館の爺様の判断 <C2550>
■安永7年(1778年)10月10日(太陽暦11月28日) 憑依269日目 晴
昨夕のことは、義兵衛の禁足が解けることを期待して結局様子見ということで納得してもらい終わった。
今日早朝に助太郎が出立ということもあり、それ以上に話を進めることができなかったというのが実情なのだ。
工房では茶粥を食べ終えた寮生達が、寺子屋開始前の時間を利用して生産を始める準備を始めている。
寺子屋が始まる頃には、寺子屋を卒業した若年層の者が入れ替わって練炭の生産活動の主力となり、午後にもなると寺子屋を終えた子供達が生産に加わるのがいつもの風景となる。
ただ、今日の朝礼からは、そこに梅さんの姿はなく、また助太郎も抜け、弥生さんが仕切りを行っている。
その時、義兵衛と安兵衛さんは米さんを連れ、助太郎と梅さんに同行し、まずは館に向かっていた。
「出立の御挨拶に参りました」
助太郎の言葉に鷹揚に館の爺様は頷き、そして館の門から荷駄の列と一緒に助太郎は登戸へ向かって歩き出した。
「見送り苦労」
爺様は義兵衛にそう声を掛けたが、一向に畏まらない体に小首を傾げた。
「御相談があり、関係者を連れ一緒に参りました」
爺様は門脇の番小屋に義兵衛を通し、そこで白湯を振舞われた。
義兵衛は昨夕にあった米さんの願いとそれを実現する方法、細江家の養女にする案を説明した。
「うむ、本来は曲淵様と安兵衛殿からの内諾があってから、殿の了解を得てから進めるべきものであろうな。順序を違えるとおかしなことになる。
だが、とりあえず細江家で米さんを養女とすることには問題はなく、時期だけの話となるかな。直に商家の華さんが里へ来て正式に義兵衛の嫁となる。それより先に養女とするのは都合が悪かろう。
工房の代表として義兵衛がおり、要である米もワシの孫娘ということであれば、細江家は大きな後ろ盾となろう。殿のお役目を支えるには充分な形じゃな」
なんとなくは判るが、目的は米さんが安兵衛さんの内儀となることなので、細江家は名前だけ、実際には曲淵様の家臣の所へ嫁入りすることになるので、工房を掌握する感じではない。
「ただし、米はいずれ工房から抜けるのだが、それにより椿井家の実入りが減ずるということはないのか。今、当初より工房を支えていた梅が抜けたばかりであろう」
「今から直ぐ江戸に行くということであれば確かに影響は出ましょうが、私が禁足されている間、安兵衛さんはこの里に居ることを強いられます。曲淵様から現在のお役目を代えるということであれば、江戸へ戻ることになりましょうが、勝次郎様だけ江戸に呼び戻されたことから考えると、今の所そういった気配はないかと思われます」
この所気が合っていた勝次郎様が『安兵衛を是非江戸に』と言う可能性はあるが、御奉行様としては義兵衛に誰か張り付けておく必要性を感じているに違いなく、安易に別人をあてがうようにも思えない。
ただ、米さんを内儀として迎えるならば、里との癒着を心配する向きもあろうから、配置換えはあり得る。
もっともその場合、米さんの願いは叶えられた後なので、そこから後はあまり考えても仕方ない。
いや、これは数日前に弥生さんが無知にした『工房の娘がどこかへ嫁いだ場合、仕事を辞めるのか』という話と同じである。
そう感づいた義兵衛は、言葉を継いだ。
「今工房で働いている娘達も、いずれどこかへ嫁ぎ赤子を設けます。そういった場合に、工房の仕事をどうするのか、という話は工房内にも出ております。同様に里へ嫁いでくる者の扱いも明確になっておりません。
いずれにせよ、今年の夏から寺子屋の組を上手く使って工房を動かしている次第なので、これから制度を整えていくことになります」
その話が工房の事務棟で出た時も同じようなことを考え、そのあと煮詰めるようなことはなかったが、実の所大問題ではある。
一応、男達は寺子屋を出た時点で工房での仕事は終わりとなり、希望があれば継続的に働いてもらうことにしている。
