算盤準2級と数Ⅰ統計の世界 <C2515>
数値を求める手順自体は読み飛ばしてくださっても良いです。
「計算を始める前に3桁ほど上の場所に1を置いてください。それで計算が終わったときに、その桁に1が残っていれば、算盤に残っているのが正の数で答えとなります。その下の桁から9が続く場合は負の数です。算盤に残っている数にいくつ足せば0になるかが答えとなります。
ちょっとややこしいのですが、全部の桁を9にするための数に1足したものが答えに相当します」
義兵衛はそれを算盤でやって見せた。
横差の計をする時に、合計が負の値になることもある。
結果が上の方から9が続く形で終わったときに『これが補数』と頭の中で竹森氏がつぶやいた。
しかし、これを口にするとややこしくなりそうだと思った義兵衛は、黙ったまま負を示す黒三角印とともに算盤から数字を拾って書き出した。
「要領はもうお分かりですよね。途中で判らなくなったり不安に思った時は遠慮なく声をかけてください。間違えるよりはマシです」
後はもう黙って算盤操作を繰り返していく。
この表を埋める頃にはすっかり昼となってしまった。
手早く昼膳を使うと、休む間もなく次の計算の指示をする。
「横差縦差乗計を二乗し、これから横差二乗計と縦差二乗計を乗じた数で割ります。そして、横差縦差乗計の正・負の印をその値に付けます。これが相関の目安の値となります。
本来は横差縦差乗計を二乗せず、横差二乗計と縦差二乗計を乗じた数を開平方した数で割ればよいのですが、開平方は難しいのでそれを避けました」
手順は正しいと思っているが、それで良いのかの確認作業なのだ。
どうしてこの手順なのかは、義兵衛、いや中の竹森氏も原理は知らず、うろ覚えの式から引っ張り出したものなのである。
正式には『共分散』を、『横標準偏差』と『縦標準偏差』を乗じて平方根を出した値で割ったものになる。
やっていることは西洋式の数学がベースとなっているので、見る人が見れば南蛮臭く、伴天連の一味と思われてもしかたない感じとなっている。
出てきた数値と、うろ覚えの相関値を見比べて、どうやら計算方法は合っていることが確認できた。
もっとも、0.6は0.36と二乗した値になっているが、これは仕方ない。
「この数字が相関の程度を表す数字です。実際の相関値は開平方した値ですが、ここでは目安として相関値の二乗されたものを使っても良いと考えます。なので、目安値で5割というのは実際には7割に近い相関値で、正相関・逆相関でも目安値が5割を超える値であれば、関係があると言っても良いことになります。
例えば、善四郎さんと食通の方でそれぞれ同じ仕出し料理の採点を数店舗位してもらい、この相関値を出します。1に近いほど、食通の方の評価は善四郎さんに近いと考えられます。つまり食通の方の評価する他店舗の採点結果も、善四郎さんと似ていることが推測されます。そういった食通の方の評価結果を、相関の値に照らした重みを付けて各店舗の評価に重ねていくことで、それなりの評点が算出できるのです」
義兵衛の説明に安兵衛さんが答えた。
「散々算盤を弾いた結果で得た数値なのですが、今の説明ではどうにも納得できないです」
「当然のことでしょう。実のところ私も理屈をさっぱり説明できません。しかし、この数字が役に立つことは間違いありません。5個の点の並びをひとつの数で評価できるのですから、これを使わない手はないと思うのです。
それで、実はこれで終わりではありません。もうひとつ重み付けする項目があるのです。
それは、回帰直線の傾き係数です」
うんざりとした顔を見せている二人を尻目に、義兵衛は紙に傾きが異なる2本の線を引いた。
原点を起点に、それぞれ傾きが1.2と0.8となるように伸ばす。
「先ほどの相関は、善四郎さんと食通の方の採点の類似度合いを示す値だったのですが、傾き係数は採点の具合を調整するための値です。例えば、2人の食通の方がいたとします。この二人とも善四郎さんの採点傾向が同じだとしても、大げさに採点する方と微妙な差で採点をつける方がいるかも知れません。そのまま合算してしまうと、大げさな採点の占める割合が大きくなり、正しく反映できているとは言えない状態になると考えます。
