米取りの旗本ばかりゆえこういった道具や絵図に縁がないのかも知れぬが、土地を治めるというのはまずもって測量からであろう」


 いたって正論である。

 土地を測量し、そこで暮らす人々を把握し、生産物と量を押さえ、その上で税を取り、集めた税を使って領民を保護する、というのがまつりごとの一つの基本なのだ。

 知行地を持つということが、こういったことへの責任を負うということであり、それを忘れて収入となる年貢だけを意識している旗本に繁栄する将来はないと言えよう。

 果たして、知行地を治めるということについて、義兵衛が思い浮かべたことと同じ内容を爺様は安兵衛さんに説明し始めた。

 実の所、寺子屋での最高学年・最終年齢の頃になると、こういった内容が教えられるので、殿様だけでなく百姓も含め皆この理屈は知識として知っている。

 ただ、こういった知識を領民が持つというのは治める側にとっては危ういことでもある。


「こんな事をここでは寺子屋で皆に教えているのですか。それで大丈夫なのですか」


「領民が知っているということを治める側が知っていれば、さほど難事ではない。

 甲三郎様が皆を新田開発に従事させた時も、義兵衛達が工房で木炭加工に子供等を誘った時も、年貢を使って領民保護を実現させるためと理解しておるのですんなりと賛同させることができた。他領と比較すれば違いは直ぐに判ろう。理屈っぽいので、ここの百姓は他から疎んじられるし、ここを治めるのは存外に難しいという評判は領地替えを阻む要因ともなろう。なにより皆、殿に懐いておるからな。

 領民一律参加の寺子屋の制を、どんなに家計が苦しくても止めることをせなんだのは、殿様の良い判断であった。実の所、ワシは止めるよう進言したこともあったのだがな」


 話が寺子屋の制への礼賛一色に染められていくのを安兵衛さんがげんなりとした表情で聞いている。

 この話は上司である御奉行様への報告に困る案件なのだ。

 爺様の長い昔話が終わる頃には、筒を覗き込んでいた義兵衛の確認もすっかり終わっていた。


「この模型がとても正確に出来ていることに驚かされました。これを使えば、飢餓難民をどう誘導するのかを決めるのは容易ですね。

 もっとも、里へなだれ込むような難民が出ないように、また出たとしても周囲の村に留まるように画策するのが事前にできる策でしょう。そのためには、周囲の村々にも飢饉に備え余剰米を蓄えるよう上から進めるよう働きかけ、また名主達にもそういった意識を持たせることが重要ですね」


「うむ、その通りじゃな。幸い『高石神社の巫女が語った神託が御老中様までに届き、信じられる内容だった』という噂が今になって広がっておる。それをひそかに後押ししていたのが利いてきた感じではあるのだがな」


 爺様のすることに抜かりはないようだ。

 そうこうする内に、この場では義兵衛が多摩丘陵の概要図を描いたことについては有耶無耶うやむやの内に終わってしまった。


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