手代頭・六助との話 <C2523>
「井筒屋の手代頭を務めております六助と申します。義兵衛様のことについては、主人・伝兵衛より伺っております。『今回の現物取引は異例である』とのことで、六軒堀の店は番頭に任せ、主人は数日前から是政村へ出向いております。
義兵衛様はこれから府中宿に行くのであれば、私が供となり先導するよう番頭から申し下されておりますので、是非同行させて頂きたく、よろしくお願いします。
なお、主人は是政村・名主の河邊五郎兵衛様宅に滞在しており、もし同宅でも良いのであれば部屋はあるので、一緒に滞在することもできるそうでございます」
井筒屋の六助さんの話だと、宿の件も含めて一挙に片付きそうな気配になってきた。
こうなってくると、府中に先行した伝令達は無駄足になったとしか思えない。
「明るい間は限りがありますので、早速にでも参りましょう。井筒屋さんや現地・是政村の状況は道すがら伺いすればよいと思います」
安兵衛さんは、急ぎ出立の準備を始めた。
義兵衛は千次郎さんと忠吉さんに挨拶を終わらせて日本橋・具足町の萬屋を後にした。
今まではあまり気に留めていなかったため見逃していたが、安兵衛さんが行先の連絡手配を手早く済ませている。
まずは京橋を渡り、芝口橋で折れて御堀・溜に沿って進み、赤坂御門近辺から四谷御門、四谷大木戸を目指す。
四谷大木戸までで1里半(約6km)で、そこから是政村までは6里(約24km)の距離がある。
全行程で7里半、3刻(6時間)程かかると見ていた。
六助さんを真ん中にして、左右を義兵衛と勝次郎様、後ろを安兵衛さんで固めて急ぎ足で、それでも小声で話をしながら進む。
義兵衛は気になっている点を真っ先に尋ねた。
「500石の籾米はどのように集められたのでしょうか」
「実の所、是政村と、それに隣接する押立村の年貢米を充てました。不作の可能性もあったので、その2つの村の間にある小田分村(現:府中市小柳町2丁目)の天領分と、そこから北の甲州街道に沿う常久村(現:府中市若松町1丁目)の年貢米も今年は特別に籾米で徴収することで進めていました。結果は平年作並みであったため、是政村と押立村の御蔵入高(年貢)をまとめるだけでお約束の500石は充分足りましたが、それを超えて集めた36石と、念のため押さえておいた小田分村と常久村の御蔵入米136石、合わせて172石の籾米がそのまま残ってしまい、こちらも井筒屋の責で玄米に替えて納めるのか、それに相対する現金で納めるかを迫られております」
ちなみに、是政村は900石で御蔵入高は360石、押立村は440石で御蔵入高は176石、小田分村は180石だが旗本・神谷家が110石分を所領として与えられており代官が差配できる70石に対する御蔵入高は28石、常久村は270石で御蔵入高は108石である。
なお、村毎の年貢は出来高に寄る検見法ではなく、平均取れ高を基礎とした定免法で決まっているため、作柄には寄らず農民から奪取できる。
そのため、井筒屋の手代頭・六助さんが作柄を理由に『充分足りた』というのは、何か気になってしまった。
「いえ、暴れ川の多摩川が氾濫し、両村の米の収穫が大凶作に相当する3割程度になってしまった場合でも、お約束の500石を確保する目的で常久村の籾米を押さえたに過ぎません。小田分村は、たまたまこの3村に接する場所であったことから、巻き込んでしまった、というのが実情です。
是政村と押立村は多摩川に張り付くようにできている田が多い村ですが、常久村は段丘の上に広がる村なので、流石の多摩川が氾濫しても飲み込まれることがありません。ただ、ここから廻せる籾米が100石程度しかないので、手の打ちようが無かった、といった所でしょうか。
もう故人となってしまいましたが、押立村で名主から代官に大出世なされた川崎平右衛門という方がおられました。南北の武蔵野に幾多の新田を開くという功績を残されております。押立も元々石高200石程度の村でしたが、この新田開発で440石もの石高となりました。新田開拓の折の南陣屋が関野新田・小金井村にありますが、手代として使われていた押立村出身の高木三郎兵衛様が多摩川の改修にあたる際に仮長屋を押立村に置き、そこから差配した、とも聞き及んでおります。そういった経緯もあって、勘定奉行配下のお代官様の協力を仰ぐには、押立村の代官・手下にきちんと話をしておく必要があったのです」