そこで、この線の傾きを出して、その逆数を採点値に乗じることで補正を行うものです。
具体的には、縦差二乗計を横差二乗計で割り、それに先ほど求めた相関の目安値を乗じた結果を出して、開平方します。その逆数が補正値となります」
この説明に勝次郎様が呻いた。
「どんな順番でどう計算していけば良いのかは判りますよ。でも、もうさっぱり、何がどうなっているのか判りません」
今していることは小中学校で習う算数の世界ではなく、高校から出て来る数学の世界なのだ。
実の所このギャップは意外に大きく、安兵衛さんや勝次郎様がいくら優秀でも、そうやすやすと理解でるとは思えない。
「はい、実のところ理屈はさっぱり説明できません。ただ、手順はわかっているので、実際のところを試してみるしかないのです。
沢山の計算をする必要はありますが、私が説明した手順通りに算盤を弾いてそれなりの結果が出さえすれば、善四郎さんは納得するでしょう。いや、言った手前、納得させますよ。そのために宿題を出したのですから。
あとの理屈や、この技術は他にどう生かせるかは、私ではなく算学者にお任せすれば良いのです。
勝次郎様と安兵衛さんが黙ってさえいれば、曲淵様に紹介して頂く算学者に手柄を丸投げで良いのです」
多少の道具を作った所で、計算が楽になる訳ではない。
特に開平方の所はやっかいなのだが、得られる値は少数以下2桁程度の精度があればよいのだから、実際に使う時には0.1から2.5程度までの解で0.01刻みにした乗数の一覧表を作成しておいてそれを逆引きすればよい、と思いついた。
更に、逆数を使うこともはっきりしているので、これも同時に一覧表へ追加記述しておいても良いだろう。
ただ、今の時点では感覚さえ伝わればよいため、それほど細かい刻みを使う必要はなく、本番までに用意すればいい。
「開平方と補正値となる逆数は、先に一覧表を作っておくと便利だと思います。厳密に考える必要はないので、開平方の結果が0.1刻みになる表を作りましょう。これは勝次郎様にお願いしますよ」
義兵衛は新しい紙に、1割(0.1)から1と9割(1.9)まで0.1刻みの数字を縦に20個並べて書いた。
「隣に二乗した数、その隣にこの値を1から割った数を書いていってください。厘の単位(小数3位)まで出せば、後は切り捨てで良いです。最初の1個は私が書きましょう。一分と一拾です」
義兵衛の作った表に、勝次郎様は算盤で弾いた数字を書き加えていくが、負の数が登場しないので進みは速い。
その間に義兵衛は先に描いた2本の線から、適当に5点ほど座標を抜き出し、それを転記した。
傾きは判っているので、計算の結果がこれと一致すれば手順があっている傍証になる。
「さあ、もうひと頑張りしましょう」
安兵衛さんと義兵衛で手分けして、先に行った手順で紙を埋めていく。
そして、勝次郎様に頼んだ表が出来上がる頃に、義兵衛は計算を仕上げ、傾きが1.2との結果を得、そして、安兵衛さんの計算結果が0.8と出たことで、一応手順に間違いないことが確認できたのだった。
「これで一番手のかかる手順の確認は終わりです。後は、実際に善四郎さんと食通の方の評価を何点か出してもらい、実際に使い物になる結果が得られるか、その結果に善四郎さんが納得できるか、ということになります」
勝次郎様は安堵の表情を見せたが、安兵衛さんは追求の手を緩めなかった。
「もし、納得できないとなれば、どういったことになりますか」
「その場合、評価自体に何か違うものが混ざっていると考えます。覚えておりますか。善四郎さんに宿題を出したことを」
「ああ『料理や料亭を評価する項目を4~5個教えて下さい』と言っていた件ですね。確か『料理・料亭を順位付ける鍵』ともおっしゃっていたような」
「そうです。各項目の重みを変えていけば、必ず合致するところが見出せます。そのためには、あきれるほど同じ作業を繰り返す必要があるのですけどね」
手作業でシミュレート作業をすることになるのだが、これを繰り返す内に手順に慣れるに違いない。
こうして一通りの手順確認を終えたのだが、もう暗闇が迫る頃となっており、二人はそのまま奉行所へ引き上げていった。
その夜、義兵衛は切片がある場合でも、この手順で傾きが正しく求まるか、こっそりと検証したのは言うまでもない。