人手はいつでも不足しているので、農閑期には大人達も出入りしてもらった。
ただ、もっぱら力仕事である粉炭作りや製品の運搬に従事してもらっている。
非常に安価ではあるが、手当相当を支給したり、労働力を工房付けとして年貢分の軽減や、5季毎に米穀支給という形で精算する方式を取り入れている。
まあ、臨時雇いの感じで、それでいて出来高による日当・年俸・月報(隔月払い)制を選択してもらう形にしている。
娘達は、仕事が屋内で粉炭から練炭に形成する熟練を要する作業であるため、基本的には実家から引き離し工房横の寮に住んでもらっている。
基本的に寮に住むことができない事情がある者は、工房で働くことを遠慮してもらっている。
「工房で働いていた者達が、他領の村に嫁することで、練炭作りの技術が広がることを心配する必要はないのか。人は容易には増やせぬゆえ、そのあたりもどう考えているのか知りたい」
「はい、金程村の工房の強みは娘達の頑張りもありますが、これだけの量産をしながらも一定の品質を保っている所にあります。
工房の運営や品質管理という肝の所は、何人かが協力しながら作り上げるものなので、なかなか真似できないものと思っております。
新規に工房を興すならば、最初からかかわっていた米さんと梅さんの両人が揃って初めてどうにかなる程度であり、普通に作業している娘が一人や二人、引き抜いた所でどうにもなるものではありません」
義兵衛は、名内村への技術移転と佐倉藩・木野子村での工房立ち上げで苦労した点などを説明した。
「いわゆる金程村水準の合格品を大量生産できるようになるには、要点を熟知している私か助太郎が指導するのが一番の近道なのです。
あと人員の増減ですが、基本的に寺子屋で学ぶ者を工房での生産にかかわって貰います。寺子屋で学び終えた者は、それぞれの都合で継続的に働いてもらえれば良いかと。そもそも、これ以上の拡大は里としての手に余ります」
「うむ、おおよそは理解した。
それから、米を養女とする件についてワシは納得したが、そうするにはまずは殿にも相談が必要であろう。ただ話の具合では、まずは殿の養女とする可能性もあろう。助太郎・梅・米が揃えば、金程並みの練炭が作れるとなれば、椿井家としても先に紐を付けておくべきと考えるかも知れん。
米、こういった訳で武家の養女とする件は概ね了解じゃ。安兵衛殿、あとは貴公がどうするかにかかっておるゆえ、覚悟を決めて機会を待つことじゃ。
人員の増減については、もう少し長い目で見る必要がありそうじゃな」
判ってもらえた様ではあるが、工房の将来を考えるにあたり、人員動員をどうするのかという課題を与えられた義兵衛は俯いた。
館から工房への帰り道、義兵衛はつい愚痴を声に出してしまった。
「一番相談したい時に、助太郎も梅さんもいなくなるなんて」
米さんが明るい声で応えた。
「大丈夫ですよ。梅さんが仕込んだ弥生さんがおりますし、なにより春さんがおります。春さんの先を読む力は私なんかに比べ確かなのですよ。ちゃんと条件を伝えれば、きちんと答えを出して準備してもらえます。工房がきちんと回るのも、春さんが先手を打っているからで、もし春さんがいなければ10日もせずに工房の生産は止まるでしょうね」
工房の主は米さんと思っていたが、米さんに言わせれば黒幕は春さんとのことだ。
思えば、製造業で一番重要な物流管理、主に生産計画と購買・出荷も春さんが握っている。
大きな方針判断は助太郎が行い、それを具体的な形にして米さんが適宜適切な場所へ指示し、人員管理を梅さんが行う体制で始めたのだが、数字に強い春さんを製造ではなく経理畑に異動させてやっと安定した体制となったことに今更ながら気づいた。
「弥生さんが梅さんの後釜になっていますが、米さんや春さんに代わる方は居るのでしょうか」
安兵衛さんはボソッと口にしたが、義兵衛はこの問に答えを持たず、寒空の下でじんわりと汗が噴き出す思いをしていた。