どうやら、この地域で無理をしようとするには、上からだけでなく下側の御役人様を攻め落としておく必要があったようだ。
更に聞き出すと、是政村で名主を輩出していた三岡家(当主は三岡安右衛門)の分家にあたる三岡源太郎家の平助などの当主が「野廻り役」や「材木蔵同心」「八王子千人同心」などの下役を務めていることがあり、こちらもかなり助けてもらっていたようだ。
「是政村の名主は、河邊五郎兵衛と申しておりませんでしたか。三岡安右衛門とは違いますが、これはどういったことでしょうか」
安兵衛さんが鋭く突っ込んだ。
「ああ、是政村は他の村とちょっと違う事情があるのです。
そのあたりは、今夜にでも五郎兵衛様にでもお聞きください。うんざりするほど教えて頂けますよ。
そもそも村の名前である『是政』からして、人の名前なのです。
小田原北条氏・氏照の家臣であった井田是政氏が、小田原北条氏滅亡に伴い帰農し、横山と呼ばれていた地を開拓したのが始まりです。その名前である『是政』が村の名前で、その子孫である井田佐兵衛も有力豪農として村内に居を構えております。
村に名主は必要ですが、石高900石もある村だと、よほどの手腕がないと手が足りず、その結果どうしても数人の有力者が出ましょう。是政村の場合、それがほぼ拮抗した勢力なので、有力者が一定期間名主や代官の手代を務め、当主の年齢や経歴・手腕を見て合議制でこれを禅譲する、という普通では考えられないやり方を取っているのです。
『権威として村内に居るが、権力を振るわない井田家の存在が大きいのでは』と主人・伝兵衛は申しておりました」
井筒屋の手代からの又聞きなので、どこまで確かなのかは解らないが、それでも勝次郎様や安兵衛さんから見れば驚愕する話だったようだ。
しかし、民主主義や立憲君主制といった知識を得ている義兵衛としては特に驚く話でもない。
4~5人が平等に代表を選ぶ権利を行使している状態なのだ。
ただ、確かにこの時期として能力主義で代表を選び出すという考えが自発的に出来上がっているのはとても面白い。
このあたりは、名主・五郎兵衛に聞くしかないだろう。
手代が『うんざりするほど』と言う程なのだから、一晩で済むとは思えなく、相当の覚悟が要りそうだ。
それよりも、井筒屋が背負ってしまった籾米172石分をどうするのか、が気になってしまった。
「ところで、六助さん。集めて余った172石もの籾米を、井筒屋ではどのように処理なされる御積りなのでしょうか」
「主人・伝兵衛から思惑を聞いておらず、私には良く判りません。ただ、10月初旬中に御公儀の勘定方へ672石分の御蔵入高(年貢)に相当する金額を納めねばなりません。『期末払いの証文では受け取らぬ故、必ず金子にて納めよ』と言われておるそうです。
この金額が幾らになるのかは聞いておりませんが、主人が金策に苦慮していたのは確かです」
萬屋から振り出した証文を早々に本両替へ持ち込んだのは、この金策の一環に違いない。
約2カ月分の利息と手数料を割り引かれるため、利息分を5分としても30両ほど引かれて440両を手にしていることが推測される。
これで不足する金額はどの程度だろうか。
もし、安価に買い叩くことが出来るのであれば、思い切って江戸での現金渡しで全部買ってしまうのも手かもしれない。
ただ、買い取ってもこれを里に送り込むことができなければ意味がない。
「籾米172石となると、何俵くらいになるのかなぁ。
500石で1850俵なのだから、概算で650俵というところか」
思わず口をついて出てしまった。
合わせて2500俵となると、里に新設した3つの蔵の収納能力1500俵では足が出てしまう。
こういったことを考えるうちに、甲州街道から外れて是政村に向かう上染屋(現:府中市白糸台1丁目)まで来てしまった。
是政村まで四半時(30分)もかからない距離となっている。




